西木正明 『冬のアゼリア』大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画

8月15日終戦記念日、今年は戦後60年の節目にあたる。その日、小泉首相が発表した談話は「かつて植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」と歴史認識を表明し、反省と謝罪の意を改めて明示した。中国・韓国との関係が悪化した中でアジア外交の修復するための内閣の姿勢として妥当だと思う。

2005/08/17

一方韓国では今日を「光復節」(日本の植民地支配からの解放記念日)と呼ぶのだそうだ。ノ・ムヒョン大統領は直接の日本批判である竹島領有権や教科書問題などに触れることなく国民統合の必要性を訴えたようだ。ここにも日韓関係をこれ以上悪化させたくない気持ちが働いたものと思われる。
日韓併合当時の光復運動、抗日闘争をテーマにしたこの作品をたまたま読み終えたばかりだから複雑な思惑の結果であろう政治舞台のこの一コマを関係修復の重要な第一歩と素直に受けとめた。

朝鮮人過激派による「大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画」と実にきわどい内容を扱っている。いかようにもとれる読みかたがある小説だろう。

この物語には第一次世界大戦後、あらためて列強の覇権争奪がスタートし、それぞれに都合のよいパワーバランスを形成しようとする背景がなまなましく描かれている。その巨大なうねりと朝鮮独立運動を密着させてこの事件を創造しているのだが、その一翼にあった義烈団の反日テロ活動もほとんどが実話のようである。しかも各国の政府要人は肉声が聞こえるような人物描写で、それがたくみに織り込みまれているから、この物語を本当にあった政治外交の秘話であるように見せ、それが不自然ではない。
加えて海外各地の風景の描写がすばらしい。この手の実話小説には地図をなぞったようなおざなりの表現が多いのだが、冒頭のパリをはじめソウル、上海、香港など丁寧なディテイルはいよいよその迫真性を際立たせている。とくにテロの首謀者・金元鳳(実在)の故郷であり、一方の主人公である警察官・楠田の勤務地でもある密陽の風景には色彩ばかりでなく匂いや温度を感じさせ、自然のかなでる音まで聞こえるような感性のあふれる描写である。

平成14年の作品であるが、当時よりも日本と朝鮮の間は緊張度が加わっており、生臭い主張があるのかと思われたが、著者は冷静であった。
金元鳳について言えば必ずしも日本の圧政に対する怒りとか民族独立の志の高さを肯定的に描いているわけではない。ただ、朝鮮独立運動にも親米派と親ソ派があって、その政治力学に揺さぶられながらテロに走った、若いエネルギーが空転していく哀れさが印象に残った。

朝鮮併合の是非論を直接に問いかけるものでもない。警察官・楠田28歳。朝鮮を支配する権力機構の末端にあって職務に忠実なまじめ人間だ。その男が密陽にある大衆食堂の女将に惚れる。この女将は抗日活動のシンパであり、少年時代の金元鳳を可愛がっていた。日本人の特に警察官を嫌悪する女は彼を「倭奴」と蔑称をもって迎えるのだ。活動の内部情報に詳しい女なのだが、彼は利害抜きに単純に惚れる。両者を隔てるはずの状況の中で惚れぬく。愛とか恋という声高な心理ではないがこれはまさしく恋愛小説といってよい。「男の純情」と言えば使い古されたテーマだろう。今はもうはやらなくなったこの忍ぶ思いがとても新鮮で胸を打つのだ。ふたりのラストも美しく印象的だった。密陽では春から夏に咲き乱れるという。「冬のアゼリア」とはこの小説ではテロリストたちの符丁として使われているのだが私には奇跡的に成就した楠田の思いを表現しているのだと思われた。

繰り返すようだが、いま相互の国民感情が抜き差しならない状況にあるからこの作品はキワモノに見える。実際、キワモノ的おもしろさが満杯でもある。しかし、キワモノに見せて、著者の視線は透明である。そして人間同士のやさしさというちっぽけでありきたりで政治的には無力な価値観をあえて至高のものとした作者の姿勢に好感を持った。

中村文則 『土の中の子供』

どうして暗い小説ばかり読むのかと同棲している女に<私>は答える。
「まあ、救われる気がするんだよ。いろいろ考え込んだり、世界とやっていくのを難しいと思ってるのが、自分だけじゃないってことがわかるだけでも」

2005/08/18

どうして暗い小説ばかりが最近の「純文学」なのだろう。もっとも純文学といっても野次馬根性で読む芥川賞受賞作ぐらいなのだが、他人や世間や世界とやっていくのが難しい屈折した人間ばかり登場し、自分で作った閉塞空間に抵抗するわけはなく、むしろやすらいでいるかのようで、ただ息をしているだけのヤツばかりではないか。阿部和重『グランド・フィナーレ』金原ひとみ『蛇にピアス』、吉村萬壱『ハリガネムシ』。ある意味では吉田修一『パークライフ』だってそうだ。閉じこもりの「純文学」を読んで暗いのは自分だけじゃないってことがわかってホッとする読者が多くなってるってことか。

親に捨てられた<私・27歳>が幼児期、育ての夫婦から受けた虐待は生半可なものではなかった。顔を合わせれば拳で殴る、足で蹴る、掃除機のパイプ、アイロン。ふたりは憎しみや怒りのためではなく、ただうっとうしいという感覚のみで暴力をふるう。つまらなそうな面倒くさそうな顔でくわえる虐待が耐えられなかった。そして食事を与えられず、飢えで仮死状態になった<私>は山中の土に埋められる。「土の中の子供」は比喩で使われているのではなく、まさしく生き埋めにされた幼児体験であった。
その後施設で成長し、いまタクシードライバーとして、これも不遇な身の上の女と同棲している<私>がふつうの世界と折り合いがつかないことや屈折した心理からの奇矯な振る舞いについて、読み手としては同情こそすれ揶揄し、あるいは非難することではない。ここは先ほどあげた作品群とは違う。

小説の冒頭、彼は暴走族に襲われる。いや襲われるのではなく、むしろ挑発して襲撃されることを期待している節がある。だから逃げる気はない。抵抗するのでもない。死へ向かう圧倒的暴力をそのままに受け入れる。痛みと恐怖を感じながら虫ケラのような思いの中で興奮する。それが被虐の悦びに見えてそうではないところがこの芥川賞受賞作のミソらしい。
彼は小動物を高いところから落として死の直前の感覚を共有する?趣味がある。それが加虐の悦びに見えてそうではないところがやはりミソらしい。

死に向かって、あるいは虚無に向かってなのか、ドンドンドンドン落ちる落ちる落ちる。そこに何かある。<私>を待っているたしかに存在するものがある。<私>はそれを確認したい。それが<私>の生きる証なのだ、と。読者の感性をこのあいまいのところに接近させようとするのが純文学なのだろうと思うのだが、共鳴するような感性をもちあわせるほど私は若くないのだ。

あえて年寄りの理屈で考察するなら、一寸の虫にもある五分の魂とか極限状況に見いだす生への渇望といったところなのだろうか。まさかわれわれの生きている社会が暴力装置であり、しかもそれをうち砕く強い意志も力もないものが、それでもなお生きていく、そんな古めかしいことを言っているのではないだろう。

すなおに、幼児虐待にあって今なおそのトラウマに苦しむ若者がラストで、善意の人々の存在を確認し、現れた実父に会うことを拒否し、「僕は、土の中から生まれたのですよ」と、決然として再生へむけた一歩を踏み出す。
そういう救いと自立を描いた作品と受けとめることにした。

そうであれば純文学性は希薄化し、通俗的なオハナシになってしまうが、先に挙げた芥川賞受賞作よりは読める。
それにしても暗くて理屈が多すぎる。

奥泉光 『モーダルな事象』

瞠目すべきは巻末のオマケ、千野帽子と称するお方の解説。これを読むと今読み終えた作品のイメージが一変するのだから、これは巻末のオマケではなく作品そのものの最終章ではないのか。挑発する実験的小説だ。

三流の女子短大で日本近代文学を講義する俗物・「桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活」(副題)振りに、プッ、フフフ、ゲラゲラ、ワッハッハと何種類かの笑いをこらえきれない。酔生夢死のダメ男、トホホ男。人にほめられたい、一流になりたい、カッコよく見られたい、うまいものを食いたい、女にもてたいと人一倍欲はあってもめんどくさいから寝ていよう。私とおんなじだなと苦笑いをする。下品をみせて上等なユーモアをストーリーとは関わりない濃密な饒舌のなかで大いに楽しむ。

2005/08/26
読み進むうちに連続殺人事件がおこり著者によれば松本清張『Dの複合』風の本格推理小説風がスタートするのだが探偵役はあの『鳥類学者のファンタジア』で抱腹絶倒を演じたフォギーちゃんのお友達であるからまだまだ笑える。
そしてアトランティス・失われた大陸で作られたという摩訶不思議な霊力をもつ、これもあのロンギヌス石製コインが登場、その争奪のドタバタでもあるからこれはオカルトノベルなのか。
桑潟が時空を飛び越えて右往左往する様子となればやはりSFであろうか。
ゾンビにおびやかされるホラーかと思えば、純文学かもしれないし、通奏低音で戦争・恐怖・大量虐殺・人類の滅亡のテーマが流れる。
いったいぜんたいこの小説は何ナノだと驚き、つかみどころがないのに、それだからこそ読むことをやめられないのだから大傑作だと賞賛の声を上げることに遠慮は要らないだろう。

桑潟幸一助教授の元に、とある童話作家の遺稿がもちこまれた。発表するや意想外の反響を得るのだが、遺稿は盗まれ、編集者は首なし死体で発見された。謎を追う女性ジャズシンガーに大戦の闇が迫る!

とこれがあらすじなのだがこの作品を説明するにはほとんど役に立たない。ストーリーよりも文章の面白み、文章よりも小説の組み立ての巧緻さで読ませるからである。

オカルトホラー伝奇SF的に一連の「事象」をとらえる役割が桑幸こと桑潟助教授の視線であり、本格推理小説的に合理と論理で同じ「事象」に迫るのが探偵役さんの視線であって、この二つのパートが入れ替わり立ち代りつつ、結末に向けて収束していく。作者は自由自在の独壇場に立脚してモーダルに「事象」を操っているようである。

と、「モーダル」なる外国語を使い慣れた言葉のように使用したが実は最後までわかりませんでした。『鳥類学者のファンタジア』「鳥類学者」がなかなか意味不明であったことと同じですね。ところが巻末の付録にぼんやりとですがありました。

「様相論理学では、現実でなくて予測とか反実仮想といった非事実の言説をモーダルな言説と言ったりするんですが、そういう理解でよろしいでしょうか」(千野帽子)
と問われた著者が
「それももちろん含みますね。あと音楽用語でも、ジャズの『モード』の形容動詞形。いろんな意味を含むでしょう。でも、題を選んだ直感を説明することは難しいですね」
と気を持たせた答えをしている。「鳥類学者」もジャズ用語でこれもまたかと好感をもってあきれたわけです。
探究心旺盛にしてジャズ用語を調べましたところ門外漢にはひざを打つような理解はできませんでしたがモード奏法とはどうやらアドリブ演奏の「自由度を向上」させた技法であって、すなわち、文学論に置き換えれば従来の小説作法にこだわらない手法で「事象」を語ることにあるようです。

蛇足ながらこの巻末の付録、ふたつありますがこれが読ませる。千野帽子というまるで奥泉光の分身と思いたくなるような人物が「不透明な語りの自由―文學少女のための奥泉光再入門」と称する解説。「文学」をあえて「文學」と表するタイトルからしてふざけているのだが、
「文學少女と呼ぶには程遠い、文学をちょっとかじった程度の皆さんに奥泉光の真髄はなかなか理解しにくいでしょうからわたしが説明してあげましょう」
といわんばかりの挑発的な語りに見えて正直、脱帽です。これがあってなるほどとこの作品を見つめることができました。
「どうだ」と奥泉が
「精緻な工芸品的小説だろう」
と胸を張っている様子が目に浮かぶようです。普通なら実にいやみな付録なのですが、逆に感心してしまうのですから、奥泉光、ただものではない。

ただしこの解説は本文を読む前に読むことだけはやめといた方がよい。「語りが過剰」でネタバラシになっているどころかいわばミステリーの解決編のようだ。

とにかく特異な存在感で威圧する巻末付録だ。