京極夏彦 「巷説百物語 」
眠られぬ熱帯夜に怪談?を
99/10/10
札幌から一時間半、羊蹄山の麓の町、京極。二年前札幌単身赴任のおりしばしばこの町を訪ねたものです。
羊蹄山の雪水が何十年にわたって濾過されここに溢れて吹き出しています。
大勢の人がポリバケツでこの名水を汲み出し、生活に商売に利用しています。
私は緑茶用にこれを使っていました。実においしい清水であります。とにかくミネラル特に鉄分を多く含んでいることがわかる。一週間とは汲み置きができません。なぜなら鉄分が酸化して、ちょうど血をなめたような味に変化してしまうのです。
当時京極夏彦が「鉄鼠の檻」を発表、話題になりまして、初めて彼がここ京極の出身であることを知り、その作品を読んでみる気持ちになったのでした。
99/07/25記す

時は江戸。巷の闇の色は濃い。「小豆洗い」「白蔵主」「舞首」「芝右衛門狸」「塩の長司」「柳女」「帷子辻」いずれもこの時代に流布していた民間伝承の妖怪。妖怪変化のなせる奇怪至極の超常現象か?これに対するは必殺仕掛け人か、エクソシストか、はたまた安部晴明の生まれ変わりか、ひと癖、ふた癖あるワルたちが不可能事件をたたっきるお話。ホラーではなく本格推理小説であります。京極夏彦「巷説百物語」

この作者本当に才人なんだなとまた感心しました。江戸でもてはやされた俗文学、戯作の文体を縦横に使い、時代を超えてなお現存する「あやかし」の艶が存分に味わえます。
しかし、事件は合理性で成り立っている。時に本格ミステリーの短編集を読むのもいいものですね。ウーンとうなって読み返すことができるのも短編ならではのことです。妖怪談義のいつもの衒学的蘊蓄は背後に薄れて昔読んだ都筑道夫の「○○長屋」とか「○○砂絵」をなんとなく彷彿させます。まああの軽妙洒脱の世界とはまるで違いますが「本格性」は同じだろうと思います。ついでながら積んであった「魍魎の匣」も並行して読み始めました。
今日は結婚して29年目に当たるんです。体育の日ですからうっかり忘れることもありません。しかし二人の娘たちはどこかへ遊びに行ってしまい親のことなど知らんぷり。困ったものです。



京極夏彦 『続巷説百物語』
京極夏彦の『後巷説百物語』が直木賞を受賞しました。
2004/02/03
シリーズものですがこの前の『続巷説百物語』と当初の『巷説百物語』とは一味違います。

いずれも魅力あふれるお話で一話完結の連作ものですから不都合はないのですが、面白さをたんのうするために、私はこのシリーズの最初にある『巷説百物語』をまず読まれることをお薦めします。
時代は江戸時代、妖怪変化、幽霊たちがこの世にあらわれて超自然現象をおこすことが当たり前のように信じられていた時代です。
「小豆洗い」「白蔵主」「舞首」「芝右衛門狸」「塩の長司」「柳女」「帷子辻」。いずれも当時全国的に言い伝えられている妖怪変化が登場し、怪異現象をみせて人間世界に人殺し、人攫いなどの悪さをします。そのとき、小股潜りの又一を頭にいただく、愛すべき小悪党があらわれ、この怪異は民間伝承を騙った人間がたくらんだ悪質な犯罪と透徹し、逆に、巧妙な手品、マジックと必殺仕掛け人も顔負け、こちらも妖怪変化を仕立てる罠をもって極悪人を懲らしめるという痛快なお話のかずかずです。ホラーではなく理詰めの本格推理、又一の仲間たちの個性も際立ち、ラストで「御行奉為………おんぎょうしたてまつる」と鈴を鳴らして悪をタタッきる大見得のカッコよさにわくわくしましょう。そして江戸でもてはやされた俗文学、戯作の文体は縦横に使われ、時代を超えてなお現存する「あやかし」の色艶を存分に味わうことができます。
民間伝承を丹念に研究した作者の才がありえない話をありえそうにみせてくれ、心地よく騙されます。しかも京極夏彦に特有である長々しい妖怪談義の衒学的薀蓄が『巷説百物語』だけは珍しく背後に薄れていますから、それがいいのだと感じる人は大勢おられるでしょうが、耳障りだと思う読者にもストレートな快感を与えてくれることでしょう。
今の若い人にはもうなじみがなくなっているかもしれませんが私たちの年代では鬼、天狗、河童、山姥、一つ目小僧、唐傘お化けなどまだ子どもの生活の中に生き残っていたんですね。現代ホラーにはこのような生き物や物が形を変えて具体的イメージであらわれる怪異現象(妖怪、化け物の世界)ははやらなくなっているだけにとても懐かしいのです。郷愁を誘う、それだけでも読む価値のある作品だと思います。

つづく『続巷説百物語』は事件の規模が巷のミニ事件ではなく幕府も絡んだお家騒動にまで派手な舞台となり、小股潜りの又一たちが仕掛ける化け物もマジックと言うよりイリュージョンとおおがかりな演出となりますので、怪異譚と申すより大伝奇ドラマ風のこしらえでありますから比較すると違和感がありますが、それはそれで楽しめます。ただし、京極夏彦があえてこしらえた作り物の感が強くなっているため、むしろ江戸時代の庶民の生活にある恐怖感がそのまま表現されているところで、このシリーズの面白さの原点は『巷説百物語』にあると言えるでしょう。

京極夏彦 『後巷説百物語』
『巷説百物語』『続巷説百物語』と続きましたこのシリーズもこれが最後となりますと後ろ髪ひかれる思いがいたします。
2004/02/04
御維新の10年と時代が変わりました。小股潜りの又市、山猫廻しのおぎん、事触れの治平といった一癖も二癖もある小悪党が好事家山岡百介を狂言回しとして江戸市中ならず全国をめぐり妖怪変化が引起したとしか考えられない怪事件を鮮やかに解きほぐし、逆に怪異・あやかしの仕掛け罠をこしらえ極悪人を懲らしめるというあの時代から40年の歳月が流れたのでございます。

ですから『巷説百物語』の素朴な味わい、『続巷説百物語」のストレートな痛快さとはいささか異質な組み立てになっております。

生き残った百介も今は東京のはずれに庵を結び不思議話が好きな翁として若者相手に昔話を語る日々と静かに余生を送っております。時代が変わったと申しますのは一等巡査の矢作剣之介を中心とする若者たちは文明開花の申し子でありますから、世の中に怪異・変化など存在しないと、それは翁としても当時の体験から百も承知でございますが、どこか肌合いのあわない時代の変化を感じているのです。

西洋流の合理主義が浸透し始めている。「(人も国も文化もどんどん成長して欲しいものです)今様というのは何時だって何よりも優れておりましょう。ただ………」妖怪はすっかり役に立たなくなりましたと百介は謡うように言った。「将に無用の長物、(みなさんの言うように)要らぬものになってしまったようですなあ」それが百介には少し淋しかっただけだ。
直木賞受賞のこの最新作、この百介の慨嘆にエッセンスのすべてが凝縮されております。だから私も後ろ髪ひかれる思いがするのです。

百介はここでも六つの怪異譚を披露します。そのなかからヒントを得て一級巡査が不可能事件を解決する場合もあり(天火)(山男)、まるで無関係の奇怪至極な伝説(これは著者の無理を承知の完全な創作としか私には思えないが)(赤えいの魚)、あの当時仕掛けた怪異が新たな伝承と化して御維新の世にまで生きている不思議(手負蛇)(五位の光)などいずれも40年前の小悪党たちの活躍を回顧するのでございます。しかし、百介はこれが仕掛けであることは一言も言わないのです。どちらかといえば逆に世に不可思議はあるのだとあの当時とは立場を変えて若者たちに語りかける役割なのです。そして最後に翁百介が仕掛ける怪談会(風の神)。

百介は理詰めで解釈する新しい文化風土に対しそれだけではないのだよ、本当はあいまいなところがあるのが日本という国に生きる人々の血肉となった観念ではないかな。ああそれも遠い昔になってしまったのかと。おそらくわたしにはそう聞こえて共鳴するところです。
特に「山男」のお話しは印象的でした。一神教の神=自然の原理は人間に過酷でありますが、日本の信仰にある自然は時に人間界に災いをもたらすが恵も与えるとする多神教のやさしさがにじんでおります。

化け物どころではない人間のなす残忍な犯罪が横行する現在を見れば妖怪変化と共存していた時代のほうがよほどよろしい。ある国の尺度でおしすすめる「普遍の論理」世界平和達成の行動がはたしてかの地の民族に適用できるのだろうかと………これは穿ちすぎでしょうかねえ。どこかで日本人は生きる原理を見失ったような気がしませんか。昔に戻ればいいというものではないのですが………。
京極夏彦、政治を語る人ではない。しかし、精神文化の今のありように疑問を投げかけております。