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三浦綾子「氷点」
「氷点」の舞台
2001/10/27 |
「風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝いて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かった」
三浦綾子「氷点」の舞台となった旭川・外国樹種見本林、ヨーロッパカラマツ、ストローブマツ、ヨーロッパアカマツが入り口から美瑛川にいたるところまで立ちならぶ。
この街を訪れた機会に短時間ではあったが、落葉を踏みながら、常緑樹林の中に綺麗に色づいた木々をかいまみ、深まる秋の気配をたんのうした。三浦綾子記念文学館はこの一角にある。三浦さんは幾度もこの見本林の美しさを「氷点」の中で表現していた。「私は今まで何十回となく見本林に行っているが、その都度新たな美しさに感動する」と語られる。
館内は平日のためか人影はまばらで、それでも地元の女性であろうか三浦さんがよく愛用されたかたちの帽子をつけた人にであう。熱心に展示された原稿を見入っている。二階回廊の隅には70歳ほどの品の良い老人が座っていて、「どこからこられた?」と声をかけてくれた。喫茶室には3人の中年のご婦人たちが北国の夕日を背にくつろいでおられる。
自分だけが弱いんじゃない、自分だけが苦しいのではない。自分だけがむなしいのではない。自分だけが惨めなのではない。自分だけが死を思っているのではない。誰しもが様々な苦しさ、むなしさに陥らざるをえないのだ。そのことを、腹のそこからよく認めた時、わたしたちは、「虚無の隣に神がいる」ことを、知り得るのではないのだろうか。(光あるうちに)
この言葉を素直に受け入れる、そんな空間のなかに私はいた。
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水村美苗 『本格小説』
「青臭い恋愛小説など今さら」と分別くさい中高年が読んでこそこたえられない「大人の恋愛小説」なのだ。
2003/09/17 |
冨美子、長野県の貧農の娘が戦争直後に進駐軍のメイドとして独り立ちし、その後裕福な一族の住み込み女中としてその家族を見守りながら生きてきた。いま、1990年代の終わりに、朽ち果てようとする信濃追分の山荘で、その半生を青年祐介に語りかける。そして祐介は彼女の生きたこの半世紀の膨大な時間の流れのなかで、変わらないままにあるもの、少しずつ少しずつ変化していくものの存在を予感し
「油蝉とみんみん蝉は相変わらず激しく啼いていた。高い梢の葉がさわさわ、さわさわ、と動くのも、陽の光がベランダでチラチラと動くのも、すべてがこの間と同じであった。冨美子が突然泣き出したあのときから、ずっとこうしてここに坐っていたような気がする。それだけでなく、もっとずうっと前――なんだか自分が生まれる前から、こうしてここに坐っていたような気さえする。唸るような音がするので首を上げると、また大きいヘリコプターが青い空を渡っていった。『進駐軍かあ』そう独りつぶやいた祐介は、自分で戦後というものが初めて一つの現実となったのを感じた」
ながいながい物語であった。戦後から今日までの経過した時間の重みをずっしりと感じつつ読み進んだわたしは言いようのない疲労感から解放されるように読み終えた。そして小説の途中にあった祐介のこの感慨をもう一度ページを繰り戻して読みながら、その心境に重なるように共鳴する自分を感じたのである。それはこの物語の主人公といっていい人物、東太郎とわたしがほぼ同年代であるためかもしれない。戦後から50年余りを経て自身の半生を振りかえるときに、登場人物たちむしろ著者の受けとめた「時間」、そこにある「変化」あるいは「不変」といったものに共通の実感を覚えるのだ。
軽井沢の別荘で、成城のお屋敷で、美しい3姉妹を中心に繰り広げられる三つの家族の華やかな日常の繰り返しがある。それら家庭には「良家」であるための当然の歴史の堆積があった。次女の嫁ぎ先の家作に極貧の賎しい一家が住み着くようになったのも偶然ではなく、前の世代の縁ゆえである。
恵まれた家に生まれた少女・よう子と貧困家庭の少年・太郎の幼い交流が恋愛へと発展し、よう子の結婚による終局にみえた二人の関係はさらに様相を変えて展開する。いわゆる「差別」という社会的視点は全く説明されず、異質の境遇が共存していたのが現実であった頃、ではあるが、当然に相容れないものが二人自身中にもあり、まして良家の誉れ高い大人たちは冷ややかである。そして悲劇。
ありふれた恋愛物語。そうです、日めくりカレンダーをめくるような単調な時の繰り返しのなかで目には見えないわずかな変化が積もり積もるようなプロセスが冨美子の口から語られる。そこには劇的な乱調はない、ただ悠然たる時間の流れがあって、その流れに逆らおうとして流され、先行しようとして戻される。人為を拒んでしかし運命ではない、人の営みの累積が生む必然が描かれる。そして、単調にもかかわらず忘れがたい挿話の連続を味わうことになるのだ。
軽井沢の別荘が年数を経て朽ちていくとも、「家系」という概念が死語になるとも、娘たちが老女になろうとも、なお変わらずにそこで避暑を過ごす三姉妹、そのいまだ変わらぬ尊大さには読者が口を差し挟む余地のない血統の持つ風格があります。アメリカに渡りベンチャービジネス界で財をなした太郎が「日本は変わったか?」を語る心情もまた印象的である。
彼女のモノローグでは読者に気づかせなかった冨美子と太郎の肉体関係が最後に三姉妹の末娘から語られる時にこの場面だけは予想外の展開にびっくりさせられました。しかし、それで冨美子を猫かぶりの嫌なやつだとか太郎を所詮スケベ人間であったかと思いなおすことにはならず、三姉妹のひとりの伝聞であるから事実ではないかもしれないと解釈してもよし、あるいは、たとえ事実であっても「それはそれで仕方がないだろう」と是認せざるをえない状況描写の緻密さを堪能することになる。
さて、この物語の主人公は?あらすじは?と書評らしく表現することは非常に難しい。そして移ろい往く光陰にひそむ万物流転と万古不易、「時の堆積作用」こそがこの物語の主人公ではないかと思い至るのである。
いま、自分の半生を顧みると、昨日という時点では予想できなかった今日に直面した際に、驚き、喜び、怒り、悲しみなどその時は激しい感情のうねりはあったにしろ、結局はなるべくしてなった事実の積み重ねであったことに気がつき、いつのまにかうねりは凪いで、懐旧の情のみが残されている。この心境は小説の読後の刺激がなせるものか、それとも、もはや予想がつかない明日はなくなったという事実としての老境のなせるものかと感慨を深くするのである。
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水上勉「飢餓海峡」
社会派推理小説の傑作
樽見京一郎は京都の僻村に生まれた。17歳で北海道に渡り貧困のどん底にあえぎながら必死で這い上がる。その彼が出世し社会的名声も得る。しかし、その成り上がりのためにはいくつかの残虐な殺人を犯さねばならなかった。
下北半島、恐山のふもとの寒村で生まれ、親を養うために身を売る薄倖の女・杉戸八重との出会い。彼女は上京し、焼け野原の新宿、池袋、亀戸を酌婦・娼妓として転々とする。10年の歳月が流れ二人の運命の出会いから次の殺人事件が………」
2002/02/16
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昭和29年青函連絡船洞爺丸は台風15号の暴風雨をついて函館港を出航し、転覆。乗客・乗組員1100名を超える死者・行方不明者を出す未曾有の大惨事が起こった。同日、岩内町には火災が発生、暴風にあおられ全町の80%が焼失する大災害に見舞われている。
このふたつの事件をモデルに時を昭和22年終戦直後とし、壮大な構想で戦後10年をたどり、貧困にあえぐ人間の宿命を描いた「社会派」推理小説の代表作である。
昭和40年の内田吐夢監督による映画は三国連太郎、左幸子、伴淳三郎の好演もあって、小説よりもむしろこの映画「飢餓海峡」は強烈なインパクトを当時の社会に与えたのであった。波涛荒れ狂う暴風雨下の小船で放火強盗殺人を犯し内地へ逃走する凶悪犯たちが仲間割れ、殺しあうシーン。コントラストを強くし、ざらついた粗い画面の映像効果が記憶に刻まれています。
最近、国土地理院がインターネットで公開した二枚の新宿駅周辺の航空写真がある。ちょうどこの杉戸八重が酌婦として生きた時代、昭和22年の新宿と平成4年の撮影画像を比較したものである。戦災で荒廃した東京の姿とその後の復興・発展した様子を、私の母校も写っていることもあって、ほぼ一致している私の半生を重ねながら、特別な感慨をもって見入った。
わが国の国債の格付がまた下がるらしい。ブッシュ大統領は日本の現状を危機的だと指摘し危機感を煽り立てているかのようである。いまここで自分の生きた戦後、バブルとその崩壊を重ね合わせてこの小説「飢餓海峡」いやそれは飢餓列島であったかも知れないのだが、を再読、じっくり読んでみた。
「戦後」という飢餓地獄を彷徨した男女の罪と罰、憤怒と慟哭を哀しく描いた文芸大作である。と同時に明日が見出せず混迷する敗戦国日本そのものを描いた。そしてその絶望的状況を打破する強烈な生命力、善悪を超越したエネルギーの所在を確認するようななにかがあった。
危機だ危機だと神経質になる必要はないよ。飢餓地獄というよりまだ飽食の時代に近いのだから。
かつて「社会派推理小説」の代表作家であった水上勉が社会派と呼ばれたゆえんは次の言葉にうかがわれる。
「大事なことをいっておくと、私はこの作品を書いたころから推理小説への情熱を失っていた。つまり約束事にしばられる小説のむなしさについてであった。推理小説は周知のように犯人当てが楽しみであり、事件の解明や、殺人動機について奇抜な工夫が要求される。奇抜が奇抜であるほど成果が高い。私はそういう小説の娯楽性を拒否するものではない。けれどもそれがいくらよくきまって、よくしあがっても、どこかからふいてくる空しさ、それが我慢ならなかった。」
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