北方謙三 『水滸伝 第十九巻』旌旗の章

なにからなにまで 真っくら闇よ 筋のとおらぬことばかり 右を向いても左を見ても 馬鹿と阿呆のからみあい どこに おとこの夢がある。
壮大な男の夢を描いてここに完結。

2005/10/31
不正が世を覆い、悪が巷にはびこる。権力は私利私欲をむさぼり、人民は苛斂誅求に呻吟する。農民は流民や盗賊に群れ、優秀な官吏・軍人は高潔さが疎まれる。天才的技能を持つ商工業者、教育者、医師、薬師、建築家たちもスポイルされた。彼らのやり場のない憤怒のエネルギーは世直し=替天行道の旗の下、新国家建設へと収斂していく。そして宋国をむしばむ巨大なガン細胞として「梁山泊」は姿をあらわした。「梁山泊」は軍事ばかりでなく、スペシャリストたちによる政治、経済、外交、民政の基幹を備えた小国家にまで成長していたのである。

「替天行道=天に替わりて道を行う」は彼らの夢であった。

そして夢が潰える時が来る。

数次にわたる宋国との激戦の末に今、宋国最強の軍神・童貫との最終戦が展開される。もはや残された拠点は梁山泊の要塞のみ。歩兵、騎馬、装甲車、戦艦、大砲と軍備を総動員した集団戦闘が重厚に描かれる。勇猛果敢といった華やかさは影もなく、ただじわじわと追い込まれ、次々と武人たちは死んでいく。かれらの怨念を昇華する鎮魂歌が流れるような息苦しくかつ荘重な戦闘シーンが続く。ついに梁山泊砦は炎上する。

原典水滸伝は一般には英雄たちの銘々伝から成り、その108人が梁山泊へ集合して終わりとする「七十回本」が知られているのだが、もともとの「百回本」は梁山泊集団の運動と運命、つまり生成、発展、変質、滅亡のプロセスを描いている。高島俊男氏の『水滸伝の世界』によれば「彼らはただ一場の長いおもしろい夢をみたというだけのことなのだ」
「すべては夢のまた夢でありむなしく無意味なのである」
そして『落花啼鳥総て愁いに関わる』でおわる「この小説に一貫して色濃く流れているのはこうしたいっさいを空の空なりとする世界観である」
と解釈している。

北方謙三は梁山泊革命集団の運動と運命を現代的センスで組み替えている。英雄たちの銘々伝もこのプロセスと密接に関わる形でおおいに楽しませてくれた。
そしてラストでは
「ああすべてはむなしかったのだ」との感慨をよび、万感の愁いを与えて終結する。そんな読み方も間違いではないだろう。

ただその思いは梁山泊強盗集団の暴動にすぎなかった歴史上の位置づけがわかっているからそうさせるのであって北方の彼らに求めた夢はまだ潰えていないようだ。

北方謙三はかつて梁山泊ではないだろうが世直しの活動に夢を託した経験がある男のようだ。いまとなればそれこそ夢のまた夢でしかなかったろう。しかし、少なくとも彼はその時代を生きた原体験を懐旧し感傷にふけっているなとわたしには感じられる。その印象がこの大河小説のラストをふさわしく飾るものであった。

替天行道という大義を理解していたものはごく限られた人だけだったのではないだろうか。死を直前にして愛すべき殺戮者・李逵はすさまじい大量死を見ながら思う
「みんな理屈ってやつを並べすぎる。志がなんだ」
「兄弟が、仲間がいればいい」
実際のところこの「梁山泊」も革命などとおこがましい、単なる群れたエネルギーの暴走だったのかもしれない。と北方は述懐しているのではないだろうか。
しかもそれでもいいではないかと哀切の思いがあって………。

旌旗を胸に抱いて楊令は絶叫する。
「この楊令は、鬼になる。魔神になる。そうして、童貫の首を獲る。この国を、踏み潰し、滅ぼす。いつの日か、お前の目の前にこの楊令が立っていると童貫に伝えろ」
「俺は生きてやる。生ききって、この世に光があるのかどうか、この眼でしっかり見届けてやる」

なにやら筋道をなくしちまって右往左往している世の中だなとあきれかえることが多くなって、だからといってこうだぞと思い上がった言い方すらできずに、とりあえず身の回りのことを一生懸命やってはいるものの、結局漫然と生きているに過ぎない。そんな私にとってこの全編をアナクロな浪花節で一貫した大衆娯楽小説のラストの絶叫には、ないものねだりとわかっていても目頭を熱くする余韻嫋々たるものがありました。