『てのひら怪談 ビーケーワン怪談大賞傑作選』

ネット書店・ビーケーワンでは2003年夏から毎年インターネット上で怪談を募集し、優秀作品を授賞している。昨年で4回になった。わたしは毎回欠かさず応募しているからルールはよくわかっているが、「怪談」というテーマ枠に800字で起承転結を綴るとなるとかなり手ごわい文芸競技である。本書はこれまでの応募作品から100作品を選んで収録したものだ。

2007/02/07
100もの怪しい話が紹介されていて、それらが絶妙、百様の味付けがなされているからその競演は見応えがある。しかもそれぞれの作品、現代という合理社会を生きているわたしたちを思わずどこかに似たようなことはあるなぁとひきつける実体を備えているところが不思議といえば不思議なのである。「現代怪奇譚」といえるスマートさが全作品に共通している。

怪異、奇怪、恐怖というイメージはさほど強調されていない。迷信が迷信でなかった昔の怪談は怪奇現象の原因を求める仏教説話的因縁話で、その怪奇現象はグロテスクで耽奇的な見せ場だったが、そこは隔世の感がある。おどろおどろしさはまったく影をひそめている。その意味では携帯電話、ビデオテープの怨霊や背後霊を扱って流行した「現代ホラー」とも大いに異なる。あれは伝統的な怪談話の焼き直しといったところだろう。
現実はグロテスクな怪奇が日常茶飯事に事件として発生しているのだから、本当の恐怖は小説よりも身近なところにある事実を著者たちのだれもが心得ている。奇妙な、へんてこりんな、つじつまが合わない程度の現象を柱にしてそれを軽くあしらっているところが現代的センスなのだ。著者自身も奇妙な現象だなと感じながらその原因を断定せず、深追いもしない。作品によってはへんてこなことを著者がへんてこなことと感じていない素振りをしてそのまま提示するにとどめる傑作もあった。笑える怪談だっていくつもある。怪談だからそれらしいことはおこるが、それを柱にせずに、現代の不安や焦燥感を表現する作品もある。文字通り百花繚乱。

普通、怪談やホラーは妄執、嫉妬、悪意、怨恨など人間性のマイナスベクトルを切り取って示すものだ。これも不思議なことだが全作品に共通して著者たちが人間をやさしい眼差しで見ていることだ。夢を見るときその夢には常識では考えられない珍妙な風景があって喜怒哀楽の激しい感情で目が覚めることがある。うなされて大声を出すことだってあるだろう。ところがあれはストレスの発散だという人がいるがそうかもしれない。どんな夢でも夢を見たときの朝の目覚めは実にさわやかである。ここに収められた作品はどれもさわやかな読後感につつまれること間違いなしの粒ぞろいである。

蛇足ながら不思議ついでに、わたしの作品も江崎来人のペンネームで二編、末席を汚している。


池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

「小説好きの諸君!たまには直球の企業小説、読んでみてくれ」
と、このとんでもなく風変わりなキャッチコピーにつられた。
小説好きは企業小説を読まないものとこのコピーライターは考えているのだろう。なるほど気がつかなかったけれど小説好きだがあまり企業小説は読まない僕のような人は大勢いるんだな。

2007/02/14

企業小説と言えば私のイメージは大銀行の内幕暴露ものなんです。いかにもノンフィクション風で実在の人物を臭わせるものだから、その人物を推量しながらこれも実際の出来事に思い巡らせ、いいかげんなことを描いているナァと不愉快になってしまうことが多い。人間を描くのではないため小説としての面白さが半減してしまいます。
ところがこの作品は企業小説かもしれませんが間違いなく楽しめる小説でした。主人公を「妻と三人の子供達、そして従業員とその家族を守るために」大企業と孤軍奮闘する零細運送業のオヤジにしたところにフィクションとしての迫力、ハラハラドキドキですね、まさに一気読みでストーリーが展開します。
ある財閥系の大手自動車メーカー製のトレーラー。オヤジさんの運送会社が走行中にタイヤが脱輪して通りがかりの母子を殺傷する。メーカーの検査結果は部品の構造欠陥ではなくユーザーの整備不良だった。警察の家宅調査。タイヤ殺人事件でマスコミは大騒ぎ、被害者からは殺人者よばわり。大口のお客からは仕事を断られ、銀行からは融資を引き上げられる。小学生の子供はイジメにあう。一方でこの車のディーラー、メーカー、財閥系ですから系列のメインバンク、商社、鉄鋼まで広がる思惑の錯綜。そして当然、警察、マスコミ、役所と登場します。オヤジさんは資金繰り破綻の崖っぷちに立たされ、さあどうなるのかと読み出したらやめられません。真相を隠蔽する強大な敵に真っ向から戦いを挑む徒手空拳の男の苦闘に感動させられます。建造物、食品、家庭用器具など最近またまた製造物の欠陥から命に関わる事故、事件が続発しています。庶民はくやしい思いが圧倒的ですから、頑張れよ!って声援しながら読む楽しさがあります。
フィクションでしか描けない迫真性とよく使われますが、この小説、事実とは違うのでしょうが周辺の真実はついていますね。
ところでこの作品は直木賞にノミネートされていて、受賞しなかったというところも皮肉でした。タイミングが悪かったんだななど勝手にその間の事情に憶測をめぐらせるオマケつきでした。
刊行されたのが2006年9月25日。
次の新聞報道が2006年12月13日。
「三菱自動車製大型車のタイヤ脱落による横浜市の母子3人死傷事故をめぐり、リコールを回避するため国にうその報告をしたとして道路運送車両法違反(虚偽報告)の罪に問われた三菱ふそうトラック・バスの被告ら3人と、法人としての同社に対する判決公判が13日、横浜簡裁で開かれた。小島裕史裁判官は3人と1法人にそれぞれ無罪(いずれも求刑罰金20万円)を言い渡した。」
無罪なんですね。
そして直木賞の該当作品なしの発表は2007年1月16日
直木賞受賞作は多くの読者をつかみますから、これは選考委員としてはいくらなんでも受賞させないのが常識でしょうね。

パロマ、リンナイのガス中毒死にも同質の難しい問題があるのでしょう。いまどの企業でもコンプライアンス、コンプライアンス。現場はこれでいろいろな悩みがあります。その当事者、おおかたのサラリーマンは実感しているはずですから、そういう方はこの小説の本当の面白さをよく理解できるはずです。おすすめします。

諸田玲子 『奸婦にあらず』

真言宗の根本経典・理趣経の冒頭「妙適清浄の句、これ菩薩の位なり」と、男女交合の恍惚境は菩薩の位だとしているが………

2007/03/12

読み終えて、古地図を重ねながら現在の地図を眺めてみた。彦根藩主井伊家の上屋敷は桜田濠に面して現在の憲政記念館と国会前庭の洋式庭園を含む広大な屋敷だった。警視庁、警察総合庁舎一帯に豊後杵築藩邸があり、藩邸前を左に折れると外桜田門にいたるのだが、水戸浪士の襲撃はその直前、杵築藩邸前、有楽町線桜田門駅辺りが現場だったようだ。地図を片手に、主人公・たかはここで籠から引き出される井伊直弼の血塗られた体を目撃し、絶叫したのかと思いやる。

このたかともうひとりの重要人物、直弼の盟友・長野主膳が実在の人物であることを読書途中で知ったものだから、まだ訪ねたことのないこの小説の舞台、現存する近江の名所旧跡にも歴史を重ね合わせたくなる。伝奇小説まがいのミステリアスなたかの人物像に魅了されながら、史実と伝説と虚構の絢爛とした綾模様にすっかり目を奪われる。歴史ロマンである。そのドラマを練り上げた著者の手腕に手ごたえを感ずる。

近江観光ガイドの神社仏閣で第一番に挙げられているのが縁結びの神、長寿の神として信仰されてきた多賀大社である。しかしここでは多賀大社の実態を幕府、諸藩、朝廷の動きを探る巨大な諜報機関としている。娯楽小説好みには最上の舞台が用意されていた。出生の謎をかかえ、大社で養育されたたか。たいがいの男をとろけさす容貌をそなえ、才気、愛嬌、話術、和歌・音曲は第一級。鍛えられた肉体と格闘技。さらに閨房術まで身につけた一流の密偵がたかである。そして生涯を大社のために捧げるべき女の役割が井伊家への浸透であった。濃密なラブシーンもなかなかに楽しませてくれる。しかし直弼を想う真心に偽りはなかった。

「うちは若君はんのためだけに生きとおす 身分ちがいの一途な恋情を内に秘め、彼女は大老の<影>となった。幕末を生きた忍びの女の激しく数奇な生涯」

天寧寺五百羅漢。井伊家のスキャンダルを背景に創建された寺の五百羅漢を見つめるたか。井伊家が厄除けと城を守る備えとして建立した真言宗長寿院。その大洞弁財天の生まれ変わりとうわさされたたか。これらの地の四季折々に変化する風景がたかの心、それは激情、慕情、敬愛、静謐、諦念、慈愛、などさまざまに変わり行くのであるが、この心の揺れを象徴するものとして鮮やかに表現されているのがとても印象的だった。

将軍家の後継者争い、黒船の到来、条約締結、公武合体、安政の大獄、桜田門外の変、倒幕とこの歴史の大激動のなかでその中核となった男、その男を支えた男。彼らのエネルギーを天下国家論的なきれいごとにはせず、功名心という素朴な野心に単純化したところは著者の女性らしい現代的センスである。
現体制の維持のため密偵の役割を、だれをも裏切らずに果たしつつ、この二人の男と情を通じたたか。男たちはその野心を「志」と飾り、「同士」という新鮮な連帯の呼びかけに女心は昂ぶったがいつしかどこかに真実を見通す透徹さが加わってくる。「世の中はめまぐるしい。善悪は風に舞う落ち葉のように忙しく表になり裏になる」その白々しさを達観し最後まで真心を貫き通す女性である。長野主膳の妾にして伴に奸計を働いたとの廉で三日三晩、三条河原の生き晒しにされる。にもかかわらず「奸婦にあらず」だ。そこに胸を打たれる。過酷な運命を生きてなお一徹な女性の凛々しさに胸が打たれるだけではない。弁天様の生まれ変わりと自分でも思い込んでいたたかは本当に仏様ではなかったのかと。ラストに近づくにつれ、たかの内面にある透明なやさしさが輝きをまして、彼女の外見と化し、仏性といえるまでの崇高ななにかに昇華したことを感じさせるのだ。

蛇足だが京都一乗寺の金福寺は晒し者になったたかが生き延びて尼となった名刹でここにはたかが奉納したという弁天堂がある。またたかの生き晒しの絵があって、それをネットで見たがこの作品を読んだあとだけにキリスト磔刑を思わせる峻厳さがある。