レイモンド・チャンドラー 『プレイバック』
あの誰もが知っているセリフの真相は?

2005/09/25


「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」
ハードボイルドを地でいくような、女にモテる男を象徴する名セリフです。カッコイイ!!!といつごろからか僕の脳細胞にインプットされていました。応用範囲が広い言葉だからその後なにかと便利に使用させていただいていたものです。これがレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に登場する主人公・私立探偵マーローのセリフだと、これもだいぶ前からのことですがそんな刷り込みがあったんですね。

今年に入って初めてチャンドラーの『長いお別れ』を読んだんです。これは彼の代表作と言われた作品ですからてっきりここで披露されていると思っていたのですがでてこなかったんですね。そこで、ネットの検索でこのままをインプットしたところたくさんのコメントがありましたからすぐに『プレイバック』の一節だとわかりました。

“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive."

原文にはこうあるわけです。
『プレイバック』を読んだわけではないのですが、この邦訳は
「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きていく資格がない」
であることもわかった。

これは昭和30年代に初めて翻訳した清水俊二訳なんです。
微妙に異なっていますね。
まず主語が異なる。
『プレイバック』ではマーロウが
「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」
と女に訊ねられて「わたしは」としてこのようにこたえるのである。ところがあのセリフでは「男は」と一般論として表現されている。
「If I wasn't hard」ここが違っています。(さらにいえば「be gentle」を「やさしい」とするか「優しい」とするかの違いもある)
女から見た男の魅力にしても「タフ」のほうが「しっかり」よりははるかにふさわしいではないか。「しっかり」では教育的見地からお小言を言われているイメージですよ。だから人口に膾炙しているのはむしろこの一般論のほうになったんでしょう。「応用範囲が広い、これはつかえる」と思う僕のような俗人は大勢いたんですね。

そして私は一般論として表現したこの名訳を誰がイメージしたのだろうかと思いながら、丸谷才一がどこかで取り上げていた記憶からてっきりこの才人の手になるものだろうと思い込んでいたのでした。

残された疑問に終止符を打つべく、私は丸谷才一のエッセー集を何冊も調べてみるハメになりました。

『プレイバック』清水俊二訳
「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きていく資格がない」
を名セリフとして紹介し、日本中に普及させたきっかけはやはり丸谷才一でした

発端は昭和37年にさかのぼる。昭和37年8月当時早川書房からでていた「エラリー・クイーン・ミステリー・マガジン」(EQMM)に丸谷才一は私立探偵マーローについて書いたエッセー(フィリップ・マーローといふ男)で清水俊二訳『プレイバック』のこのセリフを取り上げた。
丸谷才一は昭和53年10月20日「週刊朝日」(角川映画とチャンドラーの奇妙な関係)でその後のこの反響を次のように述べている。
念のため断っておくが、当時はチャンドラー論なんてアメリカにもなかったし、従ってその手のものを私は参考にしてゐない。全部自分で考へたのである。このマーローの台詞も、わたしが名せりふだと指摘する前は別に大向こうをうならせてはゐなかったもので、つまり誰も注目していなかった。

が、わたしのこの文章によってマーローのこの台詞はたちまち名声を確立した。

どうやら丸谷才一のこの文章によって当時EQMMの編集長であった小泉太郎がハードボイルド探偵小説家・生島治郎になり、
ハードボイルドとはなにかといふむずかしいことを論ずるたびに、何度も何度もこれを引用した。

くわえて生島治郎の夫人であった女流探偵小説家、小泉喜美子も
この引用句を熱愛し、探偵小説論、男性論、女性論、恋愛論、人生論となにを論ずるにあたってもこのマーローの台詞を引き合ひに出した。

この影響力はすごかった
なるほどイカす、と感心して、いろんな人がこれを引用し。


なるほどそんなことがあったんだと感心しながらこの軽妙なエッセーを読んでいくとちゃんと書いてありましたあの「男はタフでなければ」の名文句の起源が。
森村誠一原作の角川映画『野生の証明』の宣伝に使はれ、しかもこの台詞がの原作者はチャンドラーであることも、チャンドラーがこれを言はせたのがマーローであることも断ってゐない。

丸谷先生、ここで憤然と持ち前の毒舌でこの宣伝文句を徹底的にこきおろす。
自分たちの手で名声を確立させたセリフがついに
角川映画の関係者なんていふ、チャンドラーなんか一ぺんも読んだことのない人たちの耳にまではいってしまって、心に焼き付き、その結果、今度のやうなことになったのだらうと思ふ。

などケチョンケチョンにやっつける細部は省略しますが実に痛快でありました。
(これはすべて丸谷才一のエッセイ選『夜明けのおやすみに』に収録されています)

丸谷先生にはもうしわけないが角川映画『野生の証明』のキャッチコピー
「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」
とにかくこれがマーローのセリフだと思いこんでいる人が多いという今の現実。ましてやわたしのような清水俊二訳よりも優れているなどと曲学阿世。しかもそれは先生がお作りになられたもの曲解する知ったかぶり。これは猛反省ですね。

しかし、あの当時の角川春樹というのはすごい商才だったんですね。ホリエモン並みでした。映画屋じゃあない身分でたいした内容のない作品に膨大な制作費と宣伝でもってあれだけの観客を動員したのですから。
思い出せば、
昭和51年『犬神家の一族』ム「金田一さん、事件です!」
昭和52年『人間の証明』ム「母さん、僕のあの帽子どうしたんでしょうね?」
昭和53年『野生の証明』ム「お父さん怖いよ!何かが来るよ!」そして「男はタフでなければ………」
昭和54年『悪魔が来たりて笛を吹く』ム「この小説だけは映画にしたくなかった」
映画を媒介にして、流行語を創造し、音楽と歌で主題歌をヒットさせる。新人のスターをつくる。それまで文庫本といえば文化の香がする岩波文庫的存在だったイメージを一変させ、文庫本をもっぱらエンタテインメントのベストセラーに仕上げる。メディアミックスのはしりでした。

昭和53年、丸谷才一の胸のすく皮肉も既成の文化的秩序を破壊するこの勢いの前にはごまめの歯ぎしりでしかなかったんでしょう。

ヴァン・ダイン 『僧正殺人事件』

本格探偵小説の古典的名作 そ
の新鮮さと古臭さ。

2006/01/12


清張以降の「社会派」になじんだミステリーファンには私のように本格探偵小説にさほど魅力を感じない人たちがいるのではないかと思う。わたしはそれでもときおり新本格派として登場していたものを読むが、周囲にいるオジサン族に薦められる作品にはお目にかかることはなかった。人生の古ダヌキたちには情感を揺さぶられる小説が好きでも、純粋な論理的謎解きゲームに仕掛けられた騙される快感を良しとする洒落たてあいがいなかったこともあるのだが、新本格のたいがいの作品が重厚長大でスマートさに欠けるところが大きく、忙しい時を過ごしていた年寄りどもに気軽におすすめするのを遠慮してしまうからだ。

好きも嫌いも本格探偵小説とはこれだと言える作品は古典的名作にあるのだろう。そんな思いで、まるで筋書きを忘れていたヴァン・ダインの『僧正殺人事件』を読んだ。
マザーグースの童謡につれて、その歌詞のとおりに怪奇陰惨をきわめた連続殺人事件が発生する。無邪気な童謡と不気味な殺人事件という鬼気迫るとりあわせ!友人マーカスとともに事件に介入したヴァンスは、独自の心理分析によって歩一歩と犯人を断崖へ追いつめる。『グリーン家殺人事件』とならんでヴァン・ダインの全作品の頂点をなす傑作とされている名編。本書を読まずして推理小説を語ることはできないといっても過言ではない。

キャッチコピーどおりの名著だと理解を深くした。これなら食わず嫌いのオジサン族にも安心してすすめられる。

本格探偵小説には個性的な名探偵が登場しなければならないしその謎解きプロセスが読者にとってすべからくフェアでなければならない。フェアとミスリーディングは紙一重だから「本格」の定義をめぐっても議論百出があるらしい。ただ古典的には「ノックスの十戒」があり、ヴァン・ダインはそれに輪をかけた「二十則」を強調するくらいだから、うさんくさい「本格」を読むような重箱の隅をほじくらずともそこは完璧にフェアのはずだ。厳密にこだわる必要はないでしょう。

そして名探偵ファイロ・ヴァンスの個性が光る。作者ヴァン・ダインは美術愛好家であり、文芸評論、演劇評論など芸術家肌の文化人として活躍していた人でその人物像をそのままヴァンスに反映させている。ここできらびやかな「蘊蓄」が語られることになる。数学論、宇宙論、ニーチェ論、精神分析論、演劇論。衒学的蘊蓄論といえば最近のミステリー界では本筋そこのけ、まるで安易な知識情報小説まがいにとってつけのこれをえんえんと繰り広げるのがはやりのようだが、『僧正殺人事件』の蘊蓄は質が違う。それは作者自身の深みが滲み出るような素養であるばかりでなく、すべてラストの解決へむけて論理的完璧さを保証するための手がかりとしてむだなく細密にはめ込まれているところだ。

この作品は1929年に発表されたものだが犯人像がまるで現代的なのだ。おそらく発表の当時に日本で読まれたならば、仮想の人物像としておそらくリアリティーは持ち得なかったのじゃないだろうか。特異な精神異常者である。わけのわからない犯罪が頻発する今だからこそ、このての犯罪者は充分に存在するような気がする。しかも犯人を推定する道筋がこれまた驚くほど現代的なのだ。アメリカが発祥なのだろうか、よく犯罪小説でプロファイリングという手法を目にする。あれはもちろん過去の犯罪のデータベースを基礎にしているが、小説やドラマなどで知る限りではおそらく精神異常者が創る特異な世界を捜査官が構成しその世界に通用する特殊な論理を推定し犯人像に肉薄していく手法なのだろうが70数年も前にヴァンスはドラマティックなプロファイリングをみせてくれる。

また、いま評判の高いミステリー、東野圭吾『容疑者Xの献身』では数学者と物理学者の思考方法を犯罪に絡めているのだが、これは『僧正殺人事件』とよく似た発想で、その意味でもこの作品のすぐれた現代性を見いだすことができるのである。


ところで当たり前のことだが「古典だな」と古臭さを感じるところにも気づかされる。

犯人像とか動機とか小道具の扱いのことではない。文体が醸しだす小説表現の古めかしさがある。
それはあまりにも異常で、邪悪で、普通の人間がもっている精神では、とうてい信じられないほどだった
この奇怪な事件にはなにかしら、より深いものが、なにかしら思いのほか陰惨で、戦慄すべきものが、潜んでいる
ヴァンスが、あの古い、耳なれた歌の文句をくりかえしたとき、まるでなにか目に見えない幽鬼がそばにいるかのように、私はぞっと寒気がした

このように本格探偵小説では作者があるいはこの小説では「私」がまるでキャッチコピーのように読者に説明するところが文中で何度も何度も繰り返される。主人公の探偵がいかに頭が切れるかを描写するのもいくつも感嘆詞つきの賛辞を重ねるのが普通である。
子供のころの紙芝居の語り口を思い出します。
江戸川乱歩の怪人二十面相もそうでした。横溝正史にもそんな雰囲気があったし、高木彬光の初期の神津恭介シリーズにもあった。
語り手の読者に対する過剰な介入。
それは懐かしい語り口なのだ。懐かしいのだが子供に噛んで含めるようなところで「余計な!」と気に入らない余韻がともなうのだ。

「社会派」に馴染んでミステリーに入ったものだから「本格派」も「その他派」も定義はあいまいのままにちょっと飛躍かもしれないがあえて言えば社会派と呼ばれた推理小説作家たちはこれはしなかった。事件がたとえ奇怪、異常、邪悪、陰惨、戦慄、酸鼻、であっても作者、あるいは語り手の「私」はそのままの言葉で説明はせずに読者を物語の中に臨場させる手法で情感においてストレスを実感させたものだ。当時はそんなことには気がつかなかったのだが、いまになってだから松本清張や水上勉は新鮮だったのだと思い当たる。

ヴァン・ダインは論理的な謎解き以外のたとえば恋愛的要素など総てを排除すべきとする極端な本格派だったのだそうだ。論理にこだわれば情感は語り手が説明することになったのだろう。

感服すれど感激せず。ここに本格探偵小説の真髄がある。これも又楽しからずや。


A・J・クィネル 『トレイル・オブ・ティアズ』

冒険小説の第一人者 A・J・クィネル氏がなくなられました。つつしんで哀悼の意を表します。

2005/07/20
本日の日経紙、死亡記事にこうありました。

英国の冒険小説作家。マルタ観光局日本地区代表事務所に19日までに入った連絡によると10日、肺がんのためマルタ・ゴゾ島で死去、65歳
英バーミンガム近郊の町に生まれ、1980年代に「燃える男」で作家デビュー。ほかに「スナップショット」『サンカルロの対決」などの作品がある。「燃える男」は2004年の映画「マイ・ボディガード」の原作となった。(共同通信)


日経紙の死亡記事に外国のミステリー作家が取り上げられることはあまりないのではないか。この記事からもご本人が日本に関心の深かった方だったことがうかがわれます。

クィネルといいますと一般には次のように紹介されていまして謎めいた作者でした。
(クィネル〉1940年アフリカのローデシア生まれ。国籍不明の匿名作家として1980年に「燃える男」でデビュー。他の著書に「ブラック・ホーン」「地獄からのメッセージ」など。


マルタ島を根城にする元傭兵のクリーシーが活躍するシリーズはおそらくこれだけでしょうがすべて読みました。いずれも冒険小説としては傑作でした。
『燃える男』『パーフェクトキル』『ブルーリング』『ブラックホール』『地獄からのメッセージ』
これはこの順序で読まれるとよろしい。

彼の日本に紹介された最も新しい作品は『トレイル・オブ・ティアズ』だと思います。2000年の作品ですからその後は発表がなかったのでしょう。

2000年8月1日のなぐり書きを再紹介します。
クィネルの作品は元傭兵のクリーシーが主人公で活躍する「クリーシーシリーズ」ものと『メッカを撃て』『スナップショット』のように独立した物語とに分けられるのだが、いずれも、とてつもない巨大勢力を持つ悪玉との対決、攻略の面白さが醍醐味だ。

新作の『トレイル・オブ・ティアズ』は独立系であるが、期待通り、連日の暑さのなかで消夏用として清涼効果満点の作品である。荒唐無稽といえばその通り、いつものパターンといえば否定するつもりもないのだが、勧善懲悪のわかりやすい対決構図はボーっとさせられる熱気のなかで読むに、ふさわしい。

クィネルの作品は昔の東映やくざ映画……「仁義なき闘い」以前の「任侠もの」、健さんが活躍したあの様式美……ここにある日本人的共感性と同じような味わいがあるんですね。

あたりはずれなくどの作品も傑作と言っていい質の高い冒険小説で、なぜかなと考えるに、大長編がないんですね。上・下刊とある大ボリュウムのどちらかというと水増しされた冒険小説にあたってがっかりすることがあります。密度が高い、スピード感を満喫する、このためには長すぎるのは難しいかもしれません。

参考 『トレイル・オブ・ティアズ』
拉致された世界的な脳外科医はどこへ、そして何のために? 巨大国家アメリカの深部で暗躍する国立人間資源研究所の極秘プロジェクトとは? 現実にあった事件を題材に、クローン技術悪用をテーマとするハード・アクション。