藤原伊織 『テロリストのパラソル』

忘れがたいこの名作を今再読してみる。

空には轟音をたてて旋回するヘリコプター。屋上から降りそそぐ火焔ビン、投石。粉塵や地上からの催涙ガスと放水で周囲は白煙にけぶっていた。
1969年東大安田講堂。
会社に入ってようやく3年がたとうとする頃だった。
<ここまでいっちまったのか………>
と市街戦さながらのテレビ映像をくいいるように見ていた。

2005/06/15

1995年、札幌赴任だった私がこの作品を読んだときには20数年前のこんな記憶にとらわれてしまったから、時の流れにあっても残されるものの重みが印象に残る名作だったとの思い入れだけで、傑作ミステリーとしてのポイントなど全く気にとめることがなかった。
最近になって藤原伊織氏が生存率20%の食道ガン発症で闘病中だと耳にしたことから、10年たってこの代表作を改めて味わってみたいと思った。
十年ひと昔と言うがふた昔ほどもまえの作品だと勘違いをしていて「携帯電話」が使われるところで、アレッと、勘違いに気がついた。私にとってこの十年は二十年に匹敵する密度があったからだろう。

島村圭介、新宿の場末のバーテン、飲んでいなければ手のふるえる重度のアル中、ときに西口地下道のホームレスと寝食を共にする<私>はウィスキーを流し込みながら昼寝していた中央公園で無差別の爆破犯行に遭遇する。死者17名、負傷者46名の大惨事だった。死者の中には警察庁現職の幹部が含まれていた。なぜかその晩のうちに二組のヤクザから襲撃を受ける。

全共闘闘争の生き残り、1971年に起きた車爆弾事件で殺人罪、爆破物取締罰則違反の容疑者として指名手配された逃亡者<私>に今日の無差別殺人にかかわる捜査の手が及ぶのは明らかだった。園堂優子、死者の中には姓が変わったが当時共に闘い、同棲していた女性が含まれていることを知る。
さらに桑野誠、同じ容疑から逃避行をつづけていた親友の名もあった。
あのときの三人が22年を経てその瞬間の中央公園に居合わせたのは偶然だったのだろうか。
読者を充分にワクワクさせる謎の提示であり、追いつ追われつのスリリングな展開、そして結末の意外性と、
申し分ない傑作のミステリーだった。

私はくたびれた中年のアル中にすぎない、あの時代は変色した写真のようなものだ。どこかにずっと眠っていた。それを引っ張り出す気になったことはない。けれどもいま、ふたりの死者がそれを揺り動かしている

だから昨日までの逃亡者のままでは生きている資格はなくなった。
二人の死者の墓標としてどこかにケジメだけはつけてやる。
またこれは第1級のハードボイルドでもあった。

そして結局、初読の印象そのものがこの作品の本物の値打ちであったと言いたい。
思考が一瞬停止し、それからいちどきにすべての光景が甦ってきた。私たち三人がすごした日々。それはなにかの痛みに似ていた。目を射る光のような痛みであり、懐かしい痛みのようでもあった。歳月は水のように流れた。私の無知をたどり、二十年以上を流れたのだ。

そしてホームレスのタツ、ハカセやヤクザの浅井などの脇役、ラストで姿を現す敵役の個性が際だつ。<私>たち三人とそれぞれの登場人物の過去がたどられ、現在があるその人生観がこの物語を深いところで完成させている。
たしかに時がたてば人は変わる。しかしそう言った<この男>こそ、それはいちばん似つかわしくないように思えた

だれもが「この男」にあてはまる人たちである。
それぞれにとっての人生だった。夕日に背を向けて歩いている。足下から自分の長い影が目の前にあってそれから目をそらすことはできない人たちなのだ。と私には思える。

読者の中に、自分にも似たような感傷があるなぁと、一瞬、ページをくる手が休むことになれば、この作品は単にエンターテインメントの傑作ミステリーにとどまらず、その人の記憶にいつまでも残る名作としてちょっと格上げしてもいいではないか。

なお氏の新作『シリウスの道』が発刊されました。早速読んでみることにします。
氏が早く健康を取り戻し、お元気に執筆活動を再開されることを期待しています。


藤原伊織『シリウスの道』

広告業界、異彩のサラリーマンが現場で大活躍するその展開に引き込まれて、電車を乗り過ごした。だが直後に藤原伊織のあのイメージからは期待がはずれた凡作と思った。そして一日たったところでこれは傑作だと気がついた。

2005/06/21

辰村祐介 38歳独身、テレビもない床には新聞や雑誌が散らばり雑然としたワンルームマンション。ショートホープを切らせないヘビースモーカー。下手な競馬。帰宅してウイスキーボトルを半分開け、そのまま寝込む。しわくちゃな背広のままに臭い息を吐きながら出社におよぶ。上司へはへつらわない過激な発言。
深夜の新宿、風俗呼び込みのチンピラを拳で殴り倒す。顔面血に染まった男に背を向けた孤影。
「おれなんかさっきの呼び込みのような生活がいちばんお似合いなのかもしれない」
危うい魅力が漂うはみだしもの。充分に濃厚なハードボイルド調を期待させるスタートである。
さらに新宿厚生年金会館近くバー吾兵衛、つまみは唯一ホットドッグ。客席には50をこえたひどく暗い目をした男。左手の指二本が欠けている。浅井志郎との邂逅である。つい最近、著者のデビュー作『テロリストのパラソル』を読み終えたばかりだから、浅井が辰村に「目の光がその男に似ている」といい「あの男は3年前に死んだ」とつぶやく段になればテロパラを思い出すことのできる読者だけの特権といえるこの味わいにゾクッとしたものだ。

そして辰村の哀切の過去が語られる。25年の歳月の向こうに大阪の下町今里。貧しさだけではすまなかったそれぞれの家庭。同い年13歳の少年二人と短い髪の少女。三人が共有した陰惨な出来事。少年二人のあの決意と行動。固い絆の確認。
消息も途絶えた25年後にその秘密が暴露されようとしている。時の流れは三人を変えたのか三人は変わらなかったのか。
ただし、ここはミステリーファンならば「使い古されたテーマ」だと思うだろう。そう思って私も読み進めた。

しかしながら、辰村祐介、東邦広告勤務。広告業界ではなうてのスゴ腕、第一級の営業マンだ。
仕事に使命感があるとすればただ一つ、顧客ニーズに応えること。いくつもの難題をかかえる顧客からの注文。それを実現させる磨かれたスキルを持ち、同業他社との熾烈な競争に連勝。そのためには緻密なデータ収集と戦略の立案。分業化した社内の専門機能を円滑に活用し、部下の見えない力を引き出し、周囲からは信頼され、上司には的確なアドバイスを与える。責任は回避せず、他人から受けた恩義を忘れることはない。リスクへの洞察、先見性をもった判断と、タイミングを逸しない決断。つまり押しも押されもしない完璧なプロフェッショナルなのだ。
と述べてみたが小説にはこのような表現はない。私が勤めていたことのある企業の人事考課の項目を彼の行動に即してまとめてみた人物像である。

ストーリーは東邦広告に持ち込まれた規模18億円の大型プロジェクト受注競争の顛末が主軸である。さすが電通勤務経験のある著者だけにこの現実的テーマを劇的に感動的にしかもリアルに活写するものだから共通の日々をおくるサラリーマンにとってはグイグイと引き込まれるはずだ。いくつもの付属したエピソードはあるがそれを捨象したところの受注競争一本のストーリーだとして、読者はこれで充分満足するだろう。

ただ、アウトローとの親交、時を経た友情と著者らしいエピソードはあるものの味付けに徹底が欠け、あの『テロリストのパラソル』の世界はどこへ行ってしまったのだろうと寂しい思いがするかもしれない。私がそう感じた。しかし、現実の企業とそこで働く人をここまで生き生きと描いていれば旧い感傷的テーマは横に置いてもいいのじゃぁないかなと辰村というニューヒーローの登場にわたしは少し前の職場に復帰したような気分になった。

ところで
この小説は広告業界を舞台にしただけで、単に昔からある企業内幕ものではないか。
常識を忌避するスーパーマンサラリーマンがワルをやっつける痛快話なら掃いて捨てるほどある。
だいたい主人公の周りにはいい人ばかりが多すぎるご都合主義。
との見方がありうる作品である。

私がこれを傑作だ、ニューヒーローの誕生だと思うところ。
今日ある企業は経営そのものがコンプライアンスを抜きにしては存続できない状況にある。だから昨日までのようなトップ、あるいは経営陣が法令違反をしていることを前提に、型破りの主人公がこれも法を犯す覚悟で胸のすく活躍をするストーリーは時代遅れのオハナシになってしまい迫力は失われた。ライバル企業だって違法な手段による妨害工作などしない。辰村はきわめて健全な常識人のサラリーマンであり、競合相手との戦いも裏技なしの正攻法だけである。彼の上司だってトップはなおさら「いい人」ばかりであることにこそ真実味がある。少なくとも腐った首脳が長いことその座に居すわるはできない。それがバブル崩壊の後、再生しつつある企業一般の実像なのだ。

藤原伊織はあきらかに企業体質のこの変化を的確にとらえている。オハナシというものはこれではおもしろみが薄れるはずなのだが、あるべき企業活動を正面からとらえてこれだけ劇的に描くことができればやはり傑作としか言いようがない。

垣根涼介 『君たちに明日はない』

今年度の山本周五郎賞受賞作。山本周五郎賞は平成15年、京極夏彦の『覘き小平次』平成16年、熊谷達也『邂逅の森』が該当作品であり、新潮社がスポンサーとなってそれなりの文芸作品を対象にしているのかと思われた。垣根涼介の作品は『ワイルドソウル』を読んでみたいと思っていたところで、「山本周五郎賞受賞」をおおきく白抜きした表紙帯にひかれて、まずこの作品から読むことにした。

2005/06/26
リストラを専門に請け負う会社に勤めている真介の仕事は、クビきりの面接官。昨日はメーカー、今日は銀行、女の子に泣かれ、中年男には殴られる。はっきり言ってエグイ仕事だ。それでもやりがいはあるし、心も身体も相性バッチリの恋人もいる。そして明日は………?
笑って唸って泣かされる、女と男の危ういドラマ。


「小説新潮」に掲載された短編5作を連作風にまとめたもので、人員整理を進めようとする会社の人事部を補助するコンサルタント業のエピソード集である。
「何故わたしなの」と
すっとぼけ、首を切られるのを渋る能無しを相手に
「こういう理由であなたは必要ないのです」
グウの根いわさず、論駁し、希望退職に持ち込む。真介33歳だ。

長いことサラリーマンをやってきてリストラの両サイドと身近につきあってきたものからすると、普通の企業の人事部であれば、転職先を探すために人材コンサルと契約することはあっても、退職勧告を他人まかせにするような不誠実はしないものだから、まず、世間知らずが書いたいい加減な話だなと第一印象。
しかし、「山本周五郎賞」を受賞できたとすれば、きっとお互いに深刻な問題をゲーム感覚でさらりと描いているその気分が新しい時代の風潮なのかもしれないとそんなところが評価されたのかしら。わたしにしてみれば「職を得る」、これはゲームじゃないぞって腹が立つくらいなのだがね。

「生涯の伴侶を得る」ことだって大切な問題でしょう。それを恋愛とかセックスもゲーム感覚なんだな。真介君自身も、また彼の相手である40歳を超えた熟女たちも考えていることは相手に「どうか結婚してください」と頭を下げさせてその勝利感として自己満足しようとオシャレ、会話、食事、ムード作り、『愛の流刑地』並みのベッドテクニックを競って楽しんでいるように見えてしまう。

ゲーム感覚だって言うのは、要は生活感がまるで希薄なのだな。これは小説がまずいのか、そうではなくて、実際30台の人たちって真剣な生活なんてものとは無関係に生きているのだろうかと、むしろそうならその方が情けない。

ただこの本音をもらせば
「年寄りがわかったようなこといってんじゃないよ。私たちだってマジメに迷っているし、真剣に考え、悩んでいるのよ。そっちには迷惑かけるつもりなんかこれっぽっちもないんだから、そんなお説教はなんの足しにもならないの、オトウサン!!!」
と時々我が家へ顔を出す娘どもからガツンと反撃されるのがオチだな。

さわらぬ神にたたりなし。

「この作品は行間にいいところもあります」
と締めておきましょう。