北方謙三 『水滸伝 第十六巻 馳驟の章』

「原典水滸伝」をうわまわる天衣無縫の大活劇はなくなってきたような気はするが
2005/02/05
第十五巻に引き続き、新たな激動への転換を予知させる踊り場にあって、宋国、梁山泊双方とも軍事力を養いつつにらみ合いの均衡が保たれている。講和工作も虚虚実実のところは滲むが本格化する次巻以降が楽しみだ。宋国中枢を牛耳ってきた影の勢力青蓮寺、その首領袁明に対する梁山泊特殊部隊の作戦が第十五巻の見せ場になっている。宋禁軍の元帥童貫が最強の部隊を率いていよいよ表舞台に現れる。ただし、個々の豪傑たちのエピソードに精彩がなくなった。豪傑たちばかりでなく、宋側にある異色の人物がみなその強烈だった個性が薄らいでいく。なかにあって女真族への浸透工作を任ぜられた愛すべき英雄、武松と李逵の活躍だけが光っているだけだ。梁山泊の大義・替天行道、それは読者をも魅了したものであったが、いまや風化しつつある。

これまで読者を楽しませてくれたところの「原典水滸伝」を下敷きにした英雄豪傑たちの波乱万丈はもはや期待できない。物語は北宋崩壊に向けた歴史的事実に限りなく近づいていくからだ。満州からモンゴル平原を支配する契丹族の中央集権国家・遼。北宋時代に国境侵犯を繰り返す最強の夷敵である。その遼にあって王朝の支配に反目する大部族女真。女真族と連携を深めようとする梁山泊。いよいよ武松と李逵の前に女真族の若者・阿骨打(あくだ)が登場する。大波乱の前兆を見た気がした。

宋国にとっても梁山泊にとっても最大の課題は「外交問題」となって風雲急を告げる。ここで私は興味津々として「原典水滸伝」よりも北宋末の史的事実と比較しながらこの大河小説の帰趨を見つめていきたいと思う。

世界史の年表にはこうある。
1115年:女真族の阿骨打が金を建国
1125年:金、遼を滅ぼす。
1126年:靖康の変、金が北宋を滅ぼす。
武松と李逵とがよしみを通じた若者はやがてこういう人物に成長するのだ。

北方謙三の創作した梁山泊という集団は女真族へと合流して北宋を滅ぼすのであろうか。尊皇攘夷の旗の下に改めて結集し、外敵に立ち向かい北宋と運命を共にするのだろうか。
いやいや北方のロマンはそんなものではないだろう。
視点は変わっても面白さは変わらない。ますます目が離せなくなってくる。

北方謙三 『水滸伝 第十七巻 朱雀の章』

最終章へ向けて若い命が立ち上がる

2005/05/16
腐敗混濁の世を正す、「替天行道」の旗の下に結集した叛乱軍梁山泊。ついに宋国は梁山泊の完全殲滅を宣言した。十六巻までに108人からなる梁山泊の同志たちの33人が死んでいる。そしてこの巻では大幹部二人を含めた11人の命が失われる。

1 禁軍・最強の統帥童貫が直接采配をふるって、梁山泊へ総攻撃が始まった。
この双方大消耗戦の帰趨は?

2 梁山泊にとって必勝の期待はすでに潰えている。一方、軍事攻防と同時に北宋皇帝側近との政治的駆け引き・講和工作が進んでいる。
虚虚実実の、講和工作の真の狙いは?

3 梁山泊側も闘争は戦のための戦に退行、反乱の本来の大義は風化しつつあるように見える。
「替天行道」の夢の行方は?

この章では三点がポイントとなる構図にある。

このあたりを『原典水滸伝』で振り返ってみよう。
もともと梁山泊徒党は暴力的に財貨を奪取する強盗集団なのです。頭領の宋江は梁山泊を強力な軍団に育て上げ、朝廷に高く売り込み、官軍に組み込んでもらい、上等の官位を授かりたいだけのきわめて泥臭い俗物なのでした。「替天行道」も世のため人のためという高次元の思想じゃない。皇帝陛下への「忠義」の道なんですね。
朝廷は勅使をもって梁山泊を招命しようとなんども働きかけをします。つまり今までの罪はご破算にして高い官位を与えるから味方になってくれとの依頼です。宋江と一部の幹部は勿論この誘いに乗ろうとするが反対派もいてごちゃごちゃしている間にも戦火は拡大します。
さらに、108人はすべて存命していまして、童貫軍も高キュウ軍もことごとくやっつけてしまう。
そして宋江側から招命に応ずる工作がうまく運んで、めでたく108人揃って官軍入りをする、これが『原典水滸伝』
最後は朝廷にいいようにこきつかわれ、宋江をはじめとしてほぼ全員が死んでいくのですからカッコイイお話しではない。

さて肝心の『北方水滸伝』だが、もともとそうしないところから書き始めたはずです。ならば、首領・宋江はこの混乱をどのようにおさめるのか、そろそろ読者に対して見通しを示さないと『原典水滸伝』と同じくこの大長編小説も竜頭蛇尾に落ち込むぞとイライラしてきました。

ところが、さすが北方謙三。
ラスト近く、ストーリーはジワリと新展開をのぞかせるのだ。


この物語の当初から登場し、戦闘には加わることなく、全国を巡り、体制打倒「替天行道」の思想を説き続けてきた男がいる。放浪の僧・魯達、かつて魯智深と名乗った豪傑。
彼もまた枯れ木が朽ちるごとくに、子午山奥深くの庵で病床に臥せっていた………。そして………。

終章へ向けて、
新たな息吹の萌えあがる予感が
いやがうえにも高まる。
こここそ、「朱雀の章」の読みどころだ。

北方謙三『水滸伝 第十八巻 乾坤の章』

これが最終巻になるものと思っていたがどうやらもう一巻あるようだ。『原典水滸伝』に史実を加えれば第十九巻でおそらく梁山泊軍は壊滅するのであろう。ここではその最終戦争の一歩手前の攻防戦の輝きがみられ、緊張感ある戦闘シーンを堪能できる。黄河と梁山泊湖で繰り広げられる水軍の激突。要衝二竜山、攻防の末の落城。そして宋禁軍の元帥・童貫との総力戦のせめぎ合い。いずれも印象に残る名場面であった。
このところ多少うんざりする語り口が続いただけに、久々に興奮を覚える描写の連続を楽しむことができた。

2005/08/04
本巻では梁山泊の隠し球・楊令が子午山を下って、いよいよ激戦に参列する。

ここであらためて子午山の王進と楊令について振り返っておくべきだろう。王進、元禁軍武術師範。高潔ゆえの冤罪から逃亡し、子午山深く老母と隠棲する。母思いの孝行者。108人の中ではないが梁山泊のシンパ。武術においてはおそらく登場人物のナンバーワン。豹子頭・林沖の師にして、粗暴な九紋竜・史進を男に育んだ人格者。兄嫁を犯し自殺に追いやったことで自己喪失の淵にあった武松の魂を救済する隠者である。悲運の少年楊令は青面獣・楊志に拾われ、しかしその楊志が青蓮寺の陰謀で非業の死を遂げる現場を目撃、人間の感情を失う。王進はトラウマの楊令を育てる。晴耕雨読、心を俗世間の外に遊ばせる隠者がその生活を通して人間を育て、しかも武術も鍛え上げる。その結果、秘蔵っ子・楊令は文武ともに古今無双で、人格者としても完成された。しかも魯達が死の間際に「替天行道」の精髄を注ぎ込んでいまや梁山泊そのものといえるまでに昇華した超人的存在である。この伏線があるだけに、戦場での戦ぶりは読者の高まった期待を充分に満足させる。さしずめ
「待ってました」
と声をかけたくなる華やかさで登場する。

この大河小説を通読して気づいたことだが、広域にわたって繰り広げられる集団の戦闘を俯瞰的に描写するところがいくつかある。軍学書に詳しくはない読み手がこれをイメージするとなると難しい。詳細であるほど臨場感がわいてこない。この効果は映像にはかなわない。北方のチャレンジ精神は評価するがしばらく退屈が続いたのはこのためもあるだろう。小説体ではやはり伝統的手法で、敵にしろ味方にしろスポットライトの中でヒーローが超人的技を披露し、勝敗を決するほうが迫力はあるようだ。実際の戦争はそんなものではないとわかっていても感情移入の効果も含めればこれが妥当なようである。そしてこの巻ではこれまで慣れ親しんできたヒーローたちが激闘の末に浪花節的感動でもって最期を遂げる。

アクションシーンだけではない。男女の交情、親子の情愛、子弟の薫陶など人情の色模様、さらに英雄・豪傑たちの義や信、誠に生きる男のつきあいの世界がこの巻で復活する。

じっくり腰を据えて本丸梁山泊の中枢にじわじわと攻め寄る童貫軍。絶体絶命の梁山泊。そして軍師呉用が仕掛ける乾坤一擲のはかりごと。この用意周到な「謀略」という妙味を味わうのも久しぶりだ。

要は北方『水滸伝』の大衆をワクワクさせる通俗の名調子がギュッと凝縮されているのである。

「替天行道の志が途切れないようにしておくのも、私の仕事だ」
軍師というよりも大戦略家である呉用は人知れず梁山泊壊滅を想定して、明日につなぐ道筋を模索している。
「北へ」

そして二人の若者、梁山泊・楊令と女真族・阿骨打の邂逅。

宋軍二十五万から再編された精強、童貫軍の八万が梁山泊四万に向かう。

ラストに向けて読み応え充分の一巻だ。

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