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江川卓 『ドストエフスキー』
新書版で「ドストエフスキー」と表題されていればこれはドストエフスキーのひととなりをを概説したもので、これからその作品群を読み始める人のためのいわば入門書かと思われがちである。あるいは一般教養として、この世界史的な文豪をちょとかじっておこうと手に取る人も多いだろう。だがその当ては完全にはずされる。
2006/03/29
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一昨年のこと、『罪と罰』を読むこと三度目でありながら、相変わらず咀嚼できずに喉元に異物感を覚えながら、江川卓の『謎とき「罪と罰」』にある重要なヒントを得てストンと胃袋におさまった安堵感を覚えたことがある。
著名な識者の価値観で説かれたドストエフスキー論を読むのもひとつの読書ではあろう。ただ、その場合はドストエフスキーそのものと向き合うのではなく、むしろドストエフスキーを素材にした識者の人生観や世界観を味わうことになろう。ところが江川卓には自分が咀嚼したドストエフスキーの味わいを「わかりやすく」解説する姿勢はない。読者がどう咀嚼しようが読み手の自由な精神で味わうのに役に立つ「材料」を提供してくれるのだ。この書はドストエフスキーと直接向き合おうとする読者のためにある。
昨年は二度『悪霊』を読んだ。一般には悪霊の化身・スタヴローギンすなわち無神論的革命主義者の自滅を描き、現実におこった社会主義革命の終焉を予言しているなどといわれているのだが、私にはどうしてもそんな読み方はできなかった。読むほどにスタヴローギンに親近感を覚え、またわが国の今の精神状況との似通った印象が深まるのだった。江川卓の「謎ときシリーズ」には『悪霊』がないため、本著を読んだのだが、目からうろこが落ちるというのはまさにこういうことを言うのだろう。
著者はロシア語の原典を詳細に研究し、ドストエフスキーの表現する「単語」「文節」「語り」「人物名」「表題」などに様々な隠喩、文豪の思い入れが含まれていることを分析している。ドストエフスキーの主要作品を例に挙げて、、そこにある多義的な意味と文体の背後にあるロシア・ギリシャ神話、ロシア民話、古今の文学、時事問題などを要所要所で具体的に説明し、その重層的小説世界の魅力を浮き彫りにする。この時代は国教であるロシア正教と西欧近代思想と一体になったカトリックの対立構図があり、そこに邪教とされたロシア固有の宗教観念が根強く存在したところから、特に聖書とロシア神話・民話からの隠喩が読みとる上でのキイポイントとなっているようだ。
たとえば、目からうろこの『悪霊』であったが、それは「よく知られているように小説『悪霊』には二つのエピグラフが付せられている」と私のようなエピグラフなど無関心でいいい加減なものにはこの部分の著者の解説にギクリとさせられた。ルカ福音書の引用が反キリスト者の惨めな末路を象徴していることはわかるとして、プーシキンの詩の抜粋が反キリスト者であるロシアの神々に対する愛着・郷愁であることがここで紹介された資料とその分析でなるほどと知ることになった。そしてこのプーシキンを挿入するまでの劇的なプロセスを見せられれば、悪霊の意味する二重構造性がそのままドストエフスキーの内面の葛藤であることに気がつかされるのだ。
市場原理主義の横行に業を煮やして武士道精神とか惻陰の情に回帰したい心情はわからないでもない。しかしあまりにも短絡に主張し過ぎるこの現代の精神状況はどうかとも思う。こじつけではないよ。革命の時代は終わってもいまなおドストエフスキーの時代は続いている。両者ともに悪霊だからだ。
ドストエフスキーの作品を読んだことのある読者ならば本著によってこのような新たな発見を必ず得ることができよう。そしていっそう深みのある自分自身の読書を楽しめること、間違いない。
また、本著で分析されるいくつもの作品は粗筋も書かれていないため読んでいない人にとってはそれこそ消化不良なのだが、ただしこれから読んでみたいと読書欲を猛烈に増進させる効用がある。
わたしも今年は『カラマーゾフの兄弟』に挑戦しようと思っている。
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速水敏彦 『他人を見下す若者たち』
バカなことをと見下されるのを承知のうえでこのオジサンは言っておきたいことがある。
この悪循環をだれが断ち切るのか。家庭のしつけか、学校の教育か。そこに期待できないとすればだれがやるのか。
2006/04/06 |
ごく最近のことだ。滅多にないことだが、身近にいる若者の何人かと個人的な就職問題でいささか深刻な会話をした。その体験から本著を読んでみる気になったのだが、直後のせいもあってひとつひとつの分析結果がいちいちもっともだと思われてならなかった。その後、ある大企業の部長職に
「最近の若者はキレるそうだが職場で実際そうか」
とたずねてみた。
「仕事上でキレて問題をおこすことはありませんね。結構一生懸命にやってくれますよ。ただし、相当なストレスがかかっているでしょうから、職場を離れたところでキレまくっていることはあるかもしれませんね。『2ちゃんねる』に上司やトップを名指しで『死ね』と悪口雑言、誹謗中傷をぶちまける社員は結構いますから」
と怖いことをおっしゃる。
「仮想的有能感」。自分以外はみんな馬鹿だといつのまにか思いこんでいるのだという。そう思いこむことで一時的に自分の体面を保ち、個を主張し、誇りを味わうことができる。厳しい競争社会についていけないものが身につけた必須の自己肯定感だそうで、哀れな心情と言えなくもない。ところがそのままに落ち着いてはいない。自分がいちばん偉いのだから罪の意識は希薄になり、大衆は劣等なのだから思い通りにならないと一瞬キレる、むかつく、さらには殺傷するところまで発展する。たしかに思い当たる事件は多発している。
「自尊感情の低下』。彼らにはヤル気がなくなっていることも指摘されている。
子どもや若者たちが大きな志を抱こうにも、周りにモデルとなる大人が存在しない。現実には存在しているのかもしれないが、彼らが憧れを持つようなコミュニケーションがうまくなされていないのだろう
と耳が痛い。
貧しさから豊かさへ。権威主義から民主主義へ。宗教の衰退。集団主義から個人主義へ。著者はこの日本文化の大きな流れがこれを助長していると分析し、その流れは変わらないのだから、このままに世代が進めば仮想的有能感が悪循環的に繁殖するだろうと危機感を訴えている。
仮想的有能感を断ち切る方法として著者は
「本当の意味でのしつけの回復」
「自分を価値のあるものと感じ、ありのままの自分を尊敬できるという、自尊感情の強化。具体的には一定の役割を与え、それを遂行させるという経験を積ませること」
「多くの人たちに直接触れ、実際に自由にコミュニケーションできる場を増やすこと」
をあげている。
著者の速水敏彦氏は名古屋大学の教授で教育心理学が専門である。
学者先生の著者は三つの解決方法を子どもの教育として家庭、学校に期待している節がある。ところが一方では彼はすでに家庭や学校がその能力を喪失していると実感しているのだから、提言は迫力が欠け、むしろ本書全体の印象は悲観的であった。
たしかに家庭や学校に期待するのはそれこそ、百年河清を待つであって時間切れである。
その教育をやれるのは企業しかない。
といえば、
「そういう人間を生んだ元凶こそ企業のビヘイビアではないか」
との反論があろうが、私は新入社員の教育にこそ三つの視点を組み込むべきだと思うし、それはいまこそ可能なのだ。
会社は一握りの投資ファンドのために存在するという市場原理主義の悪夢から覚醒した。今年の入社式、トップの発言では「原点回帰」「倫理」がキイワードだった。会社は社会のために存在する。働いている人間が誇りをもてる会社でなければならない。企業の価値は株式時価総額ではない、真の価値を追求する企業の社会的役割についての再認識宣言である。
会社は人である。仮想的有能感を持つ新入社員には現実的有能感をもてる人間に育っていただこう。経営側がこの本を読めば、マニュアルで即戦力をつけるだけでなくちょっとコストがかかるが甘ったれの新入社員にいちからの人格教育が必須であることを理解するだろう。
私にはそれが不可能だとは思われない。私が若者だった頃の職場はそんなことは人事部が研修しなくてもみんな当たり前のように身につけていたものだ。
陽はまた昇る!
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半村良 『産霊山秘録』
おどろおどろしい感がするが産霊山、<むすびのやま>と読む。30数年も前に書かれた半村良を代表するSF伝奇小説である。
2006/04/19
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最近ではあまり読むことがなくなったサイエンスフィクション(SF)も少年時代には空想科学小説と呼ばれジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズやコナン・ドイルに夢中になっていた。エドモンド・ハミルトンやE・E・スミスの宇宙大活劇を読みあさったこともあった。やがて、ちょっと小難しいアーサー・C・クラークやアイザック・アシモフの宇宙創生、宇宙年代史といった叙事詩ものに興味を覚えていた頃に日本のSFの名作が幅広いジャンルで開花を始めた。
その中には宇宙の誕生から現代にいたるまで森羅万象をつかさどる「巨大な力」を「神」「創造主」あるいは「宇宙の意志」と擬人化して人類の運命を左右するという当時としては、とてつもないスケールと想像力でびっくりさせられたものがあった。たとえば小松左京の『果てしなき流れの果に』と光瀬龍『百億の昼と千億の夜』がそうだった。ただその発想の奇抜さが記憶に残っているだけであらためて読み直してみたいとは思わない。
ところが半村良のこの作品はSF的手法では同系統にありながら、あきらかに人間の普遍的苦悩を基本テーマにして心打たれる思いがした異色作品だった。
ほとんど筋書きを忘れてしまっていた作品だったが読み返してみてあらためてその突出したエポックメーキング的傑作性を感じた。
『古事記』巻頭の天地創造。高天の原にある高皇産霊神。その神の子孫と信じられた「ヒ一族」。彼らは国家動乱期に歴史の裏舞台に登場し、鏡・玉・剣の三種の神器による超能力(テレパシー・テレポーテーション)をあやつり、平和を求めて行動する。
物語は戦国の世、織田信長の比叡山焼き討ちから始まり、関ヶ原、幕末、太平洋戦争、そして戦後の混乱期へと四百年の時を越える。
全国各地の民間伝承を巧みに織り込んだ伝奇歴史小説の傑作でもある。
万民のために平和を希求する天皇の守護神として生まれた彼らはやがてそのために世俗権力と結びつかざるを得ない。そして新たな殺戮の時代が生まれる。彼らは挫折しまたよみがえるが、現代にいたるまで庶民の安寧ははかない夢と化すのだ。いやむしろ彼らの働きがこの世のさらなる地獄を招く結果となる。庶民が救いを求め、祈りを捧げる「神」はいったい誰なのか。
食うか食われるかの大競争時代の今この冷酷な現実感覚は多くの人の共通認識であろう。
私は半村良が作り出したこの広大な宇宙観、世界史観に感嘆するのだが、半村良の値打ちはそれだけではないことに気づかされた。この非情世界にあってなお庶民のたくましさを描き、夢を追うことをあきらめないことへの賛歌を高らかにうたいあげている。それが半村良のやさしさなのだと。
四百年の時を越えて現代に移動した「ヒ一族」少年のラストの祈りには我々が忘れてはならない力強さが込められている。
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