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宮部みゆき「火車」
「火車」再読
2001/05/06 |
今なお親交の深い新聞記者のS氏から宮部みゆきの「火車」をどう思うかと問われた。平成4年に発表されたこの作品は当時、日本経済の爛熟期終末において「家計」がこうむった影響の重要な一面を経済の構造から説明してその悲劇を活写した傑作との印象をもったものだ。家計における消費活動が経済成長の最大のファクターであった。消費はまぎれもなく美徳であった。再読した今でも、その評価は変わらない。
当時はなんとなくこのヒロインを、そうした経済社会の犠牲者との捉え方しか出来なかったのであるが、再読してその印象はいささか間違いであったことに気がついた。宮部みゆきはこの作品で新しいタイプの女性の犯罪者像を創っていたに相違ない。
推理小説の真犯人が女性の場合、大体においてその動機は、現状を維持するために、過去において犯した些細な過ち(つまり殺人を犯すにはバランスの取れない)を隠蔽したいがための殺人が定石です。男の暴力に対する正当防衛的過失致死がその後の犯行の原因となる場合もありますね。で、作者としてはこの「過去の過ち」に主眼を置くことになる。安上がりの作品の場合は男性上位の社会構造を前提にそれを「女の業」とか「女の性」とかで締めくくるケースも多い。読者もこの論理に得心し、さもありなんとして悲劇の主人公に見立てる訳です。もっとも最近では女の変質者も登場しますが、これは別格。
「火車」のヒロインはこのタイプではないな。これは女性の「自立」がなせる「積極的犯罪」、同情の余地がない完全犯罪です………と気がついた。桐野夏生「OUT」の主人公には目を見張ったが、「火車」のヒロインはその前に登場していたんですね。
別の観点で新たな発見。個人の属性情報の漏洩問題が企業の重大責任として厳しく指弾される状況が生まれ、リスク管理の基本的テーマになっていますが、この作品はこの問題も鋭く指摘していた、いまさらですが、感心しました。
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宮部みゆき 「模倣犯」
現代を生きるすべての人に懺悔を強いる告発の書
2001/4/30
宮部みゆきがおそらく後世まで傑作として賞賛されるであろう犯罪小説を発表した。「模倣犯」。
エンターテインメントとしても屈指の作品。次々と緊張した場面展開の連続で読み出すとやめられない、よく言うジェットコースター小説である。犯罪者はこれまで描かれたあらゆる悪のキャラクターをはるかに凌駕する、現代社会に存在する邪悪の凝縮として登場する。その犯罪行為は読むものが怖気立つ描写で詳述されのであるが、
善意の人々に対し「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」
この作品が単なるエンターテインメントではないところは人間の直面する、変えることも回避することも出来ない絶対的な状況を犯罪者、被害者、その家族、と第三者(マスコミ、ルポライター、一般大衆)の行動・心理を抉り出すことにより、語っていることにあろう。
カッコ書きはこの犯罪者にピタリあてはまる表現であるが、実は聖書から勝手に引用したもので、絶対者から見た人間一般の姿である。「なぜ人を殺していけないのか」との問いが大議論になる今日的社会状況がある。「汝、殺すなかれ」の戒律から解放された時にラスコーリニコフ的魂の救済方法がもはやありえないとすれば………。この稀有の殺人鬼、その犯行の土壌、犯行が成立する環境などいずれも現実的存在感の重みをひしひしと感じさせるからこそ、これは恐るべき小説である。
雑感をいくつか。
とにかくまれに見る大長編ミステリー。だが冗長さは感じないのです。犯行そのもの、その波紋、そのまた周囲に起こる波紋を丹念に書くがいずれも庶民感覚、すなわち身近にある現実を描いて、絵空事と思えないところで緊張します。
組織の「長」は組織を維持、成長、変化させるために当然、環境変化を読んだシナリオを考えます。そのシナリオ空間にはステークホルダーだけではなく、マスコミ、お役所、マーケットなどなど、こちらの思い通りに動いていただきたいと切望するところがあるでしょう。万事がシナリオどおりに動くはずはないけれど、そのためにいろいろ努力します。人間ですからそのプロセスで喜び、落胆、喜怒哀楽の感情が発露されます。シナリオが完成すれば大喜びです。ここに犯人と共通する心の働きが見出せ、作者の目の付け所に感心する人も多いんじゃないのかな。特にマスコミ相手に仕事をしている方。
「模倣犯」このタイトルもひねりがある。これは作者の間違いではないかと思い続けました。犯人像が奇抜なだけに、最後なるほどねと感心しました。
宮部みゆき「火車」「理由」に続く、現代小説であります。彼女には時代小説、超能力者小説のジャンルがありますが、現代ものがいいですね。これは中で、白眉と言える大傑作だと思います。
ミステリーファンならずとも読んで損をすることのないお薦め。
ついに映画化され上演中です。
2002/06/01
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再読 宮部みゆき 『模倣犯』
今年の流行語大賞「小泉劇場」に思う。
2005/12/02
昨日、今年の流行語大賞は「小泉劇場」とされたようです。この一年間の世相を反映し、話題となった言葉に贈られる賞であるが、受賞者となった武部幹事長が女性刺客に囲まれ「小泉オペラまで盛り上げたい」と満面の笑みを浮かべた表彰式のテレビ映像を見ていると、皮肉なことだがこの言葉に潜んでいるマスコミというものの恐るべき魔力があらためて浮き彫りにされたとの感を強くしたのです。
そしてこのタイミングで宮部みゆきの『模倣犯』が文庫化され、より読者層をひろげたことはたいへん意義のあることだと思います。
聖書にはこんな言葉があります。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です
これは神の目で見た人間一般に対する告発ですが、われわれのだれもがもっている、その人間性の負のベクトルをつかみだせばこういうところでしょう。だから『模倣犯』の主人公はこの負のベクトルだけを集中した邪悪のかたまりなのですが、それは異常に見えて、どこか自分の人格には共通するところがあると感じさせる。それは作者の手腕です。
ところでこの邪悪の化身はマスコミを利用し、大衆の心理を操作し、時代の寵児としてもてはやされることになる。これが「劇場型」とよばれる社会現象です。宮部みゆきの『模倣犯』は2001年4月に発表された作品ですが、当時でも「劇場型犯罪」という概念はありました。
三省堂「デイリー新語辞書」では
国民注視の犯罪やその中で行われる犯罪。マスコミで犯罪やその捜査が逐一報道され,不特定多数が巻き込まれ進行する,犯人側も犯行声明などを送るなどの特徴がある。保険金詐取目的殺人事件や毒入り食品ばらまき事件などがその典型。
とあります。
ここでは犯人の精神のゆがみから派生する「愉快犯」のイメージしかありませんが宮部みゆきの「劇場型犯罪」はむしろ積極的にマスコミを操作し、大衆心理を意図したところへ誘導する頭脳型の犯罪でした。そしていまやこのスタイルが「劇場型犯罪」の典型とされているようです。
この主人公はたしかに憎んでも憎みきれない、抹殺すべき反社会的存在です。だが一方で彼を生み出した魔性の所在はマスコミの軽薄な姿勢にもあるのじゃないか。さらに言えばその軽薄なマスコミに踊らされた大衆にもあるのじゃないか。そして軽薄なのは大衆自身ではないか。私にはそういう警告的メッセージがひしひしと伝わってきたのです。
小泉さんは自他共に認める「劇場型政治家」なのですね。「劇場型」の意味がわかっているのかしら。オペラ座の怪人にでもなりたいのだろう。民主政治という理想の政治形態は、そのままにして独裁を生むこともあろうし、衆愚政治にも陥りかねない危うさを抱き合わせているものなのだ。そういえばもう一つの流行語大賞を受賞したホリエモンにしろ危うい自由主義経済論者、「劇場型事業家」そのものですね。
と、これは私のうがった見方かもしれないが………。
高村薫とは違って宮部みゆきは政治向きのことを意識して語っているのではないのだけれど2001年当時に彼女が持っていたマスコミと大衆心理に関するこの感性に私は拍手を送る。
そして『模倣犯』は『火車』『理由』とならんで著者の最高傑作だと思います。
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宮部みゆき「R・P・G」
濃厚なビフテキの後で
2001/09/15 |
宮部みゆきの「模倣犯」、あのボリュームを堪能したあとだけに、物足りないのではと先入観をもって「R・P・G」を手に取りました。なんと上等の鯛茶漬け!ひさしぶりの騙しのテクニックに、クリスティーを始めて読んだときの、それは「アクロイド殺し」、つづいて「オリエント急行殺人事件」でしたが、あの欺かれる爽快感にいっしゅん恍惚となりました。
まず、この鮮やかに仕掛けられたいわゆるどんでん返しの妙味、著者は反則業としているようですが、素直に賞賛できます。長編でないところも粋なミステリーとして絶妙。
次に、日常性ですね。最近のトリッキーなミステリーはおしなべて、パズルの世界であり、私の好みではない。主要人物は普通の家庭を営む人たちです。君は妻を愛しているか。妻は君を信頼しているか。子供たちへ良き指導を行えているか。子供たちは君を敬愛しているか。
それは夢。バーチャルリアリティー。実際にはもろく、いつ崩れてもおかしくない関係であるがそれでも落ち着きどころがこれしかない、一番自然体なんだと心得てようやく均衡をえているのでしょう。そこに事件が起こる。このリアリティーあってこそミステリーマニアの枠を超えて大衆文芸に昇華できるのです。
第三にインターネットを通じた「家族ごっこ」にバーチャルな夢を見る人々を登場させる、この今日的特異性を鏡の裏表のように現実と対峙させた配置の独創に感心します。
舞台劇を楽しむかのような読み心地もあります。
中学生の時みたアン・バクスター主演「生きていた男」、この衝撃的トリックを思い出しました。
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