トマス・ハリス 「ハンニバル」
作者が振り回された
00/04/23


トマス・ハリス「ハンニバル」。犯人を追いつめる前作「羊たちの沈黙」とは趣向を変え、魔人と悪鬼羅刹の私闘を何ともグロテスクに描いたもの。スプラッター(血ばかりでなくハラワタとか脳みそが飛び散る様)もここまで来ると滑稽の域に入る。女刑事がサディズムの生け贄にされる気の毒なシーンが積みかねられる。かわいそう。これらがたたみかけるように展開するのですからとにかくサービス精神旺盛の娯楽大作であります。人間の何層にもわたって意識下にある記憶、欲望を鋭利なメスで一枚一枚剥いでさらけ出す心理学的手法は実に不気味。「ハンニバル」という生み出されたたぐいまれな強烈な個性がベストセラーになり、映画でもヒットしたものだから、今回はそれがうれしそうに一人歩きして、まるで作者が振り回されています。

サイコサスペンスというジャンルがあるとして、これの前作「羊たちの沈黙」は猟奇性、異常性を徹底した点、ひとつの頂点にあるものだと思います。ヒチコック「サイコ」をもって嚆矢としたい。
本物の怖さは前作の方がはるかに強烈でした。小説としての香り、深みも前作が上回っているように思います。とは言え、この面白さは価値がありますね。ただ巷間言われている「善悪を超越し、神の存在を否定した、この世紀末を飾るにふさわしい大傑作」と持ち上げるものではないと思うのだが。
「レッドドラゴン」「羊たちの沈黙」と同じ人肉を食らう異常人格者であり、天才的頭脳をもつハンニバルさんのお話です。「羊たちの沈黙」を読まないと面白みは半減しますからそのおつもりで。

近々映画化されますが、前作の「羊たちの沈黙」で女刑事を演じた女優さんがあまりのおぞましさに再出演を断ったとのいわくつきのもの。おそらく観客を集めることでしょう。

ドナルド・E・ウェストレイク 『鉤』
『斧』と同様、痛烈なアイロニーが充満した作品
2003/06/15

著者はかなりのへそ曲がりだ。前作『斧』と同様に私にはやや理解を超えた人物像が描かれる。
前作『斧』で著者は現代アメリカのリーダーに共通する行動原理を次のように捉えていた。「どんな国でも、国民が重要だとみなすものを基準として特有の道徳や倫理規定を持っている。(………近頃は変化した)今日、我々の倫理規約は、目的が手段を正当化するという考えの上になりたっている。我々は信じるだけでなく、口に出して言う。我々の政府高官はいつも自分の目的に基づいて自分の行動を弁護する」

今回の登場人物の職業はふたりの作家である。ひとりは売れっ子のベストセラー作家なのだが、能力が限界に近づき、意欲だけで筆が進まないスランプ状態にある。もうひとりは売れるアイデアと力量はあるが、次の事情で出版業界ではもはや相手にされなくなった傷心の作家である。
実はこの小説の背景にあるアメリカ出版業界の特異性、ここが唯一、興味をかきたてられる肝心なところだ。いわゆるマーケティング理論がこの世界でも貫徹していて、ある作品がどの程度売れるかを予測するデータベースが完備されている。その予測値に基づいて出版社は採否を判断するのである。どんなに内容がすぐれた作品でもコンピューターのシミュレーションではじきとばされれば出版社はとりあげてくれない。まさに合理主義、効率主義が徹底しているのである。なお参考までにこれに類した業界事情はジョン・コラビント『著者略歴』にも詳しく記されています。

ベストセラー作家先生は君の作品をおれの名前で出版し、収入は山分けにしよう。そのかわりおれの女房を殺してくれと持ちかけ、二人の商談が成立する。そしてウェストレイクの本領発揮である。売れない先生はいとも無造作に彼女を撲殺し、平然としている。もちろんおふたりとも罪の意識はかけらも持ち合わせていない。目的達成のための最も効率性の高い手段としての殺人をここでは単なるハイリターンにともなうハイリスクととらえる合理主義感覚のようだ。
警察の捜査は手ぬるいし、ふたりが仲間割れするでもないから犯罪が解明されるプロセスの緊張感はない。倒叙サスペンス小説ではない、裏表紙に「殺しに狂わされ、徐々に荒廃している人間の内面を描き」とある。確かにそうなのだが、なぜ狂うのかが今ひとつぼんやりしているなと思ったのだが、養老孟司さんの小文を読んで納得できた。
「頭だけで生きている人間は『心身のバランス』を崩してしまうものなのです」「頭と身体の二項対立は、都市と農村、あるいは社会と自然の対立に置き換えられます」「身体は『内なる自然』ですから都市化が行き過ぎると身体にストレスがくる。しまいにはアタマまでおかしくなる」として唯一絶対の価値観を押しつけるアメリカ的思考を批判している。「都市化」を市場原理主義あるいは目的達成のための効率主義と置き換えればこの作品のテーマが理解しやすい。

『斧』と同様、痛烈なアイロニーが充満した作品である。


ドナルド・E・ウェストレイク「斧」
正しい殺人のすすめ
2001/06/02


私の友人は国際的商品マーケットを舞台に投資活動を行うプロで、そのビジネスにはアメリカロビーストとのコネクションが欠かせず、そのつき合いで得た、角栄失脚の真相、加藤紘一反乱劇のニアミス、小泉新政権の役割など日米政府間の裏情報を聞かせてくれるが、誠にミステリアスな世界である。彼が語るところでは「当分、日本はアメリカのいうがままに、なすすべもなく敗走を続けるであろう」と悲観的である。アメリカは原則論の国なのだそうだ。「政治家は確固たる理念を持ちその原理、原則を整然と声高に主張する」ところが日本の政治家は主張するに枝葉末節にとらわれ、信念としての国家観、主張すべき原理など自分のものにしていない、まして言語力が貧困では「議論して敵うはずがない」状態なのだそうだ。憂慮すべきことである。

「どんな国でも、国民が重要だとみなすものを基準として特有の道徳や倫理規定を持っている。名誉がもっとも尊重すべきとされた時代、品位にだけ関心を寄せる時代………。理性の時代は理性をもっとも価値が高いものと祭りあげ………、アメリカでは建国初期は労働倫理がもっとも大事な道徳表現であり、その後しばらく財産価値が他のなによりも尊ばれたが、近頃は変化した。今日、我々の倫理規約は、目的が手段を正当化するという考えの上になりたっている。我々は信じるだけでなく、口に出して言う。我々の政府高官はいつも自分の目的に基づいて自分の行動を弁護する」
この言葉はかの友人の言のようだが、そうではない。ドナルド・E・ウェストレイク「斧」に登場する主人公の最後の独白である。この小説は途中面白いとは思わなかったし、読了しても、所詮B級でしかないのであるが、この部分だけが関心を寄せた強烈に印象的なところである。リストラされた平凡な男が、「家庭の平和と安寧を守るという崇高な理念・原理・原則」を達成するために再就職活動を進めるが、その活動はねじり鉢巻の資格取得勉強でも、カンニング技法練達でもない。受験勉強と同じ感覚で、汗水たらしながら、なんと!ライバルたちの殺害を次々と実行していくのである。アメリカに潜む狂気。この作品はブラックユーモアらしいが、友人のお話からこの狂気をあらためて現実のものとして受けとめました。なるほどこれでは日本は殺されてしまいます。

「斧」にわずかに光るものがあるとすれば、あの歴史的名画を想起させるからだ。
かの人が生きてきた時代の為政者に対する憤怒と弾劾の思いを、最後の一言に凝縮させ、万感ゆする痛烈な皮肉で告発する、それ以外はその一言のためだけにある作品。

大恐慌によって破産し、すべてをかけて守ろうとした妻子を失ったヴェルドゥ。生きる為に平然と「生きる価値のない社会の寄生虫」たる有閑マダムを次々に殺害し、資産を奪う。彼は実直に銀行員を勤めた平凡なビジネスマンで、これらの殺人をビジネスライクにこなす。そして裁判。彼は語る。「大量殺人は世界が奨励しているのです。大量殺人のために兵器を大量生産して、罪のない女子どもを実に科学的に殺しています。大量殺人では私はアマチュアです」
牧師の祈りを振りはらって絞首台に向かう彼は最後に。「私にとって殺人はビジネスでした。ひとり殺せば殺人者。百万殺せば英雄。その数が殺人を正当化するのです」
チャップリン「殺人狂時代」昭和22年の作品である。