高橋克彦 「火怨」
敗北の美学
推理小説では「写楽殺人事件」SF伝奇で「総門谷」この二つの作品を読んでこの作家の力量を感じていました。しかし、「総門谷の続編、続々編」にいたっては、うんざり。量産で粗悪製品の多発に陥ったかと心配していましたところ、新ジャンルのまっとうな歴史小説、「火怨」、文句なしに面白かった。2001/11/3
八世紀、東北制覇を狙う朝廷の十万の大軍を迎え撃つ一万五千の蝦夷。真田戦記や三国志などかつて戦記物に興奮した記憶がありますが、智將、勇将が繰り広げる戦闘シーンの連続にゾクゾクし、義侠心、「男の心意気」にうっとりします。これは周りにいる若い人達に読んでもらいたいと思いました。高橋克彦は岩手出身で、その誇りとする強い思いが溢れる作品でした。             00/04/07記す

蝦夷(エミシ)とは日本古代史上、東北日本に住んだ土着民をさし、政治・文化の中心であった朝廷に従わない(まつろわぬ民)未開・野蛮な人たちであった。先進の軍事力を備えた渡来人・大和朝廷が西日本の先住部族を制覇、東日本もすでにヤマトタケルの時代よりターゲットではあったが、桓武天皇期におよび国家的大事業・大仏建立に要する莫大な金の需要によって黄金の眠る蝦夷地制圧は基本戦略として本格化していく。
土着の部族のなかにはすでに中央との交易によって財をなすものもあり、また農耕するもの、狩猟をなすものと、生活基盤はそれぞれに異なり、大軍を前にしてけっして反攻策に一枚岩ではない。朝廷側もあの手この手の懐柔策を弄し穏健派部族を篭絡しようとする。ここに主戦論を掲げ部族間の統一を実現するのが「アテルイ」と呼ばれる若き族長と参謀「モレ」であった。彼らは陸奥の山岳を堅牢な要塞とし、精鋭のゲリラ部隊を養成、遊撃戦をもってこれを迎え、数次の戦いに圧勝するのである。

ここにあらたに智将・坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、外交を併用したその軍略によって部族間の離反が相次ぎ、形勢は逆転していく。彼は旧来の「蝦夷はヒトではない。オニ、ケダモノである彼らを殲滅、蝦夷地経営を先進民族の直轄とする」大和朝廷の基本戦略を放棄、「降伏」を求めず、「和議」による解決の糸口を模索する。「同盟を誓った蝦夷らはことごとく許されることになった。支配地もこれまでと変わらぬ。朝廷はアテルイらばかりを敵とみなしておる」

「異民族の平等」「都と対等の国家建設」を夢とするアテルイは武人として信頼にたる敵将の前に腹心らと最後を戦い、この戦さの全責任を背負って投降する。「最初から死ぬと決めてかかったこと。と言うてこれ以上田村麻呂の軍と戦っては敵にも無駄な死傷者を出しまする。『蝦夷の先行きが定まったからには』死ぬのはわれらばかりで充分でござる」

この数年わが国経済の未曾有の混乱の中で、企業の合従連衡、吸収合併が進み、特に銀行、証券界では以前の会社名は消え去った。巨大外国資本に飲み込まれた企業、グループ化の流れに組み込まれた企業、これら責任者たちの多くがこの局面に真剣に立ち向かい、そして去っていった。その姿を見てきたものにとっては、実に感無量の内容が描かれている。

「結局アテルイの描いた国家建設はならなかったではないか」などとカタイことをおっしゃりなさんな。ここは敗北の美学に酔おうではないか。国内事情、国際事情に思いをはせながら。

坂上田村麻呂が創建したという京都清水寺にはアテルイ・モレの顕彰碑がある。


高見広春「バトル・ロワイアル」
映画でもお騒がせ
1999/6/3

高見広春「バトル・ロワイアル」こんなものが売れているのです。そんなことでゲテモノ食いとわかっていながら読んでみました。惹句通り「中学生42人の皆殺し」のお話。中学生同士が殺しあいをします。首が飛んだり、脳味噌が流れたり、眼球が解けだしたりするだけのお話。こういう連続殺戮シーンなら「風太郎忍法帳」の見せ場の工夫、手並みといい凄惨、淫靡、酸鼻、おぞましさ等々には足下にも及ばないですね。
迫力、緊張感で言えば最近のハンター「ブラックライト」やセイバー「地上50oの迎撃」など名決闘シーンとは比べものにならない。シュワちゃんの映画にも首輪を嵌めた殺し合いがあったな。
子供の備えている本質的残酷性を描いたウィリアム・ゴールディング「蠅の王」、これも少年たちの孤島での、集団、殺しあいと設定は似ているが 感動の名作です。この作家創造力に欠けていますね。

作者が何を言おうとしているかなどと詮索をする価値はありません。つまり「極限状態の真の友情を歌い上げた」とか「管理社会に対する痛烈な風刺」とか、もしそのたぐいの解説に会ったら惑わされないように。

良識人の大人には反面教師用教材としておすすめします。

高野和明 「13階段」
「量刑」に続いて読むべき、乱歩賞受賞作
2001/09/01

99年に総理府が実施した世論調査では死刑をやむをえないと考える人は79.3%と、調査開始以来最高に達した。その半数が「被害を受けた人の気持ちがおさまらない」を理由にあげていた。しかし一方ではこの世情に背を向けるように、死刑が回避され、量刑が軽くなっていくことはどうしたことか。………夏樹静子「量刑」より

高野和明「13階段」は一方で被害者側のこの論理が追求される。
殺人を犯し仮釈放中の青年と犯罪者の矯正に絶望し、職務上絞首刑を実行する刑務官とが
ある凶悪事件の死刑囚の冤罪を晴らそうとするミステリーである。

大規模テロに加担して無差別に13人の人間の命を奪った男が無期判決で、50年前に貧困のどん底から老婆を殺害、わずかな金を奪った女性被告に死刑判決が下る。刑法が守ろうとする正義は実は不公平なのではないか。人が人を正義の名のもとに裁こうとするとき、その正義には普遍的な基準など存在しないのだ………本書より。
不透明な判決であればなおさら加害者の命のあまりの重さに刑執行官の手はすくむのである。独居房で刑執行の宣告を受ける、死刑室で首に縄をかけられる、死刑囚がこの瞬間を迎える阿鼻叫喚の地獄図、鬼気迫る描写だ。

偶然か。本書といい「量刑」といい神のみぞ知る真実を人が知りうるのか、まぁ社会秩序維持として司法の根底は過去現在未来ともそんなものだろう、何をいまさらとつぶやきつつも、凶悪犯罪は後をたたず、遅々として進まぬ裁判にイライラをつのらせ、冤罪はあるは、裁判官の破廉恥行為が続くとなれば、やはり今日的問題には間違いないし、これを真正面から取り上げ、結局は救いがたい現実にスポットライトをあて、われわれ俗人をギョッとさせてくれる力作である。

さらに本書は謎解きものとしても十分楽しめる。なんとなく真犯人が途中でわかったというオマケがあったのもよい。乱歩賞久々のヒットだ。