桐野夏生 『メタボラ』

ドキュメンタリー番組で「ネットカフェ難民」という人たちを知り、正直驚いた。住む家がなく24時間営業のインターネットカフェに寝泊りし、日雇い派遣労働などで食いつないでいる若者が急増しているのだそうだ。

2007/07/04

そしてこの『メタボラ』である。「ネットカフェ難民」ではないが同様に漂流するものであり、それは衝撃的だった。ホームレス、ニート、フリーター、ワーキング・プアそれぞれに定義はあるようだが、桐野夏生が過度にデフォルメした人物像などではない。どうやら実体を持って社会の一定層を形成しているとリアルに感じられるからである。衝撃的だったのは私が世間知らずなのだろうか、特に生活に困らない常識人の傲慢なのだろうか。格差社会、下流社会などと評論家気取りで是非論、起源論をやるよりもこれを読んでまずゾッとすることが大切かもしれない。
斉藤佑樹投手が早稲田大学に入学が決まったときに記者の質問に応えて大学では「自分探し」をしたいとカッコよく語ったシーンが記憶にある。それは感心したからではなくあの晴れやかな笑顔からはかなり異質な感じを受けたからなのだが。またNHKの最近の討論番組であったと思う。会社に就職しようとする若者が「自分を高めるために就職する」と発言していた。私の就職観とまるで次元の違うその発言に一瞬耳を疑った。「自分探し」って流行なのかもしれない。
記憶喪失の若者・ギンジが「自分探し」の旅に出る。そして見ず知らずの土地で知り合った若者・ジェイクたちと交わり、その経験を上書きしながらまったく新しい自分を作り上げていく。だが記憶が少しずつ戻って「破壊されつくした僕は<自分殺しの>旅に出」たことに気がつく。実の子を餓死させる親がいる現実の悲惨は残念ながらよくおこる事件になってしまったが、昔ならタコ部屋と呼んだに違いない過酷な労働、こんなことが本当にあるのだろうかとこれにはぞっとする。労働意欲があるにもかかわらず扉を閉ざす社会の仕組みに若者が壊されていく。
これは昔なら金持ちのドラ息子と呼ばれたであろう若者がギンジと対極にあるジェイクだ。女にもてながら遊びほうけていたいという未成年者。ただし親から縁切りされたためにまるで金がないのはギンジと同様で食うためには、なれない労働もやむをえないのだが身につかない。沖縄。明るい太陽と青い海を背景に彼の宮古弁はチャラチャラと威勢がいい。自分をかえりみるなんてことは知らない。こういう若者がなんとなく生きていけることで逆に社会の仕組みが壊れていくのかもしれない。
彼らの周囲にいる若者は嘘をつかない悪くない他人を陥れようとはしない。ただし、それは目的を持たないからだという。搾取されたってなにも考えずに飯を食えればいいと文句をいわない人たちだ。ギンジとジェイクは両極だが中間に置かれるこの多数の若者たちこそ、むしろオジサンである私にしてみれば得体の知れない群れであって避けて通りたい存在である。
ドメスティックバイオレンス、ネット集団自殺、ホストクラブ、デリヘル、同性愛などなどとセンセーショナルな世相が盛りだくさん。そして沖縄であるから基地問題、内地人(ナイチャーと呼ぶ)と沖縄人(ウチナーと呼ぶのだそうだ)間の感情の揺らぎ、地方と中央の対立、知事選挙と政治向きエピソードにも事欠かない。
そして著者はこれだけの社会性ある重大テーマをてんこ盛りでみせて、後は知らんよとおっぽり出した印象で終わる。
宮古島の方言には意味不明なものが多くあった。そしてドミトリーとかバックパッカーさえ知らなかった私はここで使われているカタカナ語にはついていけなかった。きっとこの作品にどうのこうのと、ものを言うには私はあまりにも遠いところにいるんだ。と高みの見物を決め込む無責任なオジサンには論評する資格はないんだと確信した。だいたい表題の「メタボラ」とはなんだったのか最後までわからなかった。ただなじみのあるメタボリック症候群とは無関係のようである。

佐々木譲 『制服捜査』

『うたう警官』で著者の新ジャンルでの復活を感じたものだからこの『制服捜査』を手にとった。「これが本物の警察小説だ!」と帯封にあったが、本物かどうかは別にして警察小説といわれるジャンルをこれまでにない切り口で見せた。その斬新さはさすが。佐々木譲の手腕、健在である。

2007/07/16
『うたう警官』と同じ北海道警察組織の体質的問題を背景にしている。北海道だけではなく不祥事の反省から全国的にもそうなのだろうがリスク管理の充実・コンプライアンスの徹底を目的として同じ職務、同じ職場に勤務できる期間を制限し人事異動を頻繁に行う。金融機関では大蔵省の指導でかなり前から導入されているからよくわかるが悪いところもある。顧客預金の流用、横領などを防止する機能はあるが個人的な技能の蓄積効果、ベテランの効率が職場から失われる。営業面では得意先との癒着はなくなるが顧客密着、地元密着の血の通いがなくなり、うすっぺらいつき合いにおちいる。警察人生25年のベテラン、強行犯捜査員から一転して小さな町の駐在所勤務となった川久保巡査部長はこうした組織再生策では解決できないところの不条理に苛立ちをかくせない。

警察小説では犯罪捜査や犯人逮捕の主役は「刑事」と呼ばれる警察官である。一般には私服で勤務する。ただし、刑事とは通称であり法律上の職名ではない。川久保は制服を着用して駐在所で勤務する警察官である。階級は巡査部長といってもなんとか部という組織の長ではなく、階級称号で、警察組織9階級の下から2番目にすぎない。駐在所とは警察の末端機構であってそこの警察官は主に担当区域内の犯罪予防や事務処理などに従事するのであって直接刑事事件の捜査の任にあたることはない。タイトル「制服捜査」には権限を越えて悪を暴くハミダシ警官の意味がある。駐在所は民衆のなかに配置された警察の哨所であり、地域支配の要であるが同時に警察の広宣コピーにあるように「皆さんに親しみやすく頼りになるよう、機能強化に取り組んでいます」と駐在巡査の人柄に依拠する住民との交流や民心の機微をおろそかにできない二面の役割がある。こんなことが本書に書いてあるわけではないのだがこういう視点で現実を整理すると、この作品、警察組織の内外にある不条理の根っこが浮き彫りになって、実に渋いしかし迫力のある真実の物語だと痛感するのだ。

「捜査の第一線に加われない駐在警官の刑事魂が、よそ者を嫌う町の犯罪を暴いていく」
志茂別町。十勝平野の端に位置する架空の町である。いくつかの事件が起こる連作短編集。発端は交通事故(逸脱)、飼い犬射殺(遺恨)、恐喝(割れガラス)、不審火(感知器)、失踪(仮装祭)といずれも些細な出来事から始まる。結果的に事件が起こっているのだが、特にびっくりするような猟奇性があるとかトリックがあるとかの犯罪ではない。こういってはなんだが今の日本の現状からすればありきたりの犯罪である。著者はその事件が周囲に連鎖する波紋を丹念に描く。そして法や制度によっては明らかにされない事情、裁くことができない事情、本当の被害者が癒されない事情を冷静にあぶりだす。川久保お巡りさんは冷静というよりは冷酷に暴き出す。

なにがそうさせるのか。警察の隠蔽体質か?田舎町特有の保守的な共同体体質か?それとも日本人の体質か?しかし法を徹底させる仕組みを完璧にすれば問題は解決するのだろうか。と著者は一歩踏み込んでいるような気がしてならない。そこに欠落しているのは別次元のものなのだと思う。川久保が最後に処断する行為によって読者は爽快感で満たされることになる。『ベルリン飛行指令』など著者の初期の作品から一貫しているのはヒューマニズムの精神、崇高な倫理観である。これら今失われたものに支えられた勇者への賛歌である。

諸田玲子 『かってまま』

旗本の娘・奈美江の侍女・伊夜は奈美江の使い古しを貰い受けて育った。奈美江の産んだ不義の子・おさいは伊夜の子とされ、ついでに夫も押し付けられた。それでもつつましい平穏な生活を送っていたが、ある日、奈美江が転がり込んできた。奈美江と夫がよりを戻そうとしていると感じた伊夜に殺意がめばえる………。

2007/07/25

と第一話「かげっぽち」(日陰っ子という意味だろうか)を読めば宮部みゆきの、のどかでおだやかな日常にちょっとした波乱がおこるがやがて元の平安な生活がまわりだす、市井の人々を描いた時代小説の世界に似ている。様々な形で親子・夫婦・男女の情愛を描いた人情話の短編連作ものである。

だが宮部の『日暮らし』にあるような陽性の日常を基本にしている庶民たちではない。普通の親子・夫婦・男女の関係にはなく端から欠陥がある人たちばかりである。第二話からは時代性を背景に過酷な人生を宿命づけられた下層に生きるものたちが呻吟する。その地獄のなかでこそはじめて見えてくるがかけがえのない人間のふれあいであると著者は指摘している。

亭主に売られ川崎宿の旅籠で色を売る飯盛り女・かや(第二話 だりむくれ)、つぶれかけの質屋でひたすら働きづめの女主・おすみ(第三話 しわんぼう)、嫁ぎ先の武具屋は倒産、亭主が死にひとり息子は佐渡送りになって、今はあばずれの女掏り・おせき(第四話 とうへんぼく)、大工職人の女房、寝て食って家事をしない太平楽なおらく(第五話 かってまま)、凶賊喜衛門の娘で血なまぐさい体臭のただよわせるみょう(第六話 みょうちき)売れない狂言作者、若き日の鶴屋南北(第七話けれん)。
7歳のおさいから50歳半ばのおさいまで、おさいはこれらの人物に出会う。そして生きていけなくなった、あるいは生き腐れのままに日を送っているこれらの人々のために救いの道を拓いてやり去っていく。人々にとっては現状からの飛翔、本来の自分を取り戻す「再生」の物語である。 読者にとってそれぞれのラストはほろりとするが、むしろおさいの謎めいた振る舞いに爽快感を味わうことになる。

「いったい彼女の父親は誰なのか?時には優しく、時にはしたたかに生きるおさいの運命やいかに?」
とこのしっかりした縦軸が連作の後半にあきらかになる。第七話 けれん、これでおさい自身の再生の物語が完結するが文字通りけれんみのある上出来の芝居噺に仕上がっているのはやはり著者の実力の冴えであろう。

蛇足ながらたまたま最近出版されたベストセラーの二作品にイメージの重なるところがあった。とらえどころのない現代をどのように切って断面をみせるかと、一流の作家の鋭敏な感覚には共通した視点があるものだと妙なところで感心した。身分差別、性差別社会である江戸時代にあって(江戸時代だけとはいえまい。今は「格差社会」、「下層社会」だから)決然と自己を貫徹する女性像を積極的に評価した点では松井今朝子『吉原手引草』だ。ただし、『吉原手引草』は人間の厳しさに軸をおいているのだが、本著は人間のやさしさに対する賛歌である。もうひとつは、新しい自分を発見しようと流浪する若者を描いた桐野夏生『メタボラ』。「メタボラ」には「新陳代謝」の意味があるらしいが、おさいを含め登場人物の「再生」にフォーカスしている点には共通したものを感じる。ただし『メタボラ』は再破滅に近い結論のようだったが………。