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三田誠広 『わたしの十牛図』
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色………の空ってなぁに。それはわからなくてよいのです。
2004/03/14 |
わたしにとって人生とはなんであったか?あるいはこれからの人生をいかに意義あるものとして生きるか?本来の自分とはなんであるか?などと思索にふけることは物心ついてから青雲の志とか人生の明確な目標といった言葉とはまったく無縁でただなんとなく生きてきたのが実感だから今さらの感があってやはり青臭いことだと思うし、気恥ずかしさが先にたつ。
とはいえ、そういうことに全くの無関心でいいのかと問われて「それでいいのだ」と居直るほどの度量はなく、若い人たちと議論するようなことがあればおそらくなにごとかをしかつめらしく、しかも熱っぽく楽しく語るに違いない。
人生論であり仏教哲学の講義であるから『僕って何』で芥川賞を受賞した自分より若い作家のご高説など聞く耳はもたないはずであるが、過去なんどかこの「十牛図」との付き合いがあって手にとることなった。もう十数年前のこと、会社の若手社員の幹部養成用研修に知り合いの大手百貨店役員でたいへんな苦労人を講師に頼んだことがあったがその方にこの絵の存在を教えてもらった。その後京極夏彦のミステリー『鉄鼠の檻』にこの十枚の絵が紹介されてあった。これをコピーして新入社員に対して先輩面の講義をしたこともあった。
そして昨日還暦を迎えたわたしとしてはこの作品を素直に読むことができた。
「《わたし》の正体とは何か?今、真の自己に出合う旅が始まる。禅画『十牛図』に見る悟りの境地」と帯にある。「十牛図」とは人が「悟り」にいたる十段階のステップ(尋牛、見跡、見牛、得牛、牧牛、騎牛帰家、忘牛存人、人牛倶忘、返本還源、入廛垂水)を時系列的に絵に表したもので、判じ物として一枚一枚を分析的に眺めること自体が実に面白い。もっともこれを分析的に解釈することこそ大いなる過ちでまさに俗人の姿勢であるのだが所詮煩悩から逃れられぬ身としてはやむをえない。
「牛」を求める「若者」が山奥に踏み込み「牛」を見つけ格闘の末「牛」を我がものとする。そして「若者」が消え次に「牛」が消える。8枚目の絵は人牛倶忘(じんぎゅうくぼう)の図と呼ばれ、何も描かれていない空白画なのだが、この意味がわかれば涅槃の境地、仏になれるというものである。
「牛」とはなにか。人生の目標でもいい、この世の真理でもいい、求めてやまないものだろう。著者は「牛」を「本当の自分」とし、これを再発見しようと呼びかけているのです。
アイデンティティークライシスというのだそうですが自分がある今の閉塞状況にもだえている人はたくさんおられるでしょう。わたしのように「本当の自分とはなぁに?」と問われてそういう唐突な問いに戸惑う人はもっと多いことでしょう。だからこの作品で語る著者の非常に爽やかな人生論に素直に耳を傾けることができるのです。俗事にかまけているとときにはこんな哲学的雰囲気もいいものだと気軽な気持ちでつき合える作品だと思いました。
究極にある「空」という概念はわたしには到底理解できない深遠なものです。しかし、明治以降の西欧の科学的分析主義あるいは合理主義がグロテスクなまでに先鋭化した今日的情況があるからこれと対峙する曖昧模糊とした東洋的見かたにどこか惹かれるのです。
ただし、「空」の概念を今の人にわかってもらおうと著者は量子論、宇宙論、遺伝子論を持ち出していますがむしろ難しくなってしまったような気がしました。これはわからないままいるところが「人」である由縁なのでしょうね。
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皆川博子『死の泉』
ナチズムの狂気を幻想的に描いた地獄図
2002/10/20
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97年10月に発表された作品である。98年1月に買って読みかけたものの、ホラーか単純なミステリーであると誤解していたので、途中、ストーリーの展開に見えないところがあったために、読み続ける興味が薄れ、頓挫した。改めて手にとった次第だが、今回はそれなりに歳を重ねたのであろうか読み応えを感じた。
「第二次大戦下のドイツ。私生児をみごもり、ナチの施設(レーベンスボルン)の産院に身をおくマルガレーテは、不老不死を研究し、芸術を偏愛する医師クラウスの求愛を承諾した。が、激化する戦火の中、次第に狂気をおびてくるクラウスの言動に怯えながら、やがてこの世の地獄を見ることに………。双頭の去勢歌手、古城に眠る名画、人体実験など、さまざまな題材と騙りとを孕んだ、絢爛たる物語文学の極み!」とある。
レーベンスボルンとは生命の泉であり、ナチが純正アーリアン種を大量生産するための私生児養育所を指す。医師クラウスはそこの最高責任者で絵画と男性ソプラノに異常な執着心を持つ。そしてグロテスクな医療研究に没頭する。虐げられた歴史を持つ流浪の民族ツィゴイネルの血が流れるマルガレーテ。そして彼女が養育する孤児たちのもつ天才的な歌唱力に魅せられたクラウスはこれを永遠のものにせんとする。さらに彼女を慕うドイツ貴族が加わり物語は空白の時をこえて戦後へと、その狂気と悲劇は血塗りの極彩色絵巻物のように展開していく。
読み終えて練りに練った構成であることに驚く。幼児期の意識下にある幻影、それは抑圧された民族の呪詛であるのだが、わらべうたであったり、伝説であったり、白日夢かもしれないイメージが繰り返し、ヒロインの心象風景として物語の節目節目に織り込まれ、流れる。その技巧的語り口をたっぷりと楽しむ。さらに朽ち果てた古城、その地底には迷路と川で繋がった広大な岩塩建造物が眠り、黒い地底湖には舟がつながれている。腹部を縫合された双子のミイラ、眼球と内臓をすべて瓶詰めにされた母の死体を見る子、ナチの収集した名画の貯蔵庫。現実と悪夢が混沌とシュールに描かれてまさにゴシック・ロマンスの世界だ。
ミステリーとされるだけに最後にどんでん返しのオマケまで付いている。このオマケはあまり意味はないし驚くような仕掛けでもないだけにむしろ著者のこの作品の特に構成に対する力の入れ方を実感する。
ただし、正直言って、この構成の巧さ・緻密さに感心させられただけで、そこを除外すると、ナチスの残虐行為に対する怒りでもなく、非抑圧民族に対する何らかの主張でもないのだから、やはりゲテモノをみせつけられた生理的なおぞましさが残る。
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宮部みゆき 『誰か』
著者二年ぶりの待望の現代ミステリーというけれど
2003/11/29 |
宮部みゆきは多方面のジャンルで優れた作品がありますが私は現代の経済社会に直結した風俗をとらえ、社会との関わりの中で犯罪に巻き込まれていく一般庶民を丁寧に描く作品が彼女の真骨頂だと思います。
『火車』がそうでした。日本経済の爛熟期終末において「家計」がこうむった影響の重要な一面を経済の構造から説明してその悲劇と女性の自立がなす犯罪を活写した傑作との印象をもったものです。。
『理由』もそうでした。高層マンションを舞台にした、一家4人殺人事件。戦後の貧しさを引きずっている人・新しい感覚の若者の登場。複雑にしかしリアル感を持った絡み合いに中から殺されたもの殺したものの理由が浮かび上がってきます
『模倣犯』もマスコミに操られる大衆心理の怖さを描いていました。
私たちは常に社会との接点を深く広く持っているものです。その重みの中で生きていくことの難しさに私たちは直面します。その時何が正義であり何が不正義なのかその分別さえ混迷しそれでも生きていくものです。
しかし、今回の作品はこの人間の背負う十字架というべき「社会性」がまるで欠落した仕上がりになっています。
主人公の男性はコンツェルンのオーナーの娘と結婚し、家族共々淡い水彩画ような透明な暮らしに満足しています。オーナーの仕事ぶり、日常生活はわかりませんがともかくお金持ちの好々爺です。オーナーの雇った実直な運転手が自転車にぶつけられ死亡する事件が発生します。運転手には二人の年頃の娘がいて、妹から父の思い出を本にしたいと依頼された主人公は事件の真相究明に乗り出すことになります。もしかしたら殺人かもしれない。父の過去になにか暗いものがありそうだと姉はこの出版には乗り気がありません………。
著者はあえて「社会性」を捨象したのでしょうが、そのため、実感できるストーリー展開もなければ、魅力的な「人間性」も登場しない結果となりました。
後半になってこの年頃の姉妹がフォーカスされますが、我が家にも同じ年頃の二人のじゃじゃ馬娘がいるものですから、比べてしまいます。こういう自己喪失の女性が今でも存在するのだろうか、居たとしても読者として共感するところはないし………。『火車』に登場した主人公と比較すれば、同じ作者の描いた女性像とはまるで思えません。古くさいタイプに退行しているのです。篠田節子の描くしたたかな女性たち(『女たちのジハード』、『コンタクトゾーン』)、桐野夏生『グロテスク』の常軌を逸した性格の姉妹にむしろリアリティーを感じます。
ところでミステリーには社会性や人間性を描くことに重点をおかず、ただ鮮やかに読者の予想を裏切ること、その一本勝負の名作がたくさんあります。そういう分野でも著者には傑作がありました。『R・P・G』では本格のどんでん返しを楽しむことができたのです。
この作品はどっちつかずであって「二年ぶりの現代ミステリー」としては期待を裏切られました。
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