ジェイムズ・カルロス・ブレイク 『荒ぶる血』

原題は「Under The Skin」。血筋、血縁、血脈、血統、皮膚の色、人種、そして血みどろの暴力。久々に無頼のヤカラたちの暴力を描いてしかも深みと広がりを持ったビカレスクロマンの傑作にお目にかかった。

2006/12/24

これはあの当時一世を風靡した「マカロニウェスタン」ではないかとそんな思いをさせる臭いがどこかにあって懐かしい。西部劇といえば雄大な自然を背景に開拓者精神を叙情たっぷりに描いた名作の数々に慣れ親しんでいた若者にとってマカロニウェスタンの登場は衝撃的だった。道理だけでは通用しないのがこの浮世なのだと多少わかってきた年頃には直線的破壊は魅力的だった。そこにある自然は荒涼とした砂漠であり、砂埃の舞う辺境の地。硝煙と泥にまみれたポンチョのガンマンたちによって善悪を超越した凄まじいガンファイトと残忍な暴力が連続する。そして血の因縁にまつわる復讐であり舞台はメキシコのようであった。

この物語はリオグランデ河をはさむメキシコとの国境、テキサス州エルパソの娼婦館にメキシコ革命の首謀者の一人パンチョ・ビジャが立ち寄るところから始まる。酷薄で知られるビジャの片腕・フィエロ、昨日200人を殺害したこの「肉食獣」の相手をつとめた娼婦がその結果妊娠する。

20年後、メキシコ湾を臨む町・ガルヴェストン。イタリア系移民二世のマセオ兄弟は「善良な市民のほとんどは口にこそしないがこの町で実際に法を執行しているのは警察ではなく」彼らであることを知っている、そういう地方のギャング。そのガンさばきと体術と命知らずを買われ用心棒をしているのが主人公の「おれ」・メキシコ人との混血ジミーだ。そして同じ用心棒仲間のメキシコ人・ブランドとアメリカ人のLQ。日本的に言えば仁義、任侠道の親分・子分、清水の次郎長一家といったところがあり、「男」を見せた東映任侠ヤクザ路線を髣髴させるところもあるのだが、敵に対する防衛と攻撃の凄惨なことといったらまったく異質だ。

暴力の美学。一言でいえば死に直面することで自己を確信できる男たちのエピソードにグイグイと引きつけられる。それは登場人物たちの生い立ちを素描する中で共通する暴力の背景を滲ませているからだ。メキシコ人との混血を産むことは恥ずかしいことだと考えられている国境の土地柄だ。相手をイタ公、アイルランド野郎、ろくでなしの雑種、ニガーと蔑称し、しかも中国人やメキシコ人の小さなブロックが町の中に共存している。そこは生存を保証してくれるのは暴力のみという真理が貫徹するマイノリティーの坩堝である。そして逆に仲間同士では強い絆がある。

一方リオグランデの対岸、メキシコでも流血の時代だった。20世紀前半にあったメキシコ革命。一般的には欧米先進諸国の支配するディアス独裁体制の打倒と社会改革の実現および外国資本の排除を目ざした民族主義的社会革命と解されるが、メキシコ生まれの著者の歴史観はかなり異なるようだ。革命軍を相手に暴力で栄誉を受け、暴力で財を成したメキシコ軍人。しかし彼の家族は革命のならず者たちに全員惨殺された。彼自身、片目をえぐられる。いまいましい革命めと呪詛する男にとって革命は野蛮な先住民や未開の血の混じる輩、血にくそが混じったゲスどもの破壊暴動でしかなかった。したたかに生き残り、いまアメリカとの国境付近に大農場を経営している。老いてなおこの一帯に君臨する暴君、ドン・セサールが町で見かけた少女を略奪し結婚する。が、この惚れた女が脱走する。怒り狂うセサールは殺し屋二人に女を追わせる。その女は国境を越えガルヴェストンのメキシコ人居住ブロックに逃げ込んだ。そして、「おれ」とセサール、本人たちの知らない因縁の対決がこの作品の縦軸になる。

「仕事じゃないといっただろう。おまえらには関係がない」と単身敵地に殴り込みをかけようとする「おれ」。「おれたちはパートナーだろう」と寄り添うブランドとLQ。
これぞ、あの頃の若者の血を沸かせた高倉健、鶴田浩二、藤純子!待ってました!!!

ラスト、メキシコ、ラス・カデナス牧場での銃撃戦、三対十二の決闘の結末がこれまたすっきりとして、粋な味付けを楽しむことができた。

この快感!時代はますます道理が通じなくなっているからかもしれない。


カルロス・ルイス・サフォン 『風の影』

バルセロナ。ローマ時代より幾多の栄枯盛衰を繰り返したスペイン随一の工業・商業都市。19世紀末の経済、文化の隆盛、精神の昂揚、それはスペイン内戦(1936〜1939年)にあってつかの間の光芒に過ぎなかったのか。1945年、バルセロナは内戦の深い傷跡がそのままに人々は暗い影の中に息を潜めている。

2007/01/18


10歳のダニエルは古書店を営む父から「忘れられた本の墓場」、それは広大な闇の教会堂のような図書館なのだが、そこでフリアン・カラックスの著作「風の影」を発見し深く心を動かされる。カラックスは謎の人物でしかも彼の著作はこの世にこれ1冊しか存在しないのだという。ダニエルは取り付かれたようにカラックスの足跡を追い、内戦の暗黒を生きた何人もの人物と遭遇し、カラックスの悲劇に肉薄しつつ、恋をし、失意に暮れ、そしてまた新たな恋に身を焦がす。少年はやがてカラックスと相似形の自分を発見する。これは知的で感受性豊かな少年のドラマチックな成長の記録である。繊細、流麗な文体で完成されたミステリーロマンの傑作である。

また読者はスペイン内戦と戦後の恐怖政治によるバルセロナの衰亡と市民が受けた残酷な傷跡を知ることになる。著者はスペイン内乱を直接には説明をしないのだけれど、わたしは遠く離れた国のまだ新しい歴史の断面はまったく知らなかっただけにその複雑骨折的精神構造の歪みはとても刺激的だった。富めるものと貧しいもの。王侯貴族ら伝統的地主階級と新興ブルジョワジー。資本家と労働者。王政と共和制。中央集権と地方主義。キリスト教と反キリスト教。軍部勢力とマルクス主義、ユダヤ人、フリーメーソン、アナキスト。自由恋愛と教会の伝統的規律。これらが当時同時にぶつかりあった。対立がもたらす陰謀と密告と暴力、そして報復の暴力。拷問とテロや闇の処刑の連鎖が人々を恐怖のどん底に陥れた。特にバルセロナは反中央的な民族意識の昂揚が市民、文化人、芸術家たちにあったため、内戦後の国家体制(フランコ体制)の権力に依拠した独裁によりその独自の精神文化は闇に閉ざされたのだろう。著者はダニエルの遭遇する多様な人物の語りからこのように当時のスペイン人の心を縦横斜めに切り裂いた複雑な対立構図、まさにその悲劇なのだが、これを濃密に描いている。

フランコの率いる国民戦線のバルセロナ制圧は
「とても筆につくすことはできません。戦争中に流されたのとおなじか、それ以上の血があの日々に流されたのです。でもそれは人目につかない場所での、秘密裏の出来事でした。」
わたしはひさびさに心の深いところから揺り動かされるような強い感動をおぼえた。それはこの悲惨な物語の終盤にあった。

闇に閉ざされたバルセロナの、そこで生きる市民の再生と復活、再び輝き始めようとする強靭な精神を予感させる美しく忘れがたいエンディングが用意されている。
何人もの登場人物像がすばらしいのだが、なかでも少年ダニエルにとって人生の教師ともいえるフェルミンは著者自身の身代わりのようだ。彼は共和国政府側の元諜報員として心身ともに手ひどい傷をおった男、しかし、皮肉屋でユーモアがあって、楽天的でエッチでアナーキーな自由主義者なのだが、彼はつぶやく
「世界がこんなみじめなところでも見物するだけの価値があるのは………善良な心を持った人たちが いるからだよ」。
そうです、嫉妬、憎悪、不信、裏切り、暴力のなかで、人々の善意、友情、愛の絆のたくましさを高らかに歌い上げているのだ。

さらに読書好きの人にとっては、本を読む喜びついていくつかの至言というべき語りあってこれが見逃せないだろう。
「本は鏡とおなじだよ。自分の心のなかにあるものは、本を読まなきゃ見えない」
なんていわれると背筋がぞくぞくするのはわたしだけではないだろう。

著者は本というものをおそらく人類の叡智の蓄積としてとらえているのだ。時の流れとともに忘れられた本が永遠に生きている「忘れられた本の墓場」がそれを象徴している。フェルミンの言う「善良な心を持った人たち」はみな、読書愛好家のようだった。

レイモンド・チャンドラー  村上春樹訳 『ロング・グッドバイ』

『The Long Goodbye』。チャンドラーの傑作中の傑作、いや古今のミステリー史上十指に入ると言われる名作である。わたしが『長いお別れ』として清水俊二訳を初めて読んだのが二年前だった。そして世評どおりの印象を受けた。これを村上春樹が翻訳したということで目下話題をさらっている。

2007/05/14

酒と男漁り、享楽の日々を送る億万長者の女を妻にしたアル中のテリー・レノックス。暴力と欲望が渦巻くロス・アンゼルスに誇り高く生きるタフガイ私立探偵・フィリップ・マーロー。いくつかの男と女の別れとそれに関わる殺人事件があって、なかでセンチメンタルに男同士の交誼が一貫する。ミステリーとしてのプロットが完成されている。

それとは別に文体がとてつもなく魅力的だった。登場人物たちのセリフにある。一人称語りなのでト書き以外の文体もマーローのモノローグとすれば全編に思わず相槌を打ちたくなるような気のきいた会話がちりばめられていた。当時の社会を痛烈な皮肉で揶揄し批判し、人間の心理をえぐるに巧みな比喩が使われる。それらは説得力を持って読むものに迫り普遍性があるから共感するところが多い。とにかくこのカッコイイ、オリジナルの名言。誇張あり逆説ありディテールが加わった雄弁である。マーローは寡黙だといわれるが、そんなことはない。この語りに痺れる快感を恥ずかしげなく味わえるのがこの作品の真骨頂なのだろう。清水訳でもそれは充分に楽しむことができたものだ。

探偵小説をなぜ読むかとの問いにしゃれた会話の教科書として読むという答えがあるそうだ。そうであるならばまさにこの作品はうってつけの値打ちものだ。なにしろ台詞の天才・チャンドラーを文学界の巨匠ハルキがあえて細部にこだわった翻訳となればプロットは清水訳の『長いお別れ』にまかせて『ロング・グッドバイ』ではじっくりとしゃれた会話を楽しもうかと、実用にならないことはわかっていてもそして『長いお別れ』を読んだことのある読者でもこの一冊、読んでみるのも酔狂でしょう。

実際のところ清水訳とハルキ訳の違いなどまったく気にかけずに気楽に読んだのだが、やはりチャンドラーのこれは傑作だと再確認した。村上春樹もこの翻訳には相当力が入ったらしく、巻末の訳者あとがきでその意気込みが述べられている。ここには『ロング・グッドバイ』をはじめとするチャンドラー作品の見どころ、読みどころを詳細に述べた読書入門があってまた貴重なチャンドラー論でもある。もっともここまで雄弁に語られるとわたしごときが何もいえなくなってしまうのだが。

たまたま安倍首相・ブッシュ大統領の首脳会談が行われていた。それでフッと感じたのは、一般にアメリカ人の自己主張の「上手さ」である。いや強引さである。西部劇の精神か、銃社会ならではの表現方法か、征服で始まった多民族国家だからか、階級社会の必然か、とにかくこうでなければ生きていけない国家の体質なのだろう。ディベートでは日本人はかなわない。日本人が持っていないその意味では真似てみたくなる魅惑的体質である。
異文化との接触には驚きがつきものだが、日本人が戦後まもなく受け入れた『長いお別れ』への感動にはこういう驚きに似たものが含まれていたのではなかろうか。

ただしあの会話・話法は感覚的に魅了されるのはいいが日本人の体質にはあわない。
わたしはカクテルバーでアルバイトバーテンにギムレットを注文して「ほんとのギムレットはジンとローズのライムジュースを半分ずつ、ほかに何も入れないんだ」と清水訳、テリーのセリフをつぶやいたことがある。ごくごくあたりまえの薄い黄緑色で淡紅色ではなかった。バーテンには聞こえなかったのだろうと黙って飲んだ。黙って飲んだので恥をかかずに済んだ。村上春樹訳によればこうだった。「ローズ社のライムジュース」だそうで、なんと製造元を指すものだったのだ。ワインとは違う。ローズ色のライムジュースなどあるわけがない。