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平野啓一郎 『決壊 上』
私はこれまでこれほどショッキングな犯罪小説を読んだことがない。なぶり殺しにして死体を切り刻む犯行、あるいは無差別の大量殺戮が生々しく詳細に書かれているからだけではない。その内心が残忍であり、あまりにも醜悪な犯人像は「私たちの世界」からまるで「離脱」している。それを生み出す現代社会。重層的にしつらえたエピソードはすべて悪意が善意を食らい尽くすプロセスであり、どれもが読んでいていたたまれないほどに無惨極まりないのである。ここまで病んでいる。世の中はひどく病んでいる。人ごととは思えないこの事態は身近に存在する現実なのだと実感する。もとよりこの作品が単なるエンタテインメント系のミステリーではないことを十分承知した上での実感を率直に述べているつもりだ。あえて言えば、ややこしい文学と思い込んで手をださないのはもったいないくらい、ミステリー特にクライムノベル好きな読者ならわくわくする内容なのだ。とにかくまずは面白い。
2008/08/27 |
1997年、神戸児童連続殺傷事件とよばれるショッキングな事件があった。通り魔的犯行、遺体の損壊、「声明文」、「普通の中学生」。この作品はこの事件をひとつのモチーフにしているのだがそれは過去の事実に基づいたものだ。そののち、いま、わが国のいたるところで理由不明の奇怪な殺人事件が頻発している。バラバラ殺人、親が子を子が親を惨殺、そして無差別大量の殺戮。「だれでもいいから殺したかった。」とまるで流行語のように語る犯罪者たち。平野啓一郎はこの作品を「新潮」に2006年11月号より2008年4月号まで連載していたのだから、今年3月の土浦市、6月の秋葉原で起きた無差別通り魔事件は知りえなかったはずだ。この作品を読んでぞっとするのはこれらの事件をずばり予言した小説であったことだ。
劇場型犯罪というセンセーショナルな表現は宮部みゆき『模倣犯』で一般化したのだろうがそこでは犯罪がマスコミ報道とともに進行する。しかし秋葉原事件は新しいタイプの「劇場型犯罪」とされたようだ。急速に拡張するインターネット社会が作り上げる新たな犯罪者の群像である。
長文であるが秋葉原事件を解説した読売新聞の記事を引用する。
「84〜85年のグリコ・森永事件に代表される従来の劇場型犯罪は、犯行予告や警察への挑発行為が既存のマスコミにより報じられることで、初めて成り立っていた。しかし、今回の事件は、ネットを利用すれば誰の助けも借りずに自作自演できる可能性を示した。こうした風潮が加速すればどうなるか。西垣通・東大教授(メディア論)は、加藤容疑者の行動について『不特定多数の人々に犯行計画を公開することで、犯行を断念しかねない不安定な自分を支えていたようにみえる』と分析。ネットへの書き込みが、大それた思いつきを実行に導く牽引(けんいん)力になりかねない危険性を指摘する。8日午後の秋葉原では、現場の惨状を携帯電話のカメラに収める若者たちの姿もあった。画像の中には、ネットを通じ、不特定多数に送られたものもある。加藤容疑者がネットの聖地・アキバを現場に選んだことで、誰もが劇場型犯罪の演出者になりうる現実が浮かび上がった。」
劇場型犯罪はこれまでのそれよりはるかに容易さが加わり新たなステップに入った。つまりマスコミ報道に頼らずとも自分を表現する手段としてネットが充分機能するというわけだ。著者は秋葉原の現場を見てきたかのように目撃者が携帯電話カメラで現場を撮影し、それをネットで流し、ネット世界からマスコミを通じて大衆を惑乱させる社会現象をこの作品で描いている。私は著者の作品を読むのは始めてであるが、秋葉原事件の今日性を事前に把握していた著者は現代社会とそこに生きる人間について恐ろしいくらいの洞察力をもった小説家である。
さらに著者はこの劇場型犯罪の次のステップへの発展?も予見する。それはひとつは同様の犯罪が触発されて連鎖的に発生する可能性であり、さらには犯罪者がネットを通して人々に同様の犯行を実行せよと呼びかける扇動的、テロル的行動である。「われわれは社会的に排除されている!積極的に既存の社会秩序から『離脱せよ』!『離脱者』らしい殺人をせよ!」その呼びかけにこたえようとする輩がいないとは言い切れないのが現代の闇で深さではないか。受け止め方によってはこの作品、かなり危険な書といえないことはない。それだけの迫真力がこめられているからだ。
「観光客で賑わう古都京都の中心地で、額に<悪魔>とメッセージを打ち付けられた生首が、切断された両手両足とともに発見されるという衝撃的なニュースから一週間。その後、右腕が鶴見川、左腕が福山、左足が………。さらに西麻布とさいたまで発見された足と手とは未だ身元不明のままである。残虐非道な犯行で日本中を震撼させている謎の『離脱者』集団。捜査線上に浮かび上がってきた意外な人物とは」
「とまらない殺人の連鎖。ついに容疑者は逮捕されるが、取調べの最中、事件は予想外の展開を迎える。明かされる真相。東京を襲ったテロの嵐」
このように装丁帯にあるのだからまずは上等のクライムノベルとして楽しもう。
ただ「『決して赦されない罪』を通じて現代人の孤独な生を見つめる感動の大作」で著者が芥川賞作家・平野啓一郎であるから、結局、私は二度読むことになった。
二度読めば、むしろドストエフスキーの作品に一脈、相通じるところがある重厚な哲学ドラマに圧倒される思いだった。価値観が混乱した現代社会とそこで生きる人間の苦悩と葛藤、著者の鋭敏な感性と透徹した思索が結実した文芸大作である。
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平野啓一郎 『決壊 下』
「2002年10月、全国で次々と犯行声明つきのバラバラ遺体が発見された。被害者は平凡な家庭を営む会社員沢野良介」
良介は妻と喘息もちの男の子がいる。故郷には退職後の気鬱にある父とその生活に疲れ気味の母がいるが、この父母も歳相応にはしっくりしないところがあっても普通の家庭だ。良介の兄・崇は良介とは違って子供のときから優等生の誉れ高く、いまではエリート公務員。常に衆に抜きんでた兄といつまでも凡庸な弟は微妙な緊張関係にはありながらも兄弟の絆がはぐくまれている。
この作品はいくつもの物語が輻輳しているからあらすじを述べるのは難しいのだが太い線で捉えれば三つのストーリーが交差している。
第一に、良介のブログ「すぅのつぶやき」(広大なネット世界に通ずる小さな穴に過ぎないのだが)から漏れ出た彼の内心が「悪魔」の網にとらえられ、殺害され、報道するマスコミがあり、そして彼の家庭、父母の家庭が「決壊」していく破滅への物語である。
第二に、酒鬼薔薇聖斗的中学二年生・北崎友哉のブログ「孤独な殺人者の夢想」を目に留めた「悪魔」が少年の内心にある憎悪の感情を増幅させそれによって少年が殺人を犯すストーリーである。そして周辺に少年の仲間たち、教師たち、事件を取り上げるマスコミ、そして彼の父と母の破滅の物語が展開されている。
第三には「悪魔」ではないかと疑われる崇の物語である。疑惑については良介の妻、警察、これもまたマスコミ報道、彼の複数の女友達や知人、職場の人間関係から物語られ、読者も当然に疑う場所が用意されている。彼は「悪魔」なのか?………。
2008/09/01 |
そして数多くの散りばめられた挿話がストーリー全体に厚みを加える。それぞれの挿話は見事にわかりやすい。例えば警察の取調室の模様は恫喝役となだめ役がいて最後は泣きで落とすという誰でも知っているパターンで描かれている。報道バラエティ番組にはこれも典型だが、コメンテーターと称する過激な発言をするタレントが実は結論的には迎合的におさめるという、昼にテレビをみればだれでもが目にするあの型どおりが再現される。学校で事件が起これば事件の核心を突こうとする先生と大人の解決を求める先生が激論をはじめ教育の場が大混乱するという挿話だって、学園ものドラマには昔からよくあったシーンだ。このように挿話は、事件の周辺に現実に存在するいくつもの視線でもって構成されている。今の社会を代表する観察者たちが事件のある断面をみせるのだが、観察者は型どおりに演じる喜劇役者だから、読者にすれば、いかにも表層だけを眺めている滑稽なくらいに無責任な傍観者との印象がますます強まって、もともととらえどころの難しい事件の本質が彼らによってはるか手の届かない遠くに追いやられてしまうことを実感するのだ。
二度読みをすれば、ストーリーが浄化されて著者のいくつかのメッセージが浮上してきた。ただ私の思考にはなにぶんにも消化能力に不足があって、感覚的でしかないのだがインパクトあるこんなイメージが残された。
「どうして人を殺してはいけないのか」という問いかけに対し神が存在しない日本人はどのような答えを用意できるのだろうか。かつては儒教的倫理にその答えを求めた。倫理を喪失した現在、それでは法秩序でもってこの深淵を説明できるのだろうか。
神が存在しない世界でも悪魔は存在するという言説に説得性が感じられるのはなぜなのだろうか。それは人の性は悪であるからなのだろうか。そして悪を無理やり閉じ込める「秩序=文化」に無理があるのだろうか。
いつの時代でもそのときの社会秩序から取り残された人々は存在する。そのエネルギーが階層として集結し、既成秩序を破壊し、新秩序を打ち立てる行動に昇華した時代があった。エネルギーが集結することなく、新秩序などは無関心にある個人の反社会的行動は単なる犯罪なのだろう。いずれも彼らは社会秩序の中に存在したのだが、いまや、その枠組みから「積極的に離脱」する人々がいるらしい。恐ろしいことだ。離脱社会的犯罪という概念が生まれるのだろうか。
すでに社会的制裁を受けている父母が殺人を犯した少年の前で「どんなときでも私たちはおまえの味方だ。せめておまえの反省の気持ちを遺族に伝えたい」と悲痛の懇請。そして少年は「………」。ぞっとするようなセリフが用意されている。罪とは?罰とは?贖罪とは?殺人を犯した少年の罪を両親は負わねばならないのか。父母はだれにどのような償いをしたら赦してもらえるのだろうか。その場合だれの赦しが必要なのだろう。これは法秩序では説明できないだろう。
この作品はあまりにも「言葉」があふれている。読者は言葉の海に溺れそうになる。言葉は思考する手段でもある。「知」そのものでもある。そしてあらゆる言葉・情報に通ずる崇は「この世界」の「知」を象徴する存在として登場している。知的存在者の彼はあらゆる事象を根源に遡って言葉でもって分析する。周囲の人たちはその彼を崇敬する。しかしながら崇は「言葉」「知」によって事象の本源、世界の成り立ちが解明できないことも理解しているのだ。そこに彼の人間としての弱さがあって、そのために彼は崩壊していく。まるで読者が言葉の海に溺れるように。
一方また「悪魔」も「崇」と同様に知的存在者として登場する。「悪魔」もまた「崇」と同様に言葉を知り尽くしている。「悪魔」と「崇」は同根なのかもしれない。ただし「悪魔」は「この世界」ではなく「あちらの世界」の存在であろう。そして「悪魔」には「崇」と違い事象の根源、あちら側からこちらの世界の成り立ちを説明できる強さがあった。
悪意が善意を侵略していく暗黒のベクトルだけが見える物語であるが、ただ良介と彼の家族だけがちっぽけな灯をともしていることに気づくはずだ。悪の量感がすさまじいだけに良介と妻の結びつきは感動というにはあまりにもエネルギーが小さいのだがそこに救いが見えるようでホッとする。良介は兄と違って、言葉を知らない。分析的思考を持たない。凡人である。にもかかわらず兄よりもはるかに事象の本質、世界の成り立ち、真理に近づくことのできる人間だった。なぜそうなのか。私も言葉を知らないから説明ができないのだが、なにか、やさしさとか善意とかで結ばれた絆のようなものを大切にしたいとする、そんな感性がそうさせるのかもしれない。
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船戸与一 『満州国演義4 炎の回廊』
日本の夏は、平和を愚直に祈る季節である。その素朴な祈りの心を持って大陸に残した残酷な爪あとを省みるべき季節である。
この時期対中国外交、軍事活動は比較的落ち着いていた。毛沢東が長征と名づけた工農紅軍の西への迷走を蒋介石の国民革命軍は追い続けているため中国と関東軍の軍事衝突の気配はない。
ただ満州では抗日ゲリラに対する掃討作戦が始まった。
2008/08/05
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昭和9年3月、満州国は溥儀を皇帝とする帝政が実施される。この巻では満州における抗日ゲリラ活動とその掃討作戦が詳述される。満州での抗日は当初は日本人移民に土地を奪われた憤懣による武装抵抗活動であったものが、満州族、蒙古族、漢民族、朝鮮民族それぞれの抗日が組織化され、やがてそれらが連合し、ロシア・コミンテルンの理論と武器で強力な軍事力を備えるにいたった。五族協和・王道楽土をスローガンで生まれたはずの満州国ではあるが、日本帝国はその欺瞞をかなぐり捨ていまや政・軍・産業界が一体になって対ソ戦争を視野にした国家社会主義建設という大きな流れが作られようとしている。
奉天領事館の敷島太郎は自嘲する。純朴だった歩兵将校はいまや民間人には任務内容もわからない憲兵大尉だ(三郎)。無政府主義に傾倒していた末弟(四郎)は国策の走狗となって満州武装移民とともに北満で行動。この私は「張作霖爆殺や柳条溝事件のときはあれほど関東軍の傲慢さに憤りを感じたくせに、いざ満州が建国されるとなると狂おしいほどの男のロマンを感じそれに協力することになんともいえない喜びを覚えた」
ここではわれ関せずとひとり義侠に生きる次郎のみが颯爽とした存在であるが、それとて関東軍特殊工作機関の作戦に取り込まれないとも限らない。ただ、これまで歴史の大きな流れに翻弄されてきた主人公4人の兄弟たちの境遇にドラマチックな変化はない。だからこれを期待して読むといささか退屈になるかもしれない。
『満州国演義4 炎の回廊』の読みどころは満州にこける兄弟たちの境遇には直接かかわりなく進行した2.26事件に向かう史実の流れにある。
この間で詳しくたどられる主な事件を年表風にたどると。
1934年(昭和9年)
1月 帝人事件により七月斉藤内閣総辞職 岡田内閣
3月 満州国帝政実施。
10月 陸軍省「国防の本義とその強化の提唱」
中国共産軍、瑞金を放棄し陝西省への移動 長征
11月 東北人民革命軍成立。
12月 蒋介石対日国交調整打診
1935年(昭和10年)
2月 貴族院で天皇機関説攻撃
8月 政府、「国体明徴に関する政府声明」天皇機関説は国体に反すると声明
相沢事件 永田陸軍省軍務局長刺殺
10月 広田弘毅外相日中提携3原則提議
11月、汪精衛狙撃
12月 大本教幹部逮捕
1936年昭和11年
2月 226事件 広田内閣へ
藩閥、陸軍と海軍、政府と軍、陸軍内部と複雑な政治抗争のストーリーは史実自体が実にドラマチックである。このあたりの歴史解説は多くの識者によってなされているから、もちろんいろいろな見方があるだろうが、あまり詳しくない私のようなものにとってはエンタテイメントとして面白く読みながらも断片的にある知識をなるほどなるほどとつなぎ合わせつつ理解を深めることができた。フィクションのみが伝える「真実」がそこに表現されている。
そしてこの狂気のエネルギーは盧溝橋事件へと集中していくのだ。
第5巻が待ち遠しい。
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