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ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟4』亀山郁夫訳
16歳の少女が斧で警察官の父親を殺害した。つい最近の出来事である。同種の事件は過去にもいくつもあった。現在日本の刑法に尊属殺人という概念は消えている。にもかかわらず私たちには大変ショッキングな犯罪である。私のどこかに親は敬うべきものと儒教思想の残滓があるのかもしれない。『カラマーゾフの兄弟』が扱うのはキリスト教社会において最悪の犯罪とされる父殺しだが、今の私には同様の重さでこのテーマを感じることができる。
2007/10/06 |
第4部はミーチャが父殺しの容疑で起訴された裁判シーンでクライマックスを迎える。はじめにびっくりしたことだが19世紀末の裁判が公開の場でしかも検事、弁護士、裁判官、陪審員が均衡をなし、証拠主義が一貫するなど公平が担保される現在の裁判制度と同質のシステムでおこなわれていた事実である。ミステリーには法廷ミステリーというジャンルがあって、そこではこれら当事者の丁々発止のやりとり、意外な展開が魅力的なのだが、このジャンルの上質な現代ミステリーを読む同じ興奮と迫力と意外性で「第12編 誤審」を楽しむことができる。それは現代の裁判制度と同質のシステムが機能しているからである。そして文豪ドストエフスキーの推理小説家としての異能ぶりにも舌を巻くことになる。心理学の名手とされる頭脳明晰な検事補・イッポリートの立論も凄いが、対する「天才的」弁護士・フェチュコーヴィチの手腕には目を見張るものがある。現代ミステリーに登場する辣腕弁護士そのままに検察側証人の証言のあやふやさを突き、あるいは証人の人格上の問題をあげつらう変化球など、とにかく、時代のズレを全く感じさせない攻守戦の展開がある。この作品にはいろいろと難解さはあるものの、そこはあっさりと読んで、父殺しの謎解きだけ追った読者でもここで満足できるのではないかと思われるぐらいだ。
ミステリー論はさておき、フェチュコーヴィチの弁論には別な観点での新鮮な思想が見出され、ここでも私は驚かされた。彼はミーチャの無罪を主張するのだが、次善の策である情状酌量を念頭に置いて、キリスト教の倫理感覚とは肌合いの違う論理的で説得力のある父親論を展開する。
「子どもをもうけただけではまだ父親ではない。父親とは、子どもをもうけ、さらにそれにふさわしいことをした者のことだ」
『父たるものよ、汝の子らを悲しませるな』
性欲のままに子をなし、愛情のかけらも示すことなく、食うものも身につけるものもろくにあたえず、常識、分別を教えることを放棄した父親に父の資格はない。子が青年に成長しようが
「父親と呼ぶに値しない父親の姿は、とくに、ほかの同世代の子どもたちのりっぱな父親とくらべた場合、青年の心にいつのまにかなやましい疑問を呼びおこすものなのです」
被害者・フョードルがそういう親であった………と彼は断言する。したがって
「こんな父親を殺しても、父殺しとは呼びません。このような殺人を父殺しと見なすことができるのは、ただ偏見によるのみです!」
ここで父殺しを最悪の罪とするキリスト教社会の倫理観を偏見と言い切るのだが、傍聴者のほとんどがこの論理に感動し、賛同する。読んでいる私も人の子、父親だ。内心忸怩たる思いを持ちながら同感します。まして最近の親が子に加える虐待、冷酷の数々を見聞きしているからなおさらだ。19世紀末のロシアのお話とはとてもとても思えないではないか。このくだりは「第十二編 誤審 第十三章 思想と密通する男」なのだが、「思想と密通する」という倫理と論理が微妙に綾なすこのタイトル、なんと思索的かつ文学的修辞であることよ!
ところでわが国で尊属殺人の刑の加重が廃止されたのは1973年の最高裁判決を経てまだ最近の1995年の刑法改正である。事実、そこでは大宝律令以来の刑法の原則について、被害者・尊属に重大なる過失があっても加害者・卑属を例外なく重罰にする必然がどこにあるのかと問題にされたのだ。同じことである。つまりフェチュコーヴィチは時を超えて現代の日本に生々しく登場したわけだ。
このシーンだけではない。遠くドストエフスキーが伝えるところの多くは今を生きる私たちにとっても同じ波長のメッセージであって、それだからこそ驚きをもってさらに強く大きく共振させられるのである。ドストエフスキーは未来を予見できた人だとちょっと神秘性を誇張した見解がでるのも不思議ではない。しかし、千変万化する世の中であって、明日は今日の延長にはないのだが、一方いつになってもどこにいても変わらないところが同居しているものだ。人間、あるいは人間の営みにある普遍性だ。ドストエフスキーはいくつもの極限状況に遭遇した原体験から人並みはずれた洞察力を持っていて、この普遍性を摘出することができたのだろう。ドストエフスキー、その人物の大きさははかりしれない。
大勢の個性が登場する。その個性の断片に自分にも似たところがあるなと感じる。あるいは身の回りの人にその影を見出す。さらに日本の現状に同様の悲喜劇性を重ね合わせることができる。ドストエフスキーを読む楽しみはこんなところにもある。
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ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟5』亀山郁夫訳
『カラマーゾフの兄弟』に圧倒された1ヶ月だった。自分なりに咀嚼したつもりで読んだが、これからも何度か読むことになるだろう。そのときはまた別の感じ方をすることだろう。自分の生きてきた軌跡の長さに比例した奥行きの深さを見いだせる、なるほど最高峰と言われる文学作品だった。
2007/10/16 |
ドストエフスキーの描く少年・少女だが、どれもこれも子どもらしさがない、かわいらしさがない、ひとことでいえばこわい。読んだ作品ではじめに印象的だった子どもは『悪霊』の少女マトリョーシャだった。亀山郁夫の『『悪霊』神になりたかった男』は亀山が『悪霊』から「スタヴローギンの告白」だけを抜粋し翻訳して解説している。亀山はマトリョーシャを10歳としている。親から虐待されるのだがその痛みの中に快感をおぼえる人格なのだから驚きだ。スタヴロ−ギン(幼児性愛癖もあるんだな、彼は)は彼女を陵辱する。実は江川卓訳を読んだ限りそんなシーンだとは気がつかないぐらい婉曲な表現だったのだが、亀山訳はやはり婉曲ではあるのだがズバリと本質をあぶりだす翻訳になっていた。彼女はそのあと「神様を殺してしまった」とつぶやき、首をくくって自殺するに至る。「父親殺し」ではなく「神殺し」である。亀山郁夫のこの解説を読めば、なんとも凄まじい、そして高次の自己主張ではないか。
『カラマーゾフの兄弟』にもリーザという少女が登場する。これも薄気味悪い存在なのだが、私には本書5にある亀山の「解題」を読むまでその役割がわからなかった。本当にそうなのかどうか、ここはあらためて読み直したいと思っているひとつのポイントである。
正体不明のリーザはともかく明らかに戦慄を覚える少年が13歳のコーリャだった。すでに「第4部 第10編 少年たち」(ここにも現代に共通する子どもたちのイジメル、イジメラレルのパターンが描かれている)に登場している。恵まれた母子家庭で献身的盲目的な教育ママの愛を一身に受けているが、一歩距離を置いてその母親を観察し、時には疎ましく思いつつも大人びた賢さで上手に折り合いをつけているのだ。彼がアリョーシャに熱弁をふるう。
「ぼくはね(馬鹿な)民衆というのを信じています。いつだって彼らを正等に認めてあげる気でいる、ただし、絶対に甘やかさない。これが必須条件なんです。」
と、これは2〜3年前に流行した「仮想的有能感」をもつ「他人を見下す若者たち」にどこか共通するようだ。そして彼は野良犬を徹底的に飴と鞭で飼いならすのであるが、同様のやり方で哀れな少年イリューシャを支配し、少年たちの上に君臨するのである。通りすがりの若者に道端のガチョウを車でひき殺すことができるかと問いかけ、その気にさせて、首をちょん切らせるが、糾弾されると
「けっしてそそのかしてはいない単に基本的な考えを話しただけ、ひとつのありうる計画を話しただけ」
と邪悪の化身さながらに他人の運命をもてあそんでその成り行きを観察しているのだ。これはまさに『悪霊』のスタヴローギンに他ならない。また「審問官」を語り、スメルジャコフのあの行為を期待しているイワンの邪心でもある。
そのコーリャが様変わりする。マイナスのベクトルからプラスのベクトルへ。この作品にはたびたび驚かされたものだが………、この大きな振れによって「エピローグ 最終章 イリューシャの葬儀。石のそばの挨拶」は大長編のラストにふさわしい盛り上がりをみせる。そこには死にゆくイリューシャの美しさがある。(このかわいそうなイリューシャがただひとり、純真な子どもとして登場している)その死の尊厳にうたれたのか?そして先日までの悪魔性が払拭されたのか?コーリャはアリョーシャに同化していく。そして子どもたちの中心にアリョーシャがいる。コーリャが感激の叫び
「永遠に、死ぬまで、こうして手をとりあって生きていきましょう!カラマーゾフ万歳」
に少年たちは和する。ここまでいやおうなく分析的に読まざるをえなかった私も理屈をこえたなんともいいようのない感動で胸が熱くなる瞬間があった。
ただし、第3部で述べたアリョーシャの再生と同質で、やはり異様な狂気をはらんだなにかであるとの思いは消えず、このエンディング、手放しに満ち足りた心で読み終えるほど単純ではない。
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第5分冊の亀山郁夫の「解題」について
すばらしい解説だった。なるほどそうであったのかと多くの疑問が解消されていく。やはりそうだったのかと自分の解釈が一致して安堵するところもある。そうじゃないのではないかと首をひねるところだってある。また亀山氏にも解釈しきれないままに残されたこともある。ひと通り読み終えた読者がこの「解題」と一体になって読後感を味わえるのだ。
氏はドストエフスキーの作品を抜本から消化し、ドストエフスキーの人物を徹底的に分析していくなかで『カラマーゾフの兄弟』について氏独自のイメージを見出したのだろう。「解題」のエッセンスはそのイメージの結晶なのではないだろうか。そしてこの結晶に向けて丁寧に具体的な翻訳作業を進めたのではないか。さらに言えばそのイメージには漂流する現代の日本と重なるところが多くあったに違いない。なぜ今この著作がわかりやすいカラマーゾフとして多くの日本人にうけいれられたのか、その鍵はこのあたりに潜んでいる。
「日本のどこかで、だれかが、どの時間帯であっても、常に切れ目なく………それこそ夢中になって『カラマーゾフの兄弟』を話し合うような時代が訪れてほしい」と夢をみる氏の熱い思いが全編を貫いている。
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