『記紀』に見る関東地方

関東地方周辺に関する記述は古く『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』に見出すことができる。『古事記』『日本書紀』ではヤマトタケルノミコト東征伝承の記述のなかにふれられているので、まず『記紀』にあるこの孤独と哀愁の大ロマンのうちに探ってみることとする。

★★★東国をアズマとよぶは?★★★

走水哀話
「ヤマトタケルがおのれを焼き殺そうとした国造たちを逆に皆殺しにして(だからこの地を焼津というのだが)なおも東へ分け入って、走水の海(神奈川県浦賀と房総半島の間の浦賀水道)を渡ろうとしたときのことです。海神の怒りに、それまでの順風が突然に暴風と化し、荒巻く波に一行を乗せた船は木の葉のようにもてあそばれ、進むことも退くこともできなくなりました。ヤマトタケルの妃、オトタチバナヒメはわたしがあなたの代わりに海に入りましょうと、みずからを海の神のいけにえとする覚悟で、入水されました。波の上にスゲのたたみを八枚、皮のたたみを八枚、キヌのたたみを八枚かさね、その上に身をおき、

山のそびえる相模の国の
野を焼き払う火の中に
燃える炎に立ちながらも
私を気づかってくださいました
その、あなたですもの

と歌をうたいました。
このため、さしもの荒波も鎮まり、一行は上総に渡ることができました。オトタチバナヒメの髪にさしておったクシが浜辺に流れ着いたとき、見つけたヤマトタケルはそこに小さな墓をおつくりになられました。」 『古事記抜粋』

三浦半島は横須賀の走り水にオトタチバナヒメを祀る「走り水神社」がある。また房総半島の木更津には「吾妻神社」がある。オトタチバナヒメの袖がこの海浜に漂着したので、これを納め、祠を建てたのだそうだ。木更津に上陸したヤマトタケルは、太田山に登り、愛する妃の面影を偲んで何日も立ち去らなかった、これが、君不去=きみさらづ=木更津のおこりだといわれている。

「そこからなおも奥に分け入り、あらぶる蝦夷どもを言向け、山や川の荒ぶる神どもを平らげ和らげ、ようやく東のはてをきわめました。そして都へ帰る途中に足柄の坂のいただきにたち、かなたを遠望しましたとき、吾妻はや(最愛の妻はどうして………)とつぶやいて、三度お嘆きになりました。それで足柄の坂より東の国をアズマと呼ぶのです」 『古事記抜粋』

★★★ヤマトタケルの常陸国における足跡★★★
『古事記』の記述では房総半島から「東のはて」までの行程は全く触れられていない。東のはては陸奥地方であろうがどこまで制圧したのかは不明である。ただ『日本書紀』にはつぎのようなやや詳しい記述がある。
なおヤマトタケルを『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」、『常陸国風土記』では『倭武天皇』と記している。

「ヤマトタケルは上総から陸奥国へ入るに、海路をとって、葦浦から玉浦(九十九里浜か)を経て蝦夷の境に至りました。竹水門(タケノミナト)にて蝦夷の族長を従え、蝦夷を平らげて、日高見国より帰還します。帰りは常陸をへて、甲斐国にきて、酒折宮(甲府市)に着きます。」  『日本書紀よりあらまし』

竹水門(タケノミナト)は茨城県か、福島県か、宮城県かとの議論がある。また日高見国がどこかについては北上川流域説が有力である。なお「常陸をへて」とありその限りでは茨城県にも足を踏み入れたことが明記されているのである。


連歌の起源・筑波山
さらに『古事記』では常陸国に関して、後世に連歌の起源とされる興味深い記述が見出される。


「足柄を後に甲斐の国に出たヤマトタケルは酒折の宮に休んだときに歌をうたいました。
にひばり(新治) つくは(筑波)をすぎて 幾夜か寝つる
すると、それを聞いた火焚きの老人(おきな)が歌を継いだのです。
かがなべて 夜にはここ(九つ)の夜 日にはとをかを(十日)
そこでこの継ぎ歌をおほめになり、賎しき火焚きおきなにアズマの国造の位を授けたもうたのです。」 『古事記抜粋』

この記述からも、ヤマトタケル一行が常陸国を通過したのは陸奥国を制覇し大和への帰途であったものと推定できる。

★★★連歌の起源★★★
余談ではあるがこの歌継ぎ問答については松尾芭蕉の『鹿島紀行』にある次のくだりも見逃せない。
「すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり」
この問答が、連歌の始まりとされていることから、二條良基によるわが国最初の連歌撰修が「菟玖波(つくば)集」と名されたことをさしている。和歌が「敷島の道」と称されるのに対して連歌は「筑波の道」と称され、「酒折」が連歌発祥の地とされるのはここに由来がある。

このように『記紀』のヤマトタケル伝承では常陸を単に通過したことを推定する記述にとどまり、焼津や走水、木更津、酒折地方のようなロマンあふれる具体的行動の情景は見当たらないのである。またヤマトタケルを祀る神社・史跡が神奈川、千葉、秩父地方に数多く見られるのに対して、茨城県下にはほとんどのないというのも奇妙なことだと思う。