来栖村のいわれ

茨城県に残る日本武尊伝説は『記紀』『常陸国風土記』には数多く見られたものの一般の民間伝承あるいは事跡としては不思議なほど少ないのである。しかし、ただ、笠間地方に古くからの言い伝えがあると聞いて、これを笠間市のホームページで探し当てることができました。

まわりを山で囲まれた笠間は、むかしから人々がたくさん住んでいました。奈良時代に書かれた、わが国では古い書物として知られる「常陸国風土記」の中にも「笠間村」という名が出てきます。

注 常陸国風土記にある笠間 新治の郡の章
郡衙から東方五十里のところに、笠間の村がある。この途中越える道を葦穂の山という、古老の言うには、昔、ここに山賊がいた。名前を油置売命(アブラオキメノミコト)という。今も社の中に石室がある。土地の歌にいう。

こちたけば をはっせ山の
岩城にも 率て籠もらなむ
な恋ひそ我妹

大意は、二人の仲を言い騒がれて、うるさく耐え難ければ、おはつせ山の陵墓の石穴にでもあなたを連れて行って一緒に籠もりましょう。だからそんなに恋焦がれないでください。いとしい妹よ。と、情熱的歌謡である。
ここでいう山賊とは土蜘蛛一族。アブラオキメノミコトは筑後の土蜘蛛タブラツヒメに類する女の族長でオキメであるから年を経たものであろう。

 この笠間盆地の中で古くから人々が住んでいた所は、石井、市毛、大渕、福田、飯田、箱田、来栖、本戸、吉原、稲田、福原、の二十の里です。

このなかの古くある村落の一つである「来栖」という地名の起こりが次のように紹介されています。

「むかしむかし,日本の国がまだ1つにまとまっていなかったころのことです。景行天皇の皇子で、勇気と知恵のすぐれた日本武尊がいました。尊は、天皇の命令で国をまとめるために、たくさんの兵士をつれて東国に向かいました。
 山をこえ、川をわたり、ある時は戦ったり、ある時はゆずりあったりして、日本の国としてまとまるように力をつくしてきました。
 尊はやがて常陸国へ入りました。笠間を通るころには、兵士たちは長い行軍でたいそうつかれたのでここでひと休みすることにしました。
 村人たちは、尊をむかえ、やすまれる所を急いで作りました。この村に彦一という若者がいました。彦一は、尊のためにうら山に出かけて行って、栗の実をかごいっぱいひろいました。そして,おそるおそる尊の前に出て、〈どうぞみなさんで食べてくんろ。〉とさしだしました。尊は、〈おお,これはありがたい。ここの栗の実か。〉と、たいそうお喜びになりました。
 栗の実をおいしく食べた尊は、〈ここは,おいしい栗がたくさん実るよい所だ〉と思い、この地をくりのすと名付け、いつまでもお忘れにならなかったということです。また、村人の一人はそれはそれは大事にしていた剣の形をした青い石を尊にささげました。尊は、〈ありがたいことだ。この石をわが身と思え。〉と言われ、村人に返しました。村人たちは、社たててこの石をご神体としてまつりました。
 後に,「くりのす」を「栗栖」と書き,さらに「来栖」とかわったとのことです。そして村の社を「来栖神社」と言うようになりました。」

江戸崎の平右衛門家は苗字を「来栖」としていたところから、わたしとしては特別に興味をそそられたところです。そこでいちど来栖神社を詣でようと思い立ったのです。笠間市の観光協会に住所を尋ねたところ、この神社はあまり人も訪れないところで、宮司もいないし、観光地として登録がなく、したがって電話も住所もわからないとの冷たい回答にかえって好奇心をかきたてられました。


筑波山に立ち寄って


というわけで、2003年5月3日に来栖神社を訪ねることにしたのだが、途中、筑波山に立ち寄った。
筑波山は江戸崎町の高台から望める子どものときからなじみのある山だ。昔は関東一円どこからでもよく見られたようだ。海抜800メートル程度の山に過ぎないが、広大な関東平野の地平が尽きるあたりに、そこだけがいきなり盛り上がって秀麗な山の姿を顕している。男山と女山、双つの嶺がぴったりと寄り添って見え、大地に横たわった巨大な女神の乳房にもみえる。まさに生産のシンボル、常陸国にふさわしい、豊饒の祈り山である。朝夕にその色を変えるところから「紫の山」・「紫峰」などといわれている。その日は好天に恵まれたものの、女山からの眺望は霞がたなびくさまで遠景を望むことはかなわなかった。

★★★情に厚い筑波の精霊たち★★★
昔から関東の名山は西の富士、東の筑波と並び称されているが、万葉の歌人にとっては富士山よりは筑波山への憧憬がことのほか厚かったように思われる。万葉集で富士山を歌ったものが9首にたいして筑波山は25首もある。
『常陸国風土記』の古老はこの繁栄の比較を次のように語っている。

むかし 祖の神(祖先神)の尊があちこちの神々をおたずねになって富士山に来たときに日暮れたので、一夜の宿を請いました。ところが富士山の神は「今収穫祭をしていまして、家中の者が他人との接触を断っています。申し訳ないが、宿はお断りしたい」と申し上げた。その神は恨み泣きし大声で「私はお前の親である。なのに泊めようと思わない。それなら、お前の住んでいる山はお前の命ある限り、冬でも夏でも霜や雪が降り、寒さが幾たびも襲い、人々はだれも登らず、酒や食べ物を供える者はないであろう」とおっしゃいました。
今度は筑波山へ登られ、また宿を請いました。筑波の神はこたえて、「今夜は新嘗の祭りをしておりますが、あなた様のお言葉をお受けしないわけにはまいりません」と申し上げた。そして食事を用意し、うやうやしく拝し、謹んでおつかえしました。祖の神はたいへんお喜びなされ、歌をうたわれました。

とこしえに人民集いことほぎ
飲食豊かに いつまでも絶えることなく
日に日にいや栄え 
千年万年も楽しみは尽きない

かくて富士山はいつも雪が降り積もり人は登ることができず、一方この筑波山は人々が往き集い、歌い踊り、食べたり飲んだり、今に至るまでそれが絶えないのであると。
 
筑波は饗宴の山であった。

★★★『歌垣』と呼ばれる饗宴の風習★★★

『常陸国風土記』には次のような記述もある。

坂より東の国(足柄山の東)の男女、春は花の咲ける時、秋は木の葉の色づくとき、手を取り合って、飲食を持ち、馬に乗り、あるいは徒歩で登り、遊び、憩へり。その歌にいわく

筑波嶺に 会はむと云ひし子は 誰が言聞けばか み寝会はずけむ
(筑波山の歌垣で逢おうと言った女はいったい誰の云うことを聞き入れたのだろうか。私には逢ってくれない)

筑波嶺に いおりて 妻なしに 我が寝む夜ろは はや明けぬかも
(筑波山での歌垣に、相手となる人もないまま一人で寝なければならないこの夜は、一刻も早く明けてほしいものだ)

うたわれる歌はたいそう多く、ここで記載しきれないが、土地の言い伝えに
「筑波山の歌垣で男からの贈り物を手にすることができない女は娘の数に入らない」という。

歌垣は豊作を祈念する農耕祭事であるが、このように男女が集まり、飲食歌舞に没頭するばかりでなく、おおらかな性の解放を共にする行事であったようである。

デジカメぶらり旅「来栖神社を訪ねて」

来栖神社を訪ねる

★★★来栖神社★★★
笠間稲荷神社に詣で、お土産売り場の巫女さんに来栖神社の場所教えていただいた。笠間神社の西方2キロの沿道にこじんまりした境内を見つけることができる。
森の奥の人気のない藪の中にある貧弱な社を想像していたが、なんと小さいながらも神社建築様式にのっとった正統な神社である。境内の手入れも行き届いています。なにせ平右衛門一族の名付け親が祀られているわけだから嬉しくなった。
右手の石柱には「来栖神社」と刻まれている。白い鳥居から続く石畳の先には板囲いの社殿が見える。注連縄も心もち見栄えがある。裏手に回ればなんと高床式二間四方の正殿が破風と彫刻も奥ゆかしく棟を連ねて陽に輝いておられました。すると先に見た社殿は拝殿に当たる。
古代の人々は地域社会のなかの一定の祭場に,春あるいは秋の一定の日に集まって,農耕を支配する自然の力に祈りあるいは感謝する気持ちをこめて祭りをくり返した。その過程で,おのずから祭りの中心にあるべき神が山,杜,柱などの形で姿を現すようになった。したがってやがて神の象徴が建築の形をとるようになるとしても,最初はきわめて素朴なものであった可能性が強い。
まさに素朴な神域としてのたたずまいがそこにあった。

来栖神社の由来は次のように説明されている。
大同2年(807)9月21日に創建されたと言われ、祭神はヤマトタケルの尊である。社伝には、「不浄の地を除き、清浄なる地を撰び定め、今の宮所に行宮(あんぐう 天皇行幸のときの仮の宮居)を構へる・・・」とあり、不浄の除くため注連縄を張った所を注連田または注連立場と言われたといい、今もその地名が残っており、その側に神明塚と言われる古墳があり、その付近一体は尊の摂臣たちの居場所であった言われている。
境内社として、常磐神社、八雷神社、稲荷神社、霊符神社、駒形神社、八雲神社、天満神社の7社が祭られている。
この7社はよくわかりませんでしたが。

★★★来栖宮司のお話★★★
先に笠間観光協会へ問い合わせ来栖神社の電話番号も住所も不明であったことを記したが、実はそのとき、もしかしたらこの来栖さんが知っているかもしれないとその電話番号を教えてくれたのだった。
私は思い切って電話をしたところその方こそ来栖神社の宮司さんであった。そして実に興味深いお話を聞くことができたのである。

笠間民話にあった「栗の栖(すみか)」説が最近作られた創作昔話の類ではないかと心配していたのだが、これは昔から伝わる本物の民間伝承であるとの証言を聞いてまず安心したものである。
来栖宮司はまずヨーロッパ人によるアメリカ大陸「発見」を引用して土地名の起源について一般論を説いてくれた。先住民族はその土地に「赤い谷」とか「白い山」とか自分たちの名称を用いてはずだが、征服者とはえてしてそれを改名しその権力の象徴として新たに名を授けるというものである。『記紀』『常陸国風土記』で頻繁に現れる「名づけ事象」は後に大和朝廷に繋がる征服者の痕跡であると説得性ある史観を披露してくれたのである。

そして「私は『栗の栖』が淵源だとは考えていません」と思いもよらないことをおっしゃる。ヤマトタケルと陪臣たちがこの地に居所を構えていた。つまり文化の中心より辺境の地に「来たりて住んだ処」が来栖の起源だと。
なるほどそうだそれに違いないと私はおもわす膝を打った。だいたい名詞形の「栗」が動詞形の「来る」に変化すると考えるのは不自然ではないか。「来栖」と称される土地は詳細に調べると全国にまたがることを考慮すれば「栗」の変化とするよりは「来たりて住んだからおれの土地だ」としたほうが全国普及に沿っている。

「ついでながら………」と「一般に日本人の姓は名詞と名詞の組合せか、形容詞と名詞の組合せで成り立っているが、来栖さんは動詞と名詞の組合せで珍しい語感になっておられる」と申し上げると「それは気がつかなかったが実は………」とさらに未知なる伝承を教えてくれたのである。

実はそばに「折戸(おりと)」と呼ばれる部落があります。昔は「下処(おりと)」でありました。昔ヤマトタケルの尊が東征伐のとき、この地をお通りになられ、車駕から降りられた所で、そこを「御所」「下処(おりどころ・車から下りられた所)」と言い、今も神社の境内を始め、その東方一帯の小名字を「折戸」と呼んでいるのです。これもまた動詞と名詞の組合せですね。ここでは今でも旧暦9月28日にはヤマトタケルをお迎えする神事が村人たちによって行われているのです。

この話を聞いた私はタイムスリップして伝説の埋蔵金を探し当てたような興奮と驚きを覚えたのです。本当にいい一日でした。


★★★笠間村伝承の後日談★★★
さてこの笠間村の伝承であるが、文字通り「伝承」であって文献はないものと思われる。このためいつごろから伝わるものかは明らかではない。
ところが私はたまたまであるが、播磨国風土記にこの伝承に酷似した次の記述を発見した。

播磨国風土記 揖保郡
栗栖(くるすのさと)土の質は中の中。栗栖と名づけたわけは、難波の高津の宮の天皇(仁徳天皇)が皮をむいた栗の実を若倭部連池子に賜りました。すぐに下がり来て、この村に植え育てました。このため、栗栖と名がついたのです。この栗の実はもともと皮が剥いてありましたので、いまでもこの地では渋皮のない栗が実ります。


時間と空間がどのように交差したのだろうか。播磨では風土記として文献に残った地名のいわれが、ここまで符合して、常陸国の笠間では千二百年を超えて語り継がれてきたのだ。

自分で発見しただけに不思議さの加減も他の比ではないものがある