ドナ・W・クロス 『教皇ヨハンナ』

スリリングなサスペンスミステリーとしてもおおいに楽しめるが、とにかくめったにお目にかかれない傑作の本格歴史小説だ。

2006/02/03


カトリック教会の公式記録から抹消され、伝承のみに語られてきた男装の女教皇。激動の中世ヨーロッパを舞台に、史実の間から謎の女性教皇の姿が浮かび上がる!歴史大河ロマンス

とコピーを見ると、これはいくつもの文献を引用して歴史の裏をひもといたノンフィクション系フィクションか。堅物のそれなら襟を正して読むべきと腹を据えたものだが、とんでもない、冒頭からのサスペンスタッチに、危機又危機の連続と冒険小説なみの興奮。 読み出したら止められない。
これはいわばジェットコースター型エンタテインメントのジャンルではないか。

ローマ帝国が滅亡し法と秩序が崩壊したヨーロッパ。無法と暴力が圧倒する時代。ゲルマン民族は唯一の国家・フランク王国を形成しその軍事力をもってヨーロッパ全域を手中に収める。いつの時代でもそうなのだが侵略者・征服者はただ腕力だけで権力を揮うのではない。侵略した土地土地の、勢力下においた民族の、生活基盤を強奪するばかりか、固有の慣習、掟、秩序、文化を破壊し、そのよって立つ精神までも破滅させ、屈辱を強いるものだ。そしてキリスト教の布教活動が侵略の尖兵となって異教徒の群れを圧殺していく。

9世紀、フランク王国の辺境、飢えと寒さで死と隣り合わせている貧しい生活環境。難産の末に誕生した女の子・ヨハンナ。
女のくせに勉強したいなんておかしいと誰もが言う。それでも学びたい。より広い世界を覗いてみたい。さまざまな考えがあり、学ぶ機会の多い、そんな世界を。ほかの娘たちはそうしたことにまるで関心がない。ミサのあいだじゅう、ひと言も理解できずに座っていることになんの疑問も抱かない。人が言ったことだけを聞いて満足し、それ以上知ろうとしない。彼女たちの夢は、よい夫、つまり優しくて暴力を振るわない男と、耕作可能な土地を手に入れること。村という安全な住みなれた世界の外へ出ようとは誰も思わない。村の娘たちにとってヨハンナが不可解であるように、ヨハンナにとっても村の娘たちは不可解だった。

さて、この女の子の高い自覚はどうだろうかと、ふと思う。現代の女性であれば誰しもがもっているのだろうか、いやいや軽口にも「三高」などとあこがれる「村の娘」さん程度の方も多いのでしょうねと。

しかし、ヨハンナの父は聖職ヒエラルヒーの末端にある布教活動者である。異教徒の妻を虐げ、女として生まれたヨハンナの向学心を憎しみで踏みにじる。このキリスト者の女性に対する偏見は幼女の精神をいたぶり、その虐待は彼女の肉体を深く傷つける。身の毛がよだつ凄惨な場面が連続する。
無知からなる母親の盲目的愛にも決別してついにヨハンナは村を捨てる。
そして聖職者の男として生きることを決意する。路地裏の占い師が彼女の輝ける未来を予言する。そして権力の中枢、教皇の座にまで上り詰める劇的な女の一生が描かれる。

「下流社会」なんて言葉が流行ってしまうほど、それはいまでは死語になったしまった感のある立身出世物語でもある。立身出世物語の傑作、浅田次郎『蒼穹の昴』、優れた歴史小説のもつ重厚さに加えて一貫していた痛快感は心地よかった。似たようなところがあった。ただし彼女のその動機は「野心」ではない。米倉涼子の悪女型上昇思考とはまるで違う。
それは叡智が導く真理の探究である。一般にはこのような有徳の士はせいぜい「市井の一隅を照らす」レベルなのだが、にもかかわらず、それが積極的に権力とかかわるのだから、その俗っぽさの奥ははるかに深いものがあった。

身を立て名をあげ、やよ はげめやとあの美しい卒業式の歌はなくなっているのだろうね。若者からは何のために名をあげるのと自嘲的質問がオチかな。自分の欲望を貫くためと答える人はいるかもしれない。だから知性と良識と美徳の勝利を信じる、この古典的で崇高な志に対する疑問の余地のないストレートな賛歌にはノスタルジーの同居した新鮮さを感じるのだ。

凄い小説が登場したものだ。



真理を求めて、世のため人のために。
ヨハンナは聖職者としての途を歩む。
だが、キリスト教の「真実」は決してそんなものではなかった。
著者は佐藤賢一の中世西洋歴史小説と同様人間を呪縛する宗教世界を痛烈に告発する。

彼女の行く手にはまがいものの「真理」が幾重にも分厚い壁となって立ちふさがっている。ギリシア、ローマの賢人たちの文化的遺産、理性の所産を排除する。聖書以外の一切の文献を邪教の教えとするキリスト教である。科学的医療を認めず、裁判もまた神託による。それは聖書を教条的に解釈した為政者にとって都合の良い「真理」である。
ヨハンナは理性と勇気と行動力でこれらの難関を一歩一歩克服していく。真のキリスト者への道を切り開いていく。呪縛からの解放、人間性の回復をめざして。その一つ一つのエピソードには胸をうたれる。

そしてついにローマへ。
フランク王国の分裂。教皇と皇帝、聖と俗。二重の権力構造は複雑な内部抗争で血塗られていた。さらにノルマンディー、サラセンなど外敵の侵攻、略奪と虐殺。そしてローマ市民に蔓延する疫病と不可避の天災。、課題山積の権力の中枢へ果敢に進む彼女に仕掛けられる陰謀、奸計の数々。
暗黒の世界、ヨーロッパ中世史の中心舞台に女性を据えて、現代に通じる視角で輝けるヒロインを創造した、これは白熱の大歴史小説だ。

さらに後半からは灼熱の恋愛小説でもある。
ヨハンナには過去、妻子あるゲロルト伯との運命的な出会いがあった。凄惨な事件のためにお互いに愛を確信することなく別れた二人だった。
教皇庁で絶体絶命の危機をむかえたヨハンナ。ゲロルトとの劇的な再会が彼女を救う。
一切を捨て女に戻りゲロルトのさしのべる愛に身をゆだねるか。それとも………。肉欲の深みか精神の高みか。この情念と理性の葛藤だが陳腐なモチーフに見えてこの葛藤を恋愛感情だけに矮小化していない。
キリスト教の祭壇と異教の台座。異質なものの混合は自分を表しているようだとヨハンナは思った。キリスト教の司祭でありながら、いまだに母から寝物語に聞いた異教の神に憧れている。外見は男でありながら、心の内には誰にも言えない女を抱えている。信仰を追い求めながら、神を知りたいという気持ちと、神は存在しないかもしれないという気持ちのあいだで揺れている。心と理性。信仰と疑念。意志と願望。矛盾はいつか解消されるのだろうか。

人間って矛盾だらけものではないか、私は思う。

この恋愛小説には感動がある。
彼女の内面にある人間ゆえの矛盾を昇華させ、この作品の総合的なテーマを象徴するものがこの恋愛の最終局面に込められているような気がするからだ。
それは普遍の真理、圧倒的な人間賛歌である。
この恋愛の最終局面で読者は足下の地面が突然なくなって落ちていく滑落感に驚愕しながら、しかし魂の飛翔感に震えることだろう。

念のためだがどんでん返しのネタばらしのように感興を削ぐ「訳者あとがき」を前もって読むことは厳禁である。

ジャン=クリストフ・グランジェ 『狼の帝国』

「狼よ死ね!!!フランス万歳!!」とはどこにも書かれてはいないのだが。「狼よ死ね!!!フランスは死んでいる!!」との怨み節が聞こえる。

2006/03/03


『クリムゾン・リバー』、小説と映画で華々しく日本にデビューしたフランス人作家の最新作。これもまたジャン・レノが主演でタイトルは『エンパイア オブ ザウルフ』として映画化、公開されている。

アクション、アクションの連続といえばこれが巨悪をたたきのめすのであれば痛快と感じるものだが、暴力、暴力、暴力の連射に猟奇、怨念、復讐といった陰湿世界であるから、手放しにおすすめできるしろものではないが、一風変わった魅力で大いに引きつけられる作品でした。

不可解な記憶障害に苦しむアンナ。アンナの夫である内務官僚のローラン。彼の友人で軍関係の神経科医のエリック。トルコ人女性の猟奇連続殺人事件を追う警部ポール・ネルトー。テロリズム対策局の警視フィリップ・シャルリエ。引退した警部ジャン=ルイ・シフェール(ジャン・レノが演ずる?)。女性精神分析医マチルド・ウィルクロー。そして「狼の帝国」の住人たち。これら多彩な登場人物の全員が死闘の当事者になるいくつものバイオレンスシーンがみどころである。いずれもが重要な役割をになっており、しかも次々と読者の予想をくつがえす展開をたどるのであるから、プロットは巧妙に劇的に面白く入りくんでいる。スケールは国家的、国際的陰謀とかなり大きい。A・J・クィネルとロバート・ラドラムにジェイムス・エルロイとトマス・ハリスをカクテルしたような特異な味わいがあります。

舞台は現代のパリである。『クリムゾン・リバー』は人里離れた寒村という横溝正史的隔離空間で、わたしには退屈した作品であったが今回は都会型犯罪であるところでなかなかの迫真性があった。しかも私のイメージとはまるで違う。おぞましさでヒリヒリするようなパリの裏側には驚かされる。

押し寄せる波さながらに雲が屋根の上を流れていく。建物の正面を雨水がしたたり落ち、バルコニーや窓を飾る彫刻の人面は、空から降り注ぐ水流に呑まれて、青白く変色した溺死者の顔のようだ

何もかもが褐色と黒、それに油が放つ不気味な銀色の暗い輝きの中で踊っていた

ゴミ箱をひっくり返したような腐敗臭、移民たちの鬱屈と喧噪。テロリストのアジト。麻薬と人身売買と賭博。犯罪者の巣窟。奴隷さながらの過酷な労働。成り上がりと貧民の共生。不法捜査と汚職と恐喝が実力者の条件である警察。
これがパリなのか。

イスラム過激派によるテロへの対策はフランス政府の重要な課題となっている。
また昨年は、移民の若者が暴徒になって何千もの車を炎上させ、学校や店舗を破壊する事件が勃発し、この騒擾は今年に入っても続いている。
移民たちが生活や宗教から風俗習慣をかたくなに守り、フランスの文化に融合せず、彼らだけの社会つくるのだとしても、まさかパリにこんなに猥雑な集落があるとは、しかしフィクションの仮構だけではないのだろう。

そしてクランジェはフランス国家そのものを同様のイメージでとらえているようだ。フランス人はテロや暴動の恐怖が日常的にしみついているからこれだけの異常性が描けるのであろう。クランジェが抱く移民あるいは不法入国者など他民族に対する憎悪はひととおりではない。
そしてフランス国家への不信をそれ以上の自虐性でもって語っている。
フランス人の国家に期待するなにものもなくなってしまったという無力感が漂うのだ。
無力感ゆえに暴力が市民権をうる。
善も悪もない暴力が全編に満ちている。
その暴力のいきつくところもまた無力感しか残らない。

これがこの物語のラストの印象だった。



グレッグ・ルッカ『逸脱者』

先日読んだジャン=クリストフ・グランジェ『狼の帝国』はフランス製のハードバイオレンスだったが本書は本家アメリカの活劇小説である。新刊の読みたい本が見あたらなくなった間隙には古典かさもなければこのような過激なアクションストーリーを楽しむに限る。特に通勤途上では絶好のエンターテインメントだ。

2006/03/25

『狼の帝国』にはフランス社会のノワールな精神が味付けされていたがこれはどちらかといえば明るく楽しく残酷なゲームを提供しようとのサービス精神に徹している。
暗殺者とボディガード。プロの誇りと意地が火花を散らす!
暗殺者だって「わるい人」ではない、ボディガードだって「いい人」ではないよ、お互い誇りと意地を大切にするプロなのよ。この架空のルールを徹した、ゲームとしての攻防戦だ。
息もつかせぬ怒濤の展開
とキャッチコピー通りに面白い。

ゲームというのはルール厳守でなりたつ。審判の判断が絶対真であるとするのがルールであれば、いくらビデオテープをプレイバックしてそれはセーフだと実証できたところで審判の判断がアウトであればアウトが正しいのだ。だからルールを厳守するアメリカが他国とゲームをして勝ちたいときにはアメリカびいきの審判をたてるのは間違いない戦略なのだ。もっともその戦略が破綻する現実は実にドラマチックな展開でありました。

女(暗殺者)は男(ボディガード)に賭けた、男は命を懸けた
女は過去を捨てた、男は信念を貫いた
暗殺者の素顔のなんとドラマチックなことか
と紹介がされたところでこの本来敵対する男女の心情に深く感じ入るべき文芸作品ではなく、かといって叙情あふれる古典的ハードボイルドでもない。現実的でもなくこの色模様はやはりゲームを面白く進めるために必要だった枠組みとしてとらえておこう。
女暗殺者ドラマの本当の目的は別にあったのだ。期せずして暗殺者と行動をともにすることになったボディガード・アティカスのもとに、もうひとりの暗殺者が現れる
上巻から下巻へ、思いも寄らない展開に読者はページを繰るのがとまらなくなるに違いない
とあればストーリーの骨格はおのずと知れる。
ストーリーが単純な割に上下巻とボリュームがあるのは暗殺者から警護対象者を守るガード体制についてのディテールにあって、これが嘘か真かはべつにしても、物珍しさが手伝って、ヘェ要人警護とはこんなことをするのかと感心させられ退屈することがない。これだけの完璧のバリアーを破って目的を遂げるのだから暗殺者おそるべしとその超人性がいっそう際だつ仕掛けである。

大好評『ボディガード・アティカス』シリーズ
で、すでに『守護者』『奪回者』『暗殺者』『耽溺者』が発刊されている。シリーズものは三巻目あたりから品質が落ちてくるものだが、、この作品を読む限りマンハントサスペンスの水準をいっている佳作だ。
マンハント・サスペンス・アクション・タフガイといえばフォーサイス、クィネル、カッスラー、ハンター、ラドラムとよく読んだものだが、これらがロードショウ劇場で大画面と音響効果の迫力を楽しむものなら、『逸脱者』は手軽に良くできたテレビゲームを楽しむと言ったところかもしれない。ディテールは映像的な描写にあって過剰な暴力をゲーム感覚で楽しませる企ては成功している。