宮部みゆき 『日暮らし』

初めて読んだ著者の時代小説。なるほど「癒し」をもとめる読者層にうけとめられ、ベストセラーになっただけの仕掛けはわかったが………

2005/05/23

毎日、毎日を平穏に平凡につつがなく生きていくこと、それ以上のことは望まない人たちがそのご近所にたくさんいる。周囲と調和することで最も安らぎを得られるタイプ。町方役人・平四郎とその女房、平四郎の甥で佐賀町の藍玉問屋河合屋の五男坊・弓之助13歳、世話好きな煮売屋・お徳、植木職人・佐吉夫婦、本所元町に住む岡っ引き・政五郎、その子分で13歳のおでこなどなど。そこではこれらやさしさにあふれた人たちが助け合いながらおまんまを食っている。市井の片隅にこじんまりとした、あったかい人情に包まれた日常がある。
でもそうはいかねえんだよなぁ。一日、一日、積み上げるように。てめえで進んでいかないと。おまんまをいただいてさ。みんなそうやって日暮らしだ

題名の「日暮らし」とはどうやらここにある意味のようだ。
現代を生きる多くの人にとって失われた、だから郷愁を抱く世界である。しかも60歳を超えたものたちにとって先日まで身近にあった世界でもある。
それ(日暮らし)はとても易しいことのはずなのに、ときどき間違いが起こるのはなぜだろう。
自分で積んだものを、自分で崩したくなるのは何故だろう。崩したものを元通りにしたくて悪あがきするのは何故だろう

なにか徳の高いお坊さんの説教を聞くような気がする。
「それはな、人生とはそもそも苦であるとお釈迦様がおっしゃられておられることでな。
親・兄弟・妻子、愛するものと別れる苦しみ。
怨み憎むものと会う苦しみ。
求めるものを得られない苦しみ」
ってなもんで、わかりやすい、心にしみるお話が始まる。

いくつかの事件がおこるが、多くの騒ぎは親と子の愛情のもつれが原因になっている。子を思う親の真心、親を慕う子の哀れさ、実子との別離、妾腹の子を育てる母の苦悩、子供に恵まれない夫婦の願望。
私らが小さかったころに「母もの」と呼ばれる映画があった。三益愛子が主演であった。「母のない子と、子のない母」「娘・妻・母」「母ふたり」とかタイトルだけでその悲しい話の組み立てがわかるというものだが、私を含め観客の大勢が目を泣き腫らしていたものだ。
それにこれもまた古く日本的に湿っぽい、男と女の愛憎・嫉妬あるいは真情が複雑に絡む。
『日暮らし』はこれだから、時代を超えて涙を誘うはずのテーマといえよう。

人はやさしさから嘘をつくことがある。あるいは思いやりから本当のことを教えない場合がある。真実を述べるつもりが言葉にすることが下手で相手に伝わらない場合だってある。もともと真実なんてありゃぁしない、なんてことだってある。それを解きほぐすのであるからこの人情噺の短編集はミステリーとされるようだが、正直申し上げて犯人当てのミステリーとしては無理がありすぎる。

私は宮部みゆきの「時代小説」を始めて読んだのだが、これは時代小説なのだろうか。食い物、着ているもの、住まいは江戸時代のものなのだが、事件そのものは江戸という時代性や江戸という地域性には関連性がない。パズル型謎解きであるならそれでもいいが、人間を書いていて、その時代性が感じられないという違和感が残った。
宮部はそこにあっていいはずの政治、経済という枠組みをあえて捨象して、抽象的な「日暮らしの人情世界」をこしらえたようである。喜怒哀楽の「怒」を失った「長いものにはまかれろ」を地でいく人たちの世界である。
現代に潜む魔物をえぐりだした『火車』『理由』『模倣犯』という傑作を時代小説にも期待していたものからすればいささか肩透かしであった。

ただ、百鬼夜行の今日であるから、ありふれた日常性の賛歌に癒されるところがあるのだろう。海外旅行へいって「やはりお茶漬けがうまい」と感じるようなものなのかもしれない。

蛇足ながら著者の最新現代小説 『誰か』と共通のものたりなさがあるのだ。


西木正明 『凍れる瞳』

初めて読んだ西木正明。昭和15年秋田生まれ。私より4歳年上とはいえ同世代だ。昭和63年に直木賞を受賞したのが48歳であったから文壇デビューとしては遅いほうだろう。

2005/06/01

手元にある昭和63年受賞の直前に発刊の『凍れる瞳』の「あとがき」で氏は
大多数の人間にとって、人生は挫折の連続だと思うし、それが人生だとも思う。しかし、………。人生の翳の部分など、自分にはとうてい書けるものではない、と信じていた。なによりも人生経験が浅すぎるし、人間の年輪を書くほどの文章力もない

と低い姿勢で述べておられる。この言葉が人生経験に裏打ちされた謙虚さによるものであることは、人の夢や挫折、絶望をテーマにしたこの情感豊かな短編集を通してうかがい知ることができた。

私の周囲にいる本好きのなかで何人かが氏の作品を絶賛していた。そこでは岸信介や児玉誉士夫など実在した人物が登場する戦争秘話がおもしろいとする見方があって、私は遠慮していたのだが、
「本屋ではなかなか手に入らないのが見つかった。戦争秘話ではない。とにかくおすすめのシロモノなのだから読むべし」
と押しつけられたのが短編4作品集『凍れる瞳』であった。

昭和8年、旭川市営球場。甲子園出場を賭けて戦った投手と打者に人知れず友情の強い契りがうまれた。戦争と終戦と戦後をとおして、それぞれに栄光と挫折を体に刻んだふたりの若者。男たちの太い絆を知ることなく、その一人に恋をした女がいた。恋人たちに訪れる突然の破局、やがて知ることになるもうひとりの男の真心。その後、結婚して、長い年月が流れた。そのあいだ、ただいきていくだけの人生にすぎなかった老女が今、豪雪に埋もれる宿屋で孫娘に語る、たったひとつの生きていたことのあかし。表題作「凍れる瞳」(直木賞)
わが身を振り返って、人に語れるものがある人生だったのだろうかと、ふとそんなことが頭をよぎる歳になっているものだから目頭を熱くします。

もはや自分の存在価値はなくなった。秋田・阿仁地方、年老いた又鬼(マタギ)の頭領(シカリ)。マタギの伝統も単に観光ショウと化し、若い連中も迷信は迷信と指摘するような時代だ。そして大型の林道建設工事。ただ我慢して我慢して静かに暮らすつもりが我慢ならないことがあった。その結末を静かに見つめる除け者のマタギ、体の不自由な乱暴者の親友(ドヤク)。「頭領と親友」
時代の流れに逆らった老人の悲劇と単純には言えないものがある。「俺ももうおしめぇだ」とつぶやくドヤクの一言にこめられた万感の思い入れをかみしめたい。

昭和40年、一本釣りのサバ漁で栄えていた東北の漁場はまき網漁法の大量捕獲時代に突入した。最後まで一本釣りにこだわった剛胆の男も今は不法入国者をかかえる売春バーの人のよいマスターに落ちた。どん底の生活から這い上がるために、実の日本人父を見つけるために働くバンコク娘。男の優しさが親探しの手助けをしたことで………。「夜の運河」
ここにも時代に逆らって逆らいきれずに時代に妥協し、それでも折り合えきれない人の情があって、それが仇となった男の哀れがある。

10年前に炭坑が廃山になって無人の島と変貌した長崎・端島。昭和19年生まれ39歳、ここを第一の故郷とする女が暴風雨に晒されながらひとりたたずむ。衰退する鉱山集落に母と二人で過ごした少女時代。結婚して東北の山間に移り住んだ。しかしそこもまた日本の経済発展のために変化しなければならない地であった。もともと夢や希望や幸せを追い求める女ではなかった。ただ毎日を生きていくだけだった女がすべてを失った。「端島の女」(直木賞)
前の3編と異なり、ただ荒涼とした精神風景だけを残したまま終わるこの1編はやや異色であった。わたしと同い年にしてもまだ39歳の女であるから、ここは過去のすべてを廃墟に埋めて、再生を決意する女性であると解釈したい。

昭和戦後史の時間軸に沿ったある断面に人のいきかたをなまなましく絡めた粒ぞろいの作品集である。
「充分に人生経験を積んだ」などとは死ぬまで言えるせりふではないが、ほどほどには生きてきたつもりの年代だからこの作品群の底流にある「それでも生きている人生のほろ苦さ」は充分に味わうことができた。
同じような年代の仲間がこの作品をわたしに推奨した理由もその辺にあるに違いない。


桐野夏生 『魂萌え!』

いつでも、どこにでも灰色のビジネススーツを着ていくような、まじめで実直だけがとりえの、平凡なサラリーマン、定年退職後、ゴルフと蕎麦打ちを楽しみ、健康診断も欠かさない63歳の隆之。
隆之の性格も好みもよく心得て、家庭を守り子どもを育て、地域と仲良く付き合い、夫を支えてきた59歳の妻・敏子。

私はこの種の組み合わせにあたる夫婦ならもっとも身近にいるのでよく知っている。

2005/06/12

戦後の民主教育を受けた世代であるから男女同権をわきまえているが結婚した頃は女房とは家庭を守るべきものであり、稼ぎは男に任せろと当然のように役割が決まっていた時代だ。妻の立場からしてもそれに反発することなく結婚とはそんなものかしらと思い込み受容していた。
この結婚観でどうにか継続している夫婦は私にはよ〜くわかるのだ。

新婚の頃はお茶やお花や料理教室に通ったがいつの間にかやめて、みずから楽しみを見つける気構えも根気もなく、ただ、ときどき数人の同じ年代のお友達といわゆる井戸端会議があるくらいで世間知らずの専業主婦が「私の人生ってなんだったのかしら?」と妙に哲学めいたことをつぶやく。
そんなぼやきの心境だって私は充分にわかるわかる。

だいぶ前から 自分が生んで育て、愛おしくてたまらない存在だった子どもたちがまともな家庭を作れる資格もないのに家を離れ、自分に寄り添わなくなった。ときどき帰ってきては憎たらしいことをいわれ、ここでも「よい母親として家事育児に専念してきた。自分の時間とは何だったのだろう」と
述懐する寂しさでいっぱいの母の心境だって私にはわかりすぎるほどわかるのだ。

おそらく私だけではあるまい。
この世代の夫婦なんてみんなこんなもんだと言っても言いすぎにはならないだろう。さらに定年を迎える団塊の世代夫婦は今後急激に増加するのであるからこんな夫婦のカタチが日本中にあふれるのだ。

隆之が自宅の風呂場でポックリと逝ってしまう。心臓麻痺だ。
これだってありうる。
その隆之にはこれも一般にはありうる話なのだが女がいたことが発覚する。
女でなくとも女房にはいえないあるいは誰にも言えない、ちょっとうしろめたい楽しみや表面化しない過失なんてものはバブルに踊って、その崩壊も経験したサラリーマンにはだいたいあるものなのだ。

そして世間知らず、根っからの専業主婦であった敏子。夫に裏切られた貞淑な妻の敏子。手塩にかけた子どもたちに顧みられなくなった母の敏子。
悲しみ、孤独、不安、失望、に打ちひしがれながらも、おそるおそる夫の相手に対し女の熱い戦いを挑み、遺産相続にうるさく口を出す息子にはかわいそうだと思いながらも決然と臨む。それは隆之が死んだことで始まった新しい敏子である。カプセルホテルでエイリアンのような他人との出会い、夫の蕎麦打ち仲間との交流、古い付き合いの女友達の本音も見えてきて、今まで全く知らなかった世界が広がっていく。
これらの初体験をへて、59歳の彼女は今、飛翔する。妻でもない母でもない女一人だけのたっぷりある時間で新たな人生をきりひらく決意を固める。
新たな生命力が萌える。

桐野夏生、女性の自己確立をテーマに数々の話題作を発表してきた。
『柔らかな頬』は彷徨、 『OUT』は殺人、 『ダーク』は暴力、 『グロテスク』はセックスと、閉塞状況からの脱出方法は恐ろしく過激であり、小説自体が非日常の寓話風であったが、これは違う。どこにでもいるオバちゃん(いやもっと身近にいる方かもしれない)がどこにでもある日常生活の中で、地に足をつけた、だから、カッコイイとは言えないのだが、それでも間違いなくこれは「飛翔」である。そのプロセスは当たり前のようであって読者は次の展開が待ちきれないほど劇的なのだ。そして60歳前後のだれもが共感する熟年女性のうれしい「飛翔」だ。

私には桐野夏生の最高の傑作であった。2007年問題、それは団塊の世代が定年を迎えはじめる問題である。この急増する第二の人生を迎える夫婦の群れ、この問題層にたいする警告でもあり、啓蒙でもある。しかもいやになるほどリアリスティックな示唆である。
敏子の再スタートにおしげなく拍手を送るぞ、応援するぞ。

そして私が先に逝くようであれば
わが妻にこの書を捧げて
口では言えなかった感謝の気持ちと
「あとは魂萌えしてよろしい」
との思いを伝えることにしよう。

これを読んだオジサン族は必ず愛妻家になれるぞ