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デニス・ルヘイン 「ミスティック・リバー」
インモラルな独善行動原理
2001/11/18 |
デニス・ルヘイン「ミスティック・リバー」は三人の登場人物の三代に渡る悲惨な物語である。残酷な物語である。現代アメリカ社会の底辺に近い(と思われる)生活環境に生まれた11歳の遊び仲間三人。その一人が遊びの最中、男たちに誘拐され、性的幼児虐待をうける。この事件は、誘拐の現場で、なすすべなく逃げ帰った二人も含め彼らの心に消えることのない深い傷を与えた。そして25年後それぞれの人生を送る彼らであったが、一人が最愛の娘を惨殺される。一人は加害者と思われる。もう一人はこの殺人事件の捜査官となる。
追うもの追われるもの復讐を誓うもの、その家族たちのあまりにも深い心の闇、そこにある煮えたぎる暗い情念には鬼気迫るものがあった。
登場人物の感情の起伏には、それは時には家族への愛であり、自分自身への憤怒であり、敵対するものへの憎悪であるのだが、彼らの成長過程の詳述と緻密な心理描写によって、読むものの心を強烈に揺さぶるものがある。各所で生理的な共感を覚えた。
ただし、この物語の人々には、あるいはアメリカの根底には社会規範、倫理、あるいは神、つまり人間が生活していくのに共通するモノサシは存在していないと断定するノワールな現実があるのかと思うとにぞっとする。
どうやらモノサシの「存在」という認識がそもそもないのだからこれを「否定」する面倒な論理もそこにはない、そんな状況のようである。
「人々が、ただやりたかったといった程度の理由で強姦し、盗み、殺しあうのを見て夜を過ごすうちに、人が罪を犯す動機について(奥さんと友達が)夜通し語り合うのにある日突然耐えられなくなった」
社会とはかかわりのない自分だけの行動原理があってそれを声高に主張し、忠実に従う。
「ある人たちが神やナスダックや『世界をつなぐインターネット』を信じているように、彼も自分のことを信じているように思えた」
神は信じなくてもナスダックは信仰しているのがアメリカと思っていたが神もインターネットも一括りにして信じるものを放棄し、自分だけで構築した行動原理に執着する。いやだな日本でもそんな人種が増えるのだろうか。
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デニス・レヘイン 『雨に祈りを』
傷ついたもの同士の結束を暴力的に描く
2002/10/27 |
帯に「本年度ベストミステリ大本命」と角川書店では豪語しているがいかがと手に取ったしだい。
外国の私立探偵はハードボイルドが一世を風靡して以降、女性にモテて、女性にほれ、女性にだまされ、そのため事件に巻き込まれ、さらに事件を複雑化させるのが相場です。レイモンド・チャンドラーが生んだフィリプ・マーローという探偵が、「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」と女に訊ねられたとき、こう答えるのである。「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」と。
このようなキザなセリフをつぶやいて女のハートを捉える探偵はタフな行動的人間であると同時に瀟洒な社交人でもあると丸谷才一は紹介しています。
『雨に祈りを』の主人公である私立探偵ですが、なんとなく題名からするとマーロー的ダンディズムを髣髴させ、しかしそうであれば私としてはセンスの古めかしさに興味半減といったところです。
裕福な家庭で育てられたような娘さんが執拗なストーカーに悩まされている。女性には無類の優しさをもって接する探偵パトリックは直ちに行動をおこし、このストーカーを懲らしめます。これは昔ながらの私立探偵パターンですね。ところが懲らしめる方法が「タフで行動的」なんてものじゃない、まして「瀟洒な社交人」の影すらない、あまりにも過激(恫喝と破壊と拷問)でこの作品の導入部分から私はうれしくなってしまいました。これはカヨワイ、カワイイ女性に対する優しさの裏返しなのでしょう。さすが『ミスティック・リバー』で暴力世界を書いた作者であります。チャンドラーとは似て非なるハードボイルドでありました。こうでなくては古典を超えられません。
この依頼人が半年後に両親からも色情狂と言われるまでに転落し、全裸で投身自殺をする。そしてその背景には彼女を破滅に追いやった邪悪な意図が存在した。で、この真相に迫るお話。この探偵のガールフレンド(昔なら情婦と言ったものだが)はかつてマフィアの大物を祖父に持つ、男と銃と肉体を自在に操る凄いやつである。もう一人お友達がいて、これは見るからに獰猛、じっさい凶暴、前線でこそ華麗でしなやかな勇猛の戦士である。
この三人が結束してかかっても容易に太刀打ちできないほどの狡猾、冷酷、残忍な敵との血みどろ戦いがこの『雨に祈りを』(とてもタイトルからは思い至りませんでした)のすべてである。陰惨な愛憎劇なのだが、それに乾いたハードコアバイオレンスと登場人物のブラックユーモアに満ちた軽妙な会話が巧みにブレンドされ、重厚感を満喫しながら一気に読むことができた。
デニス・レヘインには一つの美学があるようだ。「友情」と表現するには叙情的に過ぎるのだが、「傷ついたもの同士の絆」というべきか、社会秩序や倫理には程遠いところに群れている人たち、生きることに原則があるとすれば、利害を超えたその仲間関係の存続である。その唯一の原理を犯す外敵に対し命をかけて戦う。この生きざまに対する礼賛あるいは憧憬である。
既存の原理・原則が通用しなくなったまさにカオスの状況にあって、それは「祈り」なのかもしれない。
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デニス・ルヘイン 『シャッター・アイランド』
巻末が袋とじされて帯表紙に「衝撃の結末は袋とじの中に」とあれば、この作品は読者の推理を混乱させ、予想のつかない結末を用意した本格ミステリーだぞと宣言しているわけだ。
2004/01/12 |
『ミスティック・リバー』と『雨に祈りを』でその重厚な語りを楽しませてもらったデニス・ルヘインが今回どのような趣向をもってドンデンガエシの一本勝負を仕掛けたのかとおおいに気になるところです。
「ボストン沖のシャッター島に精神を病んだ犯罪者のための病院があった。1954年、そこでひとりの女性患者が行方不明になり、捜査のために連邦保安官のテディと相棒のチャックが派遣された」
凶悪犯の牢獄であり精神病棟の厳重な監視、さらに孤島という密室からの消失事件であり、残された暗号とこれは古典的本格探偵小説の重要な舞台装置・小道具である。
どうやらこの病院では医療に名を借りた国家機密としての人体実験が院長、医師団、看守らの総ぐるみで行われているようであるとここはスパイサスペンスの常道が用意されている。さらに戦後のアメリカの暗部を糾弾する暴露政治小説であり、現在に通じる精神医療の独善を批判する社会派ミステリーでもあるかの体裁。
島を襲うハリケーンのなかで必死の捜査活動、そして機密の糸口をつかんだテディに対する薬剤投与、凶悪犯罪者の暴動、さらに脱出行と冒険活劇小説でもある。
テディ自身も妻を焼殺されここに収容されている殺人犯への復讐を企てているのだが、その愛する人への捨てきれない追憶と戦時中に手をかした大量虐殺の後遺症で偏頭痛と妄想に悩まされており、つまり心の闇の不可解さをテーマとするサイコサスペンスでもあるのだ。
こうみれば、最近のミステリー界の主な潮流をてんこもりして、一つの読ませるミステリーに仕立てたルヘインの手腕をみせつける作品と言えよう。
ドンデンガエシの大技についても最近ではサラ・ウォーターズ『半身』、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』など話題作が発表されたいわば旬の味覚である。
そこで肝心の袋とじの味付けであるが………。原書がどんな装丁であるかを知りませんが、これほどの趣向に装丁にまで珍味を加える必要はないのじゃないかとの感が残り、袋とじまでの語りで充分この作品の面白さは味わえました。
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