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高村薫 「レディ・ジョーカー」
「レディ・ジョーカー」についてきわめて個人的な思い入れ
発表になった年は1997年12月、大激震が金融界を襲った年であります。それまでに大企業特に銀行は総会屋、暴力団との関係がもたれあいとして厳しく指弾されていました。そして経済小説ではトップ層の無能、倫理観の欠如、あるいは権力欲、金銭欲、ポストに対する執着心などが大組織をも崩壊させるとの単細胞的思考で描く、あまりにも類型的な暴露的企業小説で溢れかえっていました。しかし、激変の環境におかれた現実の経営は決してそんな単純なものではないだろう………と痛感していたときにこれを読んだのです。
もちろんミステリーとしての面白さは完璧なのですが、冒頭に同和問題を大胆に持ち出したところも非常に興味深いものでした。表に登場する人物が経営者を含め基本的には「善人」としてとらえられ、にもかかわらず事件に巻き込まれていく構図に日本社会の闇構造の根深さ怖さを実感させるものがありました。
最近また経営トップの責任が問われる事象が続発しています。
2002/09/05
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高村薫作品について一言
00/2/191記す
「黄金を抱いて翔べ」「リヴィエラを撃て」。高村薫の作品はいずれも丁寧に作られており多様な視点で突っ込んであるために作品ごとに独立した面白さがあります。読む人の評価が分かれるのはそのためでしょう。
私の周囲にはかなり世の中、人の世を知っているおじさんおばさんしかおりませんのでどの作品も安心して薦めています。
国際謀略ジャンルでは「リヴィエラ」。いわゆるクライムものなら「黄金を抱いて翔べ」「神の火」。
異性・同性の愛憎、嫉妬等、複雑なエロスを交えての事件なら「マークスの山」「照柿」「李歐」。
しかしこれらの作品をはるかに越えてお薦めしているのが「レディ・ジョーカー」です。彼女、このあと人生観が変わったようで、社会そのものへの目の向け方が真摯にしかも鋭くなって、評論家としての活動が目立っていますね。良いことだと思うと同時に新作が待ち遠しいものです。戦後ミステリー史上の屈指の作品と言っても過言ではありません。
ところで「レディ・ジョーカー」はこのページであまり話題にならない作品ですが次の事項に興味のある方が読まれると損をしません。
@先日時効が到来したグリコ事件の真相を野次馬的に知りたい方。社長誘拐の手際よさ、身代金の受け渡し方法、警察と会社と犯人の駆け引き等。
A戦後大企業が巻き込まれた総会屋、暴力団、政治屋、似非同和などと身近に関わった方。
Bバブル崩壊の中で刑事、民事あるいは道義的責任を問われた経営者およびそのスタッフの方々。
C暴露的企業小説が好みで儲かっている企業のトップはすべて守銭奴か権勢欲の権化か色情狂と誤解している人達。
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多島斗志之「症例A」
心の病
少年による異常な犯罪が後をたたない世情には心胆を寒からしむるものがある。また、興味本位であるいは猟奇趣味で描かれるミステリー、映画、報道番組も氾濫状態にある。
2001/1/23
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昔、フロイドの「精神分析入門」をそれこそ興味本位で拾い読みをし、リピドーという概念にえらく感心したものだった。そのころであったろうかヒチコックの「サイコ」を見たが、今でもあの恐怖感覚と二重人格という特殊な設定への興味の高まりを忘れられない。その後このテーマには数多くかかわりあったが、中でもワイラー監督「コレクター」、ハリス「羊たちの沈黙」はひとつの頂点に立つ感がする。
多島斗志之の「症例A」を読んだ。ここには精神障害者を治療する多くの医師たちが紹介されるが、中心は患者の人間としての尊厳を基本に置き、患者とともに苦闘する医師の姿が描かれている。その意味では「閉鎖病棟」を発表した帚木蓬生の強烈なヒューマニズム精神と相い通じる視点がある。作者は生半可な知識の断片ではなく最新の精神医学の議論の集積を持って上質のミステリーを完成させた。心の深奥を探る過程そのものが謎解きなのだ。先般読んだやはり心の病をテーマとし、不可解さを不可解さとして表現した沢木耕太郎の「血の味」の良さとは別のあくまで医学的分析を積み上げ徹底して解明するプロセスがミステリーとしての骨格をなしている。
凄惨な殺人シーンの連続する小説の群れにさすが「どうかな」と思う年末にあたりいいものを読みました。「症例A」を21世紀に残したい作品として推薦します。
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土屋隆夫 「天狗の面」
「天狗の面」その村は存在する
2001/3/31 |
ミステリーの舞台として、孤立した村落共同体と権力者、迷信、因習へのこだわり、怪しげな宗教、漆黒の夜とかがりび、祭祀の異様な興奮、連続殺人事件、精神異常者、探偵とが登場すれば「おどろおどろしい」「血も凍る」「陰惨猟奇」、あの横溝正史の世界を描がくことが出来ます。小野不由美「黒祀の島」もまた使い古された素材をそのままに組み立てた作品でうんざりさせられました。
直後に土屋隆夫、昭和33年の処女作「天狗の面」を、これは始めて読んだのですが、「黒祠の島」とまったく同じ素材を使いながら、まったく異質の新鮮な本格推理小説に昇華させていることに大変感心し、この二つの作品の類似性とその対照性に関心をいだきました。
何が違うのか。作者が、都市文化から隔離された村落共同体の中で営まれている人々の生活を知悉しているため、その生活の実感を捉えた小説になっているところにあります。
読者にはそこが伝わるから、舞台そのものが「生きた伏線」として充分機能し、本格推理小説の要諦=論理的納得性が担保されるのである。「論理」を構成する「背景」の捉え方、描き方次第で文学に近接するか、ゲーム攻略本に接近するかに分かれるんだなと、勝手ながらに思いやる。
「天狗の面」は論理性に重きを置いたがゆえに文学とは言えないのだが、作者の持つ農民に対するまなざしの優しさがそこに滲み、ホラーとは異質のむしろ牧歌的な生活のユーモラスな描写が印象的な作品でした。
解説を読むと(解説もなかなか読ませる)横溝に代表される旧派の探偵小説を揶揄したとあるが、それで得心がいった。その精神、今日でも歓迎したい。
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