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高村薫 初稿『マークスの山』
改訂版を読まれた方に参考までに初稿のラストページを紹介します。
2003/02/23 |
改訂版は高村がまさにこのページを削除するための大きな修正であったことが感じられます。このページは事件の最終解明になお期待できる余韻をのこすものですが、この削除によって著者は事件が迷宮入りすることを暗示するのです。
〈加納です〉と電話の声は応えた。「雄一郎」〈声が遠いぞ。どこからかけてるんだ……〉「広河原。北岳から水沢裕之の遺体を下ろしてきたところや」〈死んだのか……〉「ああ」〈死人に口無しか……〉加納祐介はそう眩いた。加納はおそらく、あの白骨の復顔写真が出回ったころに、すでに地検のルートで事件の裏を嗅ぎつけていたに違いなかった。それから三年後、事件が一連の恐喝殺人と化して東京で再び噴き出したとき、捜査に携わった合田に、広告のチラシの裏にメモを書いたりして、それとなく目配せを送り続けてきた。その男の、無言の絶望の吐息が伝わった。「祐介。頼みがある」と合田は端的に切り出した。「地検特捜部は佐伯正一の足取りを追っていたのなら、十月九日の赤坂の料亭に、住田会会長がいたことも知ってるだろう。そこに林原雄三がいたこともな。確かに三者がそこに《いた》という証拠が欲しい」〈雄一郎。気持ちは分かるが、焦るな……〉「焦ってへん。昭和五十一年十月に野村久志を山に埋め、平成四年十月五日と十三日に、住田会と吉富組を動かして水沢裕之を殺そうとして果たせず、結果的に無実の看護婦ひとりに重傷を負わせた弁護士が、最後に生き残った。俺は手段は問わへん。時効まで追ってやる。時間はある」〈・-…いつでもいい。連絡くれ〉「いや、明日や。午後十時、池袋のいつもの映画館で」《…-・時間通りに来いよ。俺が居眠りしないように》加納祐介の沈んだ声を聴きながら、合田はふと言い忘れたことを思い出した。「なあ……正月登山は北岳にせえへんか」《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》
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高村薫 『マークスの山』
このほど改訂版が発刊された。帯には「警察小説の金字塔」とある。まさに文字通りの傑作である。
2003/02/23 |
マークスと名乗る二重人格の青年の狂気と仲間の秘密を共有しあった政・財・官・法曹界のエリートたちの狂気、二つの狂気が交錯する暗闘に警察組織が翻弄される。ほとんど手がかりがないまま進行する連続殺人事件の真相を追う合田刑事たちの地道な捜査活動、そこで繰り返される試行錯誤、警察という厳しく管理された組織とそこで生きる男たちの苦闘ぶりだけでなく、それぞれの個性、喜怒哀楽を活写する。年がら年中顔を合わせ、角を突き合わせ、怒鳴りあい、足を引っ張りあい、悦びあい、同じ成果と失意を共有してきた男らも、ときどき生活も感情も違う他者の分厚い壁を見せる………のは警察ならずともどこの組織内もそうなのだ。私の生きてきたところもそうであったと振り返えれば、このリアル感は警察組織を知らなくともホンモノに相違ないのである。
実は1993年に初稿版を読んだときには直木賞受賞とはいえ、退屈だった記憶を除いて印象が薄い作品であった。『黄金を抱いて翔べ』『神の火』『リヴィエラを撃て』これら一連の大型犯罪小説、国際謀略小説の規模と娯楽性に比較して萎縮した作品だと錯覚したこともあったのだろう。「警察小説」ならば大沢在昌『新宿鮫』の痛快に魅力を感じていたこともあったろう。さらに日本上層部の腐敗構造を斬るのであれば松本清張流のメスのふるい方をこの大型新人に期待するところがあった。にもかかわらず、事件の切り込み方に満たされないものを感じたからであった。
しかし、改訂版を改めて読んで全く異なる印象を持った。
とくに日本の権力構造をとらえる高村薫の視点に関することである。
初稿を読んでもう10年近くもたつのかとこの間の時の経過、その凝縮された濃度を実感する。バブルという魔物に日本の全体構造は窒息状態に追いやられた。その魔物の周囲で数多い不正義があった。私の友人・知人の幾人かはその責めを問われ被告席に立たされた。経済的制裁、社会的制裁をうけた友人・知人の数は知れない。しかしこれらの告発は司法制度というごく狭い視野で、局部の積み重ねとして行われたものであり、あるいはヒステリー症状のマスコミの無節操がなしたものであり、魔物の核心を斬るものでは決してなかった。この魔物には鮮明な核というものはない獏としたなにものかであって、むしろ核を構成した要素が分裂して、日本の全体構造のいたるところに拡散してしまった状況なのではないか。
では小説家であればペンによって今、この核心を暴き、斬ることができるのか。否であろう。松本清張は「戦後」という日本の構造に潜む「黒い霧」「深層海流」の核心を小説作法で摘出しこれを告発し多くの階層から共感をえた小説家であった。清張がこれをなしえたのは彼の天才もあろうが、それだけではない。戦後あるいは昭和という時代には社会事象を白か黒かに区別する「原理」が明らかに存在していた。それを的確に機能させたことによる。その「原理」は徐々に形骸化し、1980年代終わりには消滅した。そして高村の透徹した現状認識は小説としてもその「原理」がすでに通用しないことに気づいていたのだ。
「年月を経た今、合田(刑事)は、権力のありのままの現状から目をそらすことによって得るものは何もないという考え方に変わってきていた。ここまで来るのは長い道のりだった」と初稿本で高村はみずからを語るのである。そして合田刑事をして「権力とは無縁のところで、日々社会の底辺でおこる惨めな犯罪を地道に防いでいくことが自分の務めだと思ったところで、その自分自身が警察官である限りは権力の一部であり、目に見えない情報網の一部であった」と醒めた職業意識をもたせている。改訂版では「原理」からさらに遠ざかり、合田が未解決の部分へさらに捜査の矛先を向けようとする意欲の表現にあたるラストシーンを削り取っている。これが現実なのだ。
そして、高村ミステリー最後の最高傑作、犯罪兼企業小説『レディ・ジョーカー』において、事件に巻き込まれた大企業の経営者たちの真剣な対応姿勢が実にリアルな筆致で描かれていることに驚かされた。
次の作品、非ミステリー大作『晴子情歌』では「原理」に懐旧の情を持つ女性主人公が昭和の姿を見つめている。
失われた10年で失ったものは資産価値だけではない。日本再生のためにも新たな原理が必要なのだが………。そしてまもなく『晴子情歌』の続編『新リア王』の連載が始まる。ここでは政治と宗教を描くらしい。求道者高村はあらゆる面で混迷をつづける現在の日本に光明をもたらす新しい「原理」を仏教にもとめるのであろうか。
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高村薫 「晴子情歌」
日本ミステリー史上、屈指の傑作「レディ・ジョーカー」を発表して後、創作活動がとまっていた高村薫の大河小説「晴子情歌」が刊行されて早速に買い求めた。
2002/07/20
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最近は政治評論家になったかと思われるばかりの言論活動が目について傍目でいらいらしていただけに期待は大きかった。にもかかわらず、いっこうに読み進めないのであった。「非ミステリー」であり、娯楽性がほとんどない、つまりとんでもなく退屈な作品である。しかし、新聞雑誌の書評を大いに賑わしている問題作であることに違いはなく、シャクトリムシの休み休みしながら歩むかのように一月がかりでようやく読み終えたばかりである。
暗いなぁ。重苦しいのである。昭和とはこんなにまで暗鬱なときだったのだろうか。
大正9年、本郷の左翼のたまり場になっていたインテリ家庭にうまれた文学少女晴子が14歳で青森の寒村に移り、北海道の鰊漁、男の汗と体臭と魚臭にまみれた「労働」の現場で初恋をする。
「マツさんたちの足音が何かたまらなく淫靡な気配になったり、夕刻に出会った千代子の強い色香が勝ち誇ったように甦ってきたり、いまも番屋で赤々とした頬をしておほらかに喉を鳴らしてゐるのだらう巌青年の、何と云ふのでせう、若い身體の発する波動のやうなものが私の出血する子宮に響いてくるやうな気がしたりで、濱の闇の全部が何かふつふつと沸いておりました」すごい感受性の14歳である。
政治に志をもやす主を頂点とする大家族・造り酒屋へ奉公に入った晴子はそこ子供たちの一人との間で昭和21年彰之を生む。昭和50年、50台の後半になった晴子が遠洋漁業の漁船員となった彰之に膨大な手紙を書き送る。そこには昭和という時代を歴史の中心地ではなく、辺境の地で送った女が、にもかかわらず歴史の変化と重さに直面し、心に繊細な襞を刻み込んでいく様子が克明に描かれている。それを読む息子は全共闘活動を斜に眺めていた世代にあたる。母と子の言葉と心の交流、二人の心象風景が微細にしかも色彩をつかわないモノトーンの明暗だけで描かれた心象風景なのだが、血の色と口紅だけが妖しい赤に彩られている。腐臭、血生臭さ、体臭、体液、さらにこれらが混濁したニオイが充満した文章でもある。作者が言うとおりそこには「言葉のエロス」がふんだんにあった。実に官能的な文章である。
面白いとは思わなかった。それでも読み終えたのには私なりの理由がある。昨年亡くなった私の父は大正5年生まれであり私は昭和19年生まれである。晴子・彰之の二人が語る昭和史の回想、彼らの思考と私に重なる部分があったからだ。特に6月は一周忌にあたり、父の一生をたどる作業をやったことも私のこの小説にたいする興味を一層深めた理由である。
「自分というもの、それに対峙する社会、その頭上に伸びていく理想や理念の階段のどれもが確固として若かった時代のことを晴子は語っており、半世紀後の自分の息子の世代にはもう、それの全部の形がなくなったことを晴子はついぞ知らない。」彰之が母の手紙の重さに戸惑っているところである。今の時代に「生きる原理」を喪失してしまった者の慟哭がここにある。
なるほど私のオヤジには「その原理・原則」は確固としてあったものと思われる。そして私あるいは現在の日本に根本原理があるとは思えないのも事実である。
しかし、この小説と高村薫の変身は感心しない。しょせん政治的人間にはなれないインテリゲンチャが現在日本の置かれた閉塞状況を深刻であると傍観している、ただそれだけにすぎないのではないのか。
この小説これで未完なのだそうだ。どうやら彰之は宗教に「生きる原理」を求めることになるらしい。続きを読むかどうか迷うところですね。
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