吉村昭 『長英逃亡』

新時代への大変革。ちょっとだけ時代に早すぎたアウトローの悲劇

2006/08/27


鎖国を続けていた徳川幕府が欧米先進資本主義列強に近代的な国交・交易を強いられる。幕府内部は文字通り右往左往し、その試行錯誤の変転する方針によって、多くの先見の漢たちが犠牲になった。彼らは閉塞の日本から世界に向けて視野を拡大しようとしていたのだ。権力中枢の混乱。蛮社の獄の発端の一つ、高野長英の「夢物語」が当時幕府中枢の一部にあった撃攘論に反するものであったにしろ、まもなく幕府は同趣旨の外交を実行するのである。

最初から最後まで蛮社の獄で永牢の判決を受けた蘭学者・高野長明の詳細な逃亡の記録である。この小説を読めば誰しも吉村昭氏がいかに膨大な史料を検証したかに驚嘆する。逃亡、6年4ヶ月である。陸奥、北陸、四国、中国、大坂、名古屋、相模と逃避行は全国的であった。その足跡を著者自身が実際にたどったことから生まれた実感に基づく迫真力にも感嘆するであろう。検証された事実を著者の想像力でおぎないしかも事実の重みを遺憾なく表現しきっている。先日他界された氏の誠実さ、生真面目さを代表する著書である。

放火した上での破獄だった。その罪は一族郎党にまで及ぶ。全国に張り巡らされた捜査網から逃げる逃げる。母に会いたい、妻子に会いたい。そして衰退の危機に瀕した国家を列強の植民地化から守るためには西洋軍事科学の導入だ。この熱い思いだけで彼は逃げ続ける。ちょっとだけ時代に早すぎた男だった。あと数ヶ月、牢獄生活を辛抱すれば蘭学を排斥する南町奉行・鳥居耀蔵は失脚したのだった。そして幕府は長英の蘭学・西洋科学にもとづく経世論を必要としたであろうに。この運命の皮肉がなんとも痛ましく、本人ばかりか読み手として最後まで口惜しさが残る。必要な人物だとしても火付け破牢と露骨に威信を失墜させたものを幕府は執拗に追う。遠山金四郎といえば正義の味方、庶民のためのヒーローであるが、この金さんが長英を捕らえるんですね。講談好きにとってはここもやりきれない。

彼をかくまったものも罪に問われる。実際何人かは死に至る。しかし、彼の逃亡を先導する人がいる。彼に隠れ家を提供する人がいる。彼の母を妻子を養うものがいる。彼を擁護するものたちは捕吏の追及におびえながらもなんとか長英の志をとげさせたいとの一念がある。この小説の読みどころはこれら人々の厚い情と連帯に心打たれるところだろう。淡々と事実を記述するだけである。にもかかわらず読者の感性を深くつくのだ。
助っ人グループのひとつは長崎でともに学んだシーボルト門下生たちである。
江戸、渡辺崋山らが結成した尚歯会のメンバーである。つまり志を共有した親友と言ってよいだろう。
さらに彼の知識を直接必要とした藩主がいた。当時海防の重要性にいち早く気づいて実践を始めた島津斉彬であり宇和島藩主伊達宗城である。
しかしこれら人物群とは異質の支援者が登場しストーリーを華やかにドラマチックにしている。長英は小伝馬町の牢で牢名主になっているんですね。このあたりの詳述も実に面白い。地獄に等しい牢内で牢名主としての彼の差配は囚人たちを信服させ感激させたのである。その中の南部藩の武士、冤罪で投獄された斉藤三平と仙台の大侠鈴木忠吾の子分・米吉がやがて長英の逃避行を計略的に支えることになる。

長英を含め彼らはすべて反権力の情念で燃えていたのだ。やがて幕藩体制は崩壊する。吉
村昭は愛着をもってこれらアウトローたちのエネルギーをつまびらかに描いた。

わが国のこの十数年間の激動、一言でいえばグローバル化の急進展は第二の開国あるいは第三の開国といわれている。私自身はこの流れにどちらかと言えば保守的にあって右往左往したのだが、この作品を読んでこの現代にもアウトローたちのエネルギーがあった、証取法違反の混乱を生じさせながらしかしこの流れのアクセル役になったのかもしれないと、いくぶんかは評価する気になったものだ。


吉村昭さんの死と長英の死、二つの死の容に思うこと

2006/08/29



7月31日に他界された吉村昭さんの死の直前の模様が報道された。点滴の管と静脈に埋め込まれたカテーテルポートを自ら引き抜いた覚悟の死だった。病床に伏したときから延命治療を拒否していた。病院から自宅に戻っていたのだそうだ。夫人の津村節子さんは
「家にいたからこそ、自分の死を決することができてよかったと思う」
と述懐しておられた。

法と秩序と先例に縛られた閉塞の病棟から脱出し自由な空間で自らの死を決したところが吉村さんらしい。
『長英逃亡』を読み終えてこの報道を目にしたのだが、実はそれで、なるほど吉村さんが描きたかった長英の悲劇性はそこまで深いところがあったのかと思い至ったのだ。

長英の生きた時代は長英たちにとって社会の枠組みそのものがいわば獄舎であった。その閉塞空間を破獄し彼は視野を海外に広げようとした人物であった。しかし彼の生存中はこの閉塞空間からは逃亡できなかったのだと思う。

長英は脱獄して直後の友人宅で請うて脇差を譲り受けている。捕らわれる危険性は高く、そうなれば死罪は免れない。脇差は他人を殺傷するのではなく、捕らわれる直前に自刃するためのものであった。自ら死を決するために逃避行中の彼は脇差を片時も傍から離さなかった。危機が迫れば反射的に柄に手をかけた。死を選択する。それは運命に翻弄され続けてきた男が最終的に選択する死の容こそ、逆に運命を自ら切り開く唯一の行為だったはずだ。
通説は「捕吏に捕らわれ咽喉を突いて自刃した」で定着している。

ところが著者はあとがきでも触れているがこの通説をとらずに急襲した捕り方の十手による殴殺死をもってこの小説を締めくくっている。
このシーンはたいへんに惨い描きぶりだ。
長英の顔と体に、同心たちの十手が荒々しく振り下ろされ、たちまち頭と顔から血がふきだした。それでも長英は悲痛な声をあげて逃げまどい、顔をおおった手も十手にくだかれ、血に染まった。かれは仰向きに倒れ、手を前にのばして十手をふせごうとしたが、眼はつぶされ、唇が裂けた。


吉村さんの報道に接し、自らの死の容を決することができた人だ、よかったとの夫人の感慨はよく理解できた。一方、あえて通説を変えて表現したこの長英のみじめな死の容はどうであろう。長英にはやろうとしていた自決ができなかった。時代の先を行き過ぎた人物の悲劇性にやりきれなさがさらに加えられ、私は胸のふさがれるのをこらえられなくなった。

吉村さんのご冥福をあらためてお祈り申し上げます。


伊藤たかみ 『八月の路上に捨てる』

最近の芥川賞は軽くなったと誰かが言っていた。
「軽い」との一言には重みがあるのかもしれないなと受けとめたのだが、前回の受賞作『沖で待つ』に私が好感をもったのとおなじで、この「軽い」受賞作にあるごく平凡な最近の風俗性や日常性のわかりやすさが、芥川賞にふさわしいかどうかは別として、楽しく読める作品となっている。

2006/09/07

芥川賞を受賞しなければ私にとって敬遠するテーマなのだが、受賞というだけで野次馬的に眼を通してみると、この30歳前後の男女の精神状況を深いところでついており、現代を生きる夫婦関係に共通してある不安定性が描けているなと実感したものだから面白く読むことができた。それはきっと私のきわめて個人的事情なのだろう。

主人公の敦・30歳は脚本家志望だがそれで生活はできない。食っていくために自販機に清涼飲料水を配送するアルバイトをしている。結婚生活4年になる。妻・知恵子は、雑誌編集者希望であったが大手出版社を落ち続け、転職を繰り返しながら、人間関係がうまくいかずに失職して所得はなくなった。鬱の症状がある。結婚という形の限界。この二人が別居し離婚するまでの微妙な心理の綾を敦の視線で描いている。彼が手伝いをしている配送のトラック運転手・水城さん、バツイチかバツニ、二人の子持ちである女性・32歳のたくましさを対照的に浮き彫りにし狂言回し役ながら精彩を放っている。

私には同じ年代の娘がいる。二年ほど前に職業の安定しないボーイフレンドとルームシェアリングなる共同生活を始めたときはあきれ返ったものだ。「君は娘より給料が少ないだろう。しあわせな家庭と言うものは経済的にある程度の安定が必要だよ」などと二人の関係には消極姿勢をみせながらしかし黙認するのが父親なのだろう。1週間前に今度は婚約したからと再び彼を家に連れてきた。「そうかそうかと」相好を崩して歓迎するのも父親である。
この生々しい、しかし別段ドラマ性のない実体験の直後にこの作品を読んだものだから、思いはただ事ではないのである。やはり家庭の永続性を保つには経済が大事だとこの本にも書いてあるではないか。もう一つ重要な秘訣も書いてある。それは我慢である。よくいう「結婚するまでは両目を開ける。結婚したら片目を閉じる」これだ。この二つがないから彼らは離婚するに至ったのだと結論付けるのである。いやいや芥川賞であるからそんな凡俗を言っているわけはないと思いながらも、うちの娘もこんなことにならなければいいがと現実が先にたつ。

親分肌の水城運転手は語る。夫婦関係のギクシャク、「それが価値観のずれってやつよ」思っていることをちゃんと説明すればわかってもらえるってもんじゃぁない「それが夫婦だとむずかしいのよ」女が理由をつけて説明したらヒステリーになる………と。
水城さんの言い分はどの夫婦間にもある普遍的真理ではないか。それでもくっついているのが夫婦ってもんだろう。とこれはわたしの言い分だ。

夢を追う二人がいてしかしその夢は現実でなくなったと気づく。
「自分たちは二十代も半ばを過ぎている。夢なんて大久保の排水溝に落っことした。新宿の路上で汗と一緒に流してしまった。それでもその先は、案外、まっとうな幸せがあるような気がしている」
さて「この私には夢があったか?」。そんなおおげさなものはあったはずはない。それでもまったく不幸だったわけではない。夢をもつことや夢の実現と幸せはかならずしも一体ではない。だから敦君はいいところに気がついていたのだ。

水城さんの語る詰め将棋の「けむりづめ」もなかなか教訓的である。
「自分の駒は煙みたいにぽんぽん消えていくんだよ。だけど上手く解いたら、最後の最後でちゃんと玉を追いつめられるってわけ。駒はほとんどなくしちゃうけど、勝つ」
「あたしがそっくりなの。いろんなものをなくしてなくしてそれでも最後は勝つかもって夢を見ながらやってんだもん」
本当は寂しい人間なのだが、心意気やよしとしよう。

団塊世代の二世ってこの歳じゃないかな。夢とか幸せといっても我々がイメージするそれとは似ても似つかぬものなのだ。それは娘の主張を聴いてわかっている。そして我々には30過ぎてまだ結婚しない子をもつ悩み多き仲間が多いのだ。だからその人たちにこの作品をおすすめしたい。そしてお子さんにこの本を見せて
「頼むからこんなことにはならないでくれよ」
と愚痴でもこぼしておいたほうがいいかもしれない。
効果は期待できないが。

宮部みゆき 『名もなき毒』

犬を連れ、散歩途中の老人がコンビニで買ったウーロン茶を飲んで悶絶死した。首都圏で発生していた無差別連続毒殺事件の4人目の犠牲者か。今田コンツェルンの社内報を編集する杉田三郎はこの犠牲者の孫娘である女子高生と知り合うことから事件に巻き込まれる。いっぽう杉田の職場ではアルバイトをしていた26歳の娘をミスが多発するためにクビにしたことから、彼女の執拗、病的なクレームに編集局一同が振り回されている。彼女の異常な嫌がらせはやがて禍々しさが加わり杉田の家庭にまで入り込んでくる。
杉田三郎は女子高生のお祖父ちゃんを殺害した犯人を追う探偵役であり、悪意の塊である女クレーマーの生い立ちにある秘密をたどりつつその悪意に襲われる犠牲者でもある。

2006/09/17

「著者3年ぶりの現代ミステリー、待望の刊行」とあった。3年前に刊行された現代ミステリーとは『誰か』のことである。『誰か』は期待はずれであった。それまでの宮部みゆきの持ち味がまるでなくなっていたからだ。
著者の代表作は『火車』『理由』『模倣犯』。いずれも傑作の現代ミステリー、クライムノヴェルだった。犯罪の背景にある社会構造を斬新な視点で捉え、そこからこれまでなかった犯罪者像をクローズアップさせた。それは新鮮で刺激的だった。ところがいつのまにか宮部みゆきの作品は現実を回避した、時代小説へ移っていった。そして人々の生活から社会性を捨象した「やさしさ一杯の感動、宮部ワールド」を表現していたのが最近の作品であった。『誰か』ですらそれであった。

『誰か』の杉本さんが登場するからこれもその延長かと思った。ところがどうしてこれは本来の宮部みゆきへの回帰が予感される、まさに現代ミステリーだった。

怨恨か金か名誉か保身か、昔から残酷な殺人事件はあったが、その殺意には周囲が腑におちる理由があった。ところが最近発生している殺人事件には動機が普通の人では皆目見当がつかないのだから、どうしようにもすべがないという不安がつきまとい、それだからひどく不気味である。
しかも、その犯人が周囲の人から「あのおとなしい人が」「あんないい子が」まさかといわれるようないっけん普通に見える人の場合も多いのだからますます困惑してしまう。

現代という社会はなるほど普通の人でも生き難い環境にあるのかもしれない。そう宮部はとらえている。
「現代社会では、<普通>であることはすなわち生きにくく、他を生かしにくいということだ………」
元警察官の北見が語るこの一言に宮部の視線はフォーカスしたようである。
さらにこの複雑で面倒な世の中に直面して戸惑う人間に「自己実現せよ」と押しつけるから怒りが爆発する。これはひとつのとらえかたであり、なるほどとも思う、現実を踏まえた見方だと思った。宮部らしさもある。
シックハウス症候群、住宅地の土壌汚染問題、あいまいな瑕疵担保責任の構成、老人介護問題、そして勝ち組、負け組みの存在をやむをえないとする格差社会。閉塞状態にある人々のぶつけようのない怒りのエネルギー。まさに生きにくい現代を素材にしている。
とはいえ、新たな犯罪者像は曖昧模糊として理解不能なのだ。作家がその想像力にまかせて新概念で説明できるしろものではないようだ。宮部もそこは書き込んでいない。わからないままに放りっぱなしにすることがこの小説のリアル感を担保している。
ただし、読んでいてこれだけシリアスなテーマにもかかわらず全体のトーンに緊張感が欠如している。このギャップに最後までもどかしさをぬぐいきれなかった。それは大金持ちの娘と結婚して贅沢で円満な家庭生活に安住している杉田三郎を狂言回しとしているからなのだが、この設定の意図が私には理解できない。
「今田コンツェルン」、杉田さんの義父が会長をつとめる財閥企業の名称なのだが、いまどき○○コンツェルンなどと恥ずかしい名前をつけるオーナーはいません。宮部の頭の中は多角的企業、あるいは財閥の代名詞は固有名詞としては今使わなくなった「コンツェルン」なのだろうか。