旅の思い出 T−−−何処かに出かけて出会ったことを気ままに書き記します。
                         2003/7/19現在 100〜1話

100.プリンスホテルでお茶しましょ 1987年10月31日
 今までプリンスホテルには、泊まったりティータイムを過ごしたりしていました。これまで軽井沢・京都宝ヶ池・大津・日光・彦根などでコーヒーを飲みに行っていました。あくまで目的はティータイムなのです。この日の行程は関越道を月夜野インターで降り、三国トンネルを抜けて新潟県へと進みました。この付近でのプリンスグループは苗場にあります。早速ホテルのロビーにお茶をしたい旨を話してラウンジへ腰を下ろしました。目の前はスキー場が有るのですが当然雪などは全く有りません。しかもお客さんがほとんどいないのです。この時期はたとえ休日ではあっても訪れる人は疎らなのです。翌日からはオフシーズンのための休館と張り紙が出ていました。避暑でもスキーでもない人はこの地にはほとんど来ないのです。人の居ない館内を抜けてさっさと帰り道に就きました。
                                                        2003/1/12

99.昇仙峡 1987年10月2日〜3日
 山梨県の甲府市は仕事では何度も行っていましたが遊びで行くことはあまりありませんでした。市内の名所は湯村温泉と武田神社、それと昇仙峡です。温泉はあまり好きではないのでそれ以外の場所へと行くこととなりました。武田神社は戦国の武将である武田信玄を祀った社で市の北部に位置しています。特に大きな神社とか言うことではないのですが、何となく地域の領民には慕われた人の信仰を集めているようです。参拝の後は昇仙峡へと向かいました。昇仙峡はさらに北上をして山岳部に掛かります。山道にはいると馬車の観光なども出来るのです。奇岩の岩場があり、甲府の中心部からもさほど離れていない場所にこれ程の自然景観が有る場所はあまり見かけません。宿泊もこの昇仙峡の土産物屋兼民宿みたいなところでした。
                                                        2003/1/12

98.金沢経由京都行き 1987年5月30日〜6月1日
 東京から2人と名古屋で1人の旅が始まりました。まず名古屋まで夜行のドライブをして千種付近での待ち合わせです。何故こんな場所かと言えば、その人は休日なのに仕事をしているので、仕方なくその仕事の現場まで迎えに行きました。ここから京都には直接向かいません。名古屋で合流した人は、今度は金沢での仕事が控えていたからです。どういう訳か金沢のその仕事の現場までも一緒にコースとしていたのです。金沢では仕事のない2人で市内観光に出向きました。卯辰山・兼六園などを見て犀川の畔の旅館にもぐり込みました。この宿は常連さんが多いそうで知る人ぞ知る隠れ家となるような感じです。実際はただ安いだけの木賃宿なのですが・・・。翌日にはいよいよ京都へと進路を定めました。健康保険組合の保養所があり、予約をしてあります。この保養所は二度目でなかなか風情のある人気度の高いところです。嵐山の麓で渡月橋や天竜寺なども間近となる場所です。寺巡りもそこそこに室内に入り疲れを癒すために一風呂となりました。その後は食事をして部屋に戻っての宴会が始まりました。何しろ場所は何処でもいいのです。ただ、宴会の出来るスペースが有れば。
 帰り道では途中の滋賀県で1人を降ろして東京へと帰路に就きました。またまたお疲れコースの一幕でした。
                                                        2003/1/8

97.富士山の麓 1987年5月2日〜3日
 3人で山中湖の近くの忍野村まで出かけました。ここには、その中の1人の身内に裕福な方がいて別荘を所有しています。うまい話にはすぐに飛びついて中央高速をカッ飛ばしました。別荘に着いてみるとさすがに富士山の大きさが違います。目の前にドーンと構えていて日本一の高さを目の当たりにしてしまいます。この辺りには洞窟や樹海などがあり神秘的な側面も兼ね備えていました。さらに富士五湖の湖も色とりどりで次から次へと行ってみたいところが現れてきます。小高い展望所からの風景も素晴らしく、山中湖でのボート漕ぎなどにもはしゃいでいました。普段は富士山というと遠くからしか見ていなかったので、これ程の山の威容を感じたことはありません。
                                                        2003/1/6

96.森林公園 1987年4月4日
 武蔵丘陵森林公園は東松山市の近くで広大な公園となっています。入り口近くには広い花壇があり様々な季節の花が咲いています。その近くには桜の木が花びらを一杯付けて淡い彩りを付けていました。そんな春うららかな日にカメラ片手に一周のサイクリングと決め込みました。外周道路の専用道は花や小鳥の間を抜けるようにしてペタルを漕ぎます。ちょっとした坂道でもまだまだ足は軽やかに廻しています。長閑さが何ものにも代え難い一日となりました。
                                                        2002/12/31

95.弁天島温泉 1987年1月2日〜3日
 正月旅行は憧れてしたがそう容易く出きるものではありません。一つは料金が割高となり負担が増えます。もう一つは予約がなかなか取れません。そんなことで高嶺の花と感じていました。この時は家族全員で浜松近くの弁天島まで行きました。観光は浜名湖・新居の関所などです。泊まった宿は丸文といい島の中で北には新幹線や東海道線の線路が走り、南には鳥居や浜名大橋が眺望できます。最上階のジャングル風呂で温まり広い部屋でゆっくりくつろぐことになりました。こんな快適な旅行は簡単には手に入れることは出来ないと満足感に浸っていました。正月の休日をのんびりしていられることはこの上ない幸福感が全身を包みます。ただ、その後のUターンラッシュに巻き込まれた事を除けば・・・
                                                        2002/12/26

94.特急ひたち号 1986年12月28日
 甥や姪を連れて柏駅から土浦・水戸と途中下車しながら高萩まで鈍行を乗り継いで行きました。何度も仕事などで乗っている路線ですが、子供達にとってはちょっとした小旅行と感じています。車窓から見える景色も新鮮に捉えられていたことでしょう。高萩の駅前ではスーパーがあり人通りも多く上り電車の待ち時間も苦にはなりません。
 ここで始発のひたち号の改札が始まりました。早めに乗車口に行けば自由席の中でも一番良い席を確保できます。皆で早足となり真っ先に車両の中へと乗り込んでいきました。発車ベルが鳴り止み出発しました。さすがにスピードはグングン上がり往路とは比べものにもなりません。途中の水戸駅で駅弁を買い込み皆で夕飯となりました。子供達は車内での揺れの大きさから上手に食べられないので、座席をテーブルにして床に座っての食事です。こんな光景も我ながらほのぼのとしているとしみじみ感じました。
                                                       2002/12/26

93.岐阜から浜松へ 1986年10月17日〜19日
 2月のコースとは逆ですが、この時は岐阜で全社員が集まるという記念行事の時でした。宿泊と式典は岐阜グランドホテルで行われて二次会三次会は仲の良い人たちでそれぞれの一時を過ごしていました。
 我々のグループは次の日に浜松にいる友人を訪ねるために車を走らせました。本来の4人から1人増えて5人で乗用車に乗り込みました。浜松西インターで高速を降りて夕方近くに市内の駐車所に止めることとなりました。その晩も6人での宴会の始まりです。浜松での飲み歩きは前回と同様のコースを再び辿っていました。二晩続けての飲み疲れから家路に就く頃からグーグーと寝息以上のバックグランドミュージックを聴きながらハンドルをしっかり握りしめて東京へ向かいました。
                                                       2002/12/26

92.野尻湖 1986年9月20日〜21日
 この時分は仕事で残業が続き、しかも土曜日には毎週出勤して仕事をこなさなければなりませんでした。幾ら仕事をしても片づかないほどの目の回る程の大パニック状態だったのです。夏休みもなかなか取れません。もうすぐ休暇の取得が期限切れとなってしまう寸前に出かけたのが、毎度のおなじみコースとなった長野の山荘です。
 この時は東京から4人で向かい別部隊の2人と合わせて6人が長野駅で合流しました。さらに岐阜から2人の全員で8人の大所帯の高原散策の旅行となりました。山荘では話しが盛り上がり、戸隠連山の麓などへも笑い声と共に、大騒ぎのツアーでした。足を延ばして野尻湖へと向かいました。何度も山荘へは行っていたのですが戸隠経由で向かったのは初めてでした。途中の山道はくねくねと道が続いていて車に弱い人には辛い道路でしょう。
 湖ではボートが沢山出ています。我々もその仲間へと加わりました。中程に島があり参拝するための社が設けてあります。広さは大したことは無いのですが、さすがに手漕ぎのボートでは全部を制覇することは出来ません。
                                                       2002/12/24

91.野口英世と野口雨情 1986年5月3日〜4日
 ゴールデンウィークは行楽には一番最適な季節となります。毎年何処かへは出かけて紅葉や新緑などを満喫してきました。この年は福島県から茨城県を巡っての旅となりました。まず、福島県の猪苗代湖付近へとハンドルを切り湖畔近くの野口英世記念館へと進めていました。途中の道路も大渋滞だったのですが、この駐車場も広いものの止めることがやっとという状態でした。館内は英世の生家が残っています。建物自体はもろいものなので鉄骨のドームで覆っています。敷地にも建物の中でも大勢の観光客がつぶさに見学していて当時の業績と苦労を共感していました。そこを出てからは、なお渋滞の道路を郡山まで運転して宿探しとなりました。宿泊を考えていなかったのですが、これだけの渋滞では一巡りは出来なくなり、町中のサンルートホテルに泊まることが出来ました。
 翌日は木彫りの駒で有名な三春から阿武隈洞へと向かって国道を東へ進路をとったのです。阿武隈洞は比較的新しく発見されてまだ全容が明らかになっていないほど巨大な洞窟です。ここでの駐車場もやはり車の列が続いています。数時間してやっと車を止めて洞窟の中に入りました。コースを歩くだけでも時間の掛かるものですが表に出てきてその巨大さが実感できたものです。この後のコースは北茨城の野口雨情記念館に立ち寄りました。「赤い靴」「雨降りお月産さん」などの名曲の作詞を手がけている詩人で、誰でも口ずさめるほのぼのとした所です。
 たまたま野口さんの関連になったコース取りとなったことが、いい連休の旅となりました。
                                                       2002/12/23

90.浜松から岐阜へ 1986年2月8日〜10日
 会社を辞めた友人が浜松へと越していってしまいました。その友人と再会するために東京から2人と岐阜から1人の合計4人での合流を浜松にしました。この数年で何かと縁のある町となっています。宿泊は駅前のサゴーホテルです。早速駅で待ち合わせての再会は数年ぶりです。たとえ何年ぶりであっても以前のような会話がどんどん飛び出しています。まずは居酒屋で乾杯をしてアルコールの廻りを進めて二次会へと繋ぎます。二次会は友人のなじみのスナックです。ここはカラオケの設備がありテレビも二台設置されています。どちらを向いても歌えるのです。喉の自慢も深夜まで及び酩酊しながらベットへと潜り込みました。さて、次の日は岐阜から来ている先輩を送るために車を高速道路へと向かいました。本来ならば浜松西が近いのですが、浜名湖の景色を眺めつつ豊川まで国道で走ってしまいました。一宮インターで高速を降りていつもの岐阜市内へと向かいました。連日の宴会はここでも始まっています。岐阜の町もどうにか慣れてきました。この日はその方のアパートでの宿泊となりまし。酒飲みの旅行は何処へ行こうと酒さえあれば良いのです。
                                                       2002/12/16

89.筑波山に初詣 1986年1月1日
 毎年元旦は何処かに初詣と習慣になってしまいました。この年の初詣は筑波山神社に家族で行っています。遅い朝食を食べてから出発です。途中の高速や国道は渋滞がなく向かうことが出来ましたが、登山道に入る頃から車の流れはゴーストップを繰り返すようになりました。神社の駐車場に着く頃は辺りはすっかり日が暮れてしまいました。一年の無事を祈りつつ参拝を済ませてから夕飯を一同で摂ることとなります。道路沿いのファミリーレストランへは何度も入っているので満腹になるのもたやすい事です。
                                                       2002/12/15

88.大阪まで同僚を訪ねて 1985年11月22日〜24日
 仙台への夜行ドライブの経験に気をよくして、今度も同僚と西に向かいました。目的地は滋賀県と大阪府です。明け方の頃には養老サービスエリアに到着しました。朝食を食べて知り合いのお宅へ電話をして突然の訪問となっています。米原近くの醒ヶ井駅で待ち合わせとしました。喫茶店で話しをしていたら突然家に来ないかと言うこととなりお宅へと伺ってしまいました。家族の人たちには歓迎してもらい話しは盛り上がる一方です。
 ここでいとまを告げて大阪へと行かねばなりません。しかしその知り合いの人とも別れがたくなってしまい、一緒に大阪に進路をとることとなりました。大阪では会社の同僚が待っています。数年ぶりの再会で旧交を温めて語り合いました。大阪城・お好み焼きなどで時は過ぎその日が暮れようとしていました。さて、宿泊が問題となっています。電話でホテルにアポイントを取るにも何処も満室となっています。仕方なくこのまま帰路に就くしかありません。またしても夜行のドライブです。二晩続けての夜行運転となりました。帰りの高速はサービスエリア・パーキングエリアのほとんどに、休憩を取りながらの時間を掛けた帰宅となりました。あ〜疲れた・・・
                                                       2002/12/13

87.白樺湖に社員旅行 1985年10月4日〜5日
 毎年のように行っている社員旅行の目的地は長野県の諏訪湖から白樺湖へと向かうコースです。諏訪インターでバスは高速から一般道へと降りてまずは昼食です。ドライブインとして峠の釜飯で有名な「おぎのや」がこの時の店でした。満腹の乗客を乗せてバスは山道へと登っています。宿泊地の白樺湖は小さいながらも高原リゾートの雰囲気は充分です。夕飯までの一時をレンタサイクルに乗って2人乗りを楽しみました。何台かの自転車が追いつ追われつで競争したり、のんびり秋桜の咲いている路端で休んだりと何とも言えない秋の一時です。夜の宴会も終わりスナックコーナーで休んでいたときに地震を感じました。大した揺れではなかったのですが、関東地方のしかも自宅付近が震源地と知ったときは一気に酔いが醒めてしまったことも変に思い出として残っています。
                                                       2002/12/13

86.仙台に夜行で 1985年8月24日〜25日
 会社帰りにスナックに寄ってグラスを傾けながら同僚と仙台行きの話しに花を咲かせていました。すぐに実行に移すのが信条なので2日後には北へと進路をとっていました。真夜中に高速道路を走っていると明け方には眠気を催します。早朝の時点で目的地に到着しました。そこには会社の先輩と待ち合わせて蔵王へと案内をしてもらい、雄大な高原を満喫しました。初めてのお釜と呼ばれる噴火口を眺めて自然の驚異までも堪能する事が出来て良かったと思いました。夜のコースは繁華街に繰り出して酔っ払いに変身しました。毎度の行動は、自分ながらもささやかな楽しみとして満足です。
                                                       2002/12/13

85.エキスポセンター 1985年8月10日
 科学万博の第二会場となっていた学園都市の中心地に友人と行き並んで待っていました。服装はラフな格好でしかも履いているものはサンダルという出で立ちです。そんなときに誰かが呼ぶではありませんか。なんと会社の同僚が偶然行列の後方に家族で並んでいました。改めて自らの身なりが急に惨めに感じたものでした。この施設にはプラネタリウムがあり満天の星空を眺めながら楽しむことが出来ます。
                                                      2002/12/13

84.岐阜へ 1985年7月20日〜21日
 前年に転勤で岐阜に移り住んだ同僚を訪ねて岐阜市に行って来ました。こちらは2人で東名を走り初めての市内見物です。それまでは電車で途中下車をして駅前だけしか見ていません。長良川を渡り町の中心部からは外れていましたが地方色が出ていて落ち着いた町との印象を持ちました。その日は同僚のアパートに泊めてもらい近くの銭湯にも出かけて汗を流しました。今から思うと長閑なものだとしみじみ感じます。
                                                      2002/12/13

83.科学万博 1985年5月11日・6月7日・15日・22日・30日・8月7日・14日・9月1日・15日
 茨城県のつくばで万国博覧会が開催されました。3月から半年間の開催期間で前評判は何度も伝わってきました。行ってみたいと思ってもなかなか行けずに機会をうかがっていました。とうとうその時は訪れて5月11日に車を高速に乗せて会場へと走らせました。最初は東駐車場に止めて畦道を歩いて会場入りとなりました。そこは別世界のスペースです。見るもの聞くものが珍しく何処をどう歩けばいいのか分かりません。時間の経つのもアッと言うまで足りないところは次のお楽しみとしてきました。その後人を変えルートを変えての訪問を繰り返しほとんどのパビリオンに入場する事が出来ました。最初のうちは比較的空いていたのですが、夏場になると混雑が激しくなり開門を待つ身は辛さが増していました。特殊めがねを掛けてのショー見物などもいくつかのパビリオンで行われていて独創的な雰囲気が会場を包んでいました。閉会が近づくと、この会場にいることが日常になりつつあったので別れを惜しむ人たちで何時までも家路に就く気持ちになれません。結局全部で9回も行ったのですが、最終日の9月16日は家でのラストデイの模様をラジオキラットで堪能していました。
                                                      2002/12/13

82.相模湖 1985年5月18日
 会社の仲間達と相模湖ピクニックランドに行きました。もちろん運転手の大役は独り占めです。名前の通りピクニック気分で園内を巡ることとなりました。広い芝生の場所では思わず走り回ったりキャッチボールを始めたりと大いに羽を伸ばすことが出来ました。ランチタイムも芝生の上で話しも弾みます。
 帰り道には相模湖の畔で記念撮影も忘れませんでした。ハイ、ポーズ・・・・
                                                      2002/12/10

81.酒田・秋田・田沢湖 1985年5月3日〜5日
 新潟を経由して酒田へは、会社の同僚との旅でした。まずは同僚の住んでいる埼玉県志木市に寄ってから出発となりました。関越道を月夜野インターまで飛ばし、国道17号で湯沢へと経由して、さらに再び関越道で新潟黒埼まで。ここからは高速道路はありません。7号線をただ北上するのみです。新発田・村上・温海・鶴岡と順調に車は走っています。酒田には夕方近くに到着しました。泊まったホテルの眼前には有名な山居倉庫が並んでいます。この観光スポットは翌日の見学となります。
 2日目はまた一路北上を続けていました。鳥海山の有料道路を使い山頂近くまで登ってから、秋田の男鹿半島まで足を延ばします。寒風山からの眺めは広い空と済んだ空気が体中を包んでいます。高清水を飲み交わしながら秋田名物のわっぱ飯を頬張りながらこの夜は更けていきました。
 3日目の行程は土手の桜並木の花びらが散りだした角館を通り、田沢湖へと向かったのです。田沢湖は一周してもあまり時間が掛からない程の小さな湖です。途中にはたつ子姫の像があり、ここでの記念撮影は定番となります。そこからは小岩井を通って盛岡からの帰り道でした。
                                                      2002/12/9

80.伊豆大島一周 1985年1月18日〜20日
 今回も健康保険組合の協定保養所巡りの一環です。この時は、竹芝桟橋からの夜行の船旅です。大島は伊豆七島の中では一番本土に近いのですが、夜行便が出ています。睡眠もそこそこにデッキに出てみると岡田港の沖合に止まっているのです。余りにも近すぎるため時間稼ぎをしていました。ようやく午前5時に桟橋に横付けとなり下船の準備です。まだ、外は真っ暗で寒さが身に染みます。レンタカーを借りての島巡りは一周50キロの短いものとなりました。途中は波浮の港を眺めたり、島の反対側の荒涼とした景色もありました。さらには動物園での一時もくつろぐ事が出来ました。最後に三原山に登り一通りの観光は済みました。しかし、この日は泊まります。半日で全てを見て回ったけどその後の時間つぶしがなかなかうまくいきません。早めに保養所に入りテレビを見たりしていただけでした。他の宿泊客は一組しかありませんでした。たった二組のお客さんで経営が成り立つのかと心配までしていまう始末です。この保養所は三原山の大噴火により現在では跡形もないそうです。もちろん三原山の噴火口も当時と現在では違うようです。
 帰りの熱海行きの船に乗って振り返ってみたときに、小さな島ですがいい思い出がじわじわと湧いてきました。
                                                      2002/12/8

79.横浜港氷川丸 1984年11月23日
 横浜の港の近くに車を止めて氷川丸を見学です。何度も横浜には行っていますが停泊しているこの船には一度も乗船していなかったのです。船内を見て廻ると、船長室や機関室などを巡っていました。この氷川丸は既に航海する事はないようですが、船旅をしているような錯覚を憶えます。
                                                      2002/12/8

78.猿ヶ京温泉 1984年10月5日〜6日
 この年の社員旅行は群馬県の新治村にある猿ヶ京温泉です。宿に着くなり目の前の赤谷湖に降りてみました。この湖はダム湖で渇水していたのか湖面が遥か下の方にあります。道路そばの岸壁から階段が続いていて降りて湖面まで歩いていけます。しかも水はかなり前方まで行かないと見ることが出来ません。こんな猿ヶ京は宿の中での思い出は微かにしか覚えていません。温泉よりも何故か赤谷湖の思い出が強かったようです。
                                                      2002/12/8

77.房総半島一周 1984年8月26日
 千葉県に住んでいても房総半島を一周することはなかなかありません。この日は午前中から出かけて千葉〜木更津〜鴨川〜勝浦〜九十九里〜成田というコースでした。高速道路は無く国道をひたすら海岸線に沿って走りました。館山を過ぎた頃から海岸の波打ち際が所々見えてきます。トンネルもあるのですが、道路幅が狭くてすれ違いにはヒャーッとしてしまいます。大原を過ぎれば今度は九十九里浜のそばを走ります。この海岸は何処までも砂浜が続いているようで快適そのものです。成田は空港が出来たので道路も滑走路を避けるようにして迂回しています。飛び立つ機体が大きく見えてきます。この一周は以前から実行してみたかったものをやっと達成しました。
                                                      2002/12/8

76.ディズニーランド 1984年8月4日
 日本にディズニーランドが開園しました。名前は東京と付いても所在地は千葉県の浦安市にあります。その、ディズニーランドは開園から連日満員で長蛇の列でアトラクションを待つとのことで辛抱との闘いです。この日は甥や姪を連れて早朝から乗り込みました。駐車場の広さから驚きの始まりです。乗り物はどれに乗ってもディズニーのキャラクターが一杯です。ローラーコースターやロープウェイなども感心してしまいました。食事の時間も夢の世界に置かれていて何をどう食べていたのかも覚えていない程で目に焼き付けていただけで食べていたようです。
 一日中の楽しい世界からのお別れです。ミッキーマウスの風船を手にしながら駐車場へと車探しになります。多くの人はここで何処に自分の車が止まっていたのか解らなくなるようです。くれぐれも止めた場所は記憶に留めましょう。
                                                      2002/12/8

75.マイカーで伊勢志摩へ 1984年7月22日〜24日
 近所の友人と2人で伊勢志摩に旅立ちとなりました。以前のような列車ではなく愛車のカペラを使うこととなりました。夜明け前に家を出て浜松で高速を降りました。ここからは伊良湖まで一般道の道のりです。浜名湖を眺めながらのドライブは快適で渋滞も有りません。早くも昼前には岬のフェリーターミナルに着きました。この岬から鳥羽までは伊勢湾を横断するバイパス航路なのです。途中には三島由紀夫の「潮騒」で有名な神島が見えてきます。やがて鳥羽の港で上陸していよいよ伊勢路です。宿は松阪のビジネスホテルに連泊となり、夕飯はもちろん名物の松阪牛を食べに行きました。味覚音痴なのに美味しいと唸ったりして満足感を述べたりしていました。安物食いの銭失いになっていたのでしょうか。翌日は志摩半島の突端までも走り抜けたりして思い出の多い旅となっていました。
 帰りの行程は津〜四日市〜名古屋〜諏訪湖〜甲府〜東京を経由してのロングドライブをしてきました。この道のりはそれまでの最長となるほどの長さとなりました。この頃から車での長距離ドライブが多くなってきました。
                                                      2002/12/4

74.軽井沢の「すずかり」 1984年6月1日〜2日
 健康保険組合の保養所巡りをしていました。この時まで箱根・日光・伊東・京都へと宿泊をしました。人数も以前は7〜8人だったものが1人減り2人減りでやがては3人までになってきました。でも泊まりに行くことを目的としているので中止にしたりはしません。今回は軽井沢にある「すずかり」という保養所です。この日の行程は東京から須玉インターまで中央高速道路で、そこから国道で清里・松原湖を経て軽井沢入りです。この施設は以外に古い建物なので少々ガッカリ。でも他にはないベットでのロッジ風の作りなのです。隣にはプリンスホテルのゴルフ場が広大に広がっていて、見晴らしは抜群です。3人では宴会も盛り上がらないけど、気兼ねない雑談が何時までも出きることは大変有意義な時間となりました。現在ではこの施設は建て直されて一番の人気保養所となりました。
                                                      2002/12/4

73.東武動物公園 1984年3月29日
 東武鉄道が動物園事業に乗り出しました。杉戸駅が東武動物公園と改称されてしまいました。しかも園長は上野動物園で園長を歴任されていたカバ園長を起用しました。それほど力を入れていたのでしょう。この日は春日部からの道順でドライブです。駐車場も広々としています。動物は決して豊富とは言えないけど、遊園地の施設は程々にありました。園内を散策しながら歩いても広いので全部は見られないのが残念でした。この時以来この動物園には行っていません。また、機会を見て行こうっと!
                                                      2002/12/4

72.幼いとき2
 小学校に通っている頃は下校時の寄り道が楽しみでした。特に線路の近くで列車を見ていたものです。午後の鉄道は本数も少なく踏み切りで貨物列車の長大編成なども通過することも多くて、いつも貨物の車両を数えていました。当時は50両編成などは当たり前で果たして何メートルの繋がりだったのでしょう。ある時は貨物列車の付け替えのための入れ替え作業を延々と眺めていました。その作業中は踏切が閉まりっぱなしとなっています。車や横断する人たちは長いこと待たされていました。誰も文句はありません。そんな時代だったのです。入れ替え作業は機関車の惰性で貨物車両が別の車両と連結させるのですが、スピードが出過ぎていては脱線などの事故の原因となるので、連結直前に作業員の足でブレーキを掛けるのです。その巧みな技術は見ていても感心してしまいます。いまはなかなか見られない光景です。
                                                      2002/12/2

71.日光へ 1983年11月6日
 日光へは日帰りで充分ですが、またデートスポットにも最適です。1人で行くより2人の方が良いに決まっています。この時も中禅寺湖や竜頭の滝などを見て甘いムードに浸りました。
 高速道路は岩槻から宇都宮まででそこからは有料道路で日光までです。この有料道路は、高速と同じよにスピードが出せて実に快適な道です。以外に早く日光市内へと到着することが出来ます。しかもその道がいろは坂などへ直接繋がっているのも強みです。このコースはその後の日光へと向かう定番となりました。
                                                      2002/11/29

70.舘山寺温泉 1983年9月9日〜10日
 社員旅行は毎年10月なのですが、この年は一ヶ月早く開催されました。場所は静岡県の浜名湖北部の舘山寺温泉です。途中日本平や東照宮などを見物していよいよ旅館へと着きました。その晩も毎回の恒例の大宴会で見事な締めくくりです。団体旅行の楽しみは大勢で繁華街へと繰り出す冒険です。町の喧噪をしっかり掴んで大いびきをかいて皆は夢の中へと旅立ちました。距離的にも以前より遠いので、帰りのバスも早めに出発します。東京へ向かう道路は毎回の渋滞で帰ることが出来ました。
                                                      2002/11/29

69.夏の山荘 1983年8月12日〜13日
 夏期休暇にまたまた長野山荘へと出かけました。今回で3回目です。今回のコースは軽井沢に寄ってテニスをしてから山荘へと向かったのです。山荘では前回の教訓から料理を作らずに下界に降りてからの食事を心がけていました。朝食は近くの名物戸隠そばです。神社や野尻湖などを見ての楽しいバカンスでした。帰り道はいつもと違う松本周りです。松本城を見学して諏訪に向かいました。途中の塩尻峠での渋滞は運転に疲労感が増大します。夜の中央道も初めての経験で恐怖感が有ったことをよく覚えています。
                                                      2002/12/1

68.カペラ購入 1983年6月15日
 仕事の関係でマイカーを購入することとなりました。以前からマツダの車を乗り継いでいたので自然とマツダ車も候補となりました。しかし金額と車格を何度も検討して結局マツダ地獄へと導かれていました。でも、この時は一番良い車だと感じていました。選んだ車はカペラで、前年にはカーオブザイヤーを受賞しており格好も燃費もよかったのです。早速納車されてのガソリンを給油するためのテスト走行でも快適そのものです。やっぱり新車は良いなー。この車は白で室内も広くゆったりしていました。もちろん仕事上にも大いに役に立つかと思われていました。しかし、7ケ月後には車を仕事に使うことから離れてしまいその後のレジャーオンリーへと変貌していったのです。その7ケ月の間18000キロもはしり、新潟県までも走破しました。結局6年近くの期間に92000キロを走りました。ありがとう・・・
                                                      2002/11/29

67.上野動物園 1982年10月26日・1983年3月19日
 この頃は甥や姪を連れて動物園によく行っていました。上野動物園は入場料も安く一日楽しめるのが最高です。パンダ人気も一段落して何処もゆっくり歩くことが出来ました。短いモノレールを乗ったり、直に動物たちに触れあえたりと料金以上に得した気分です。昼食は虎のオリの前だったりしていました。帰りの電車では、ぐっすり眠りに就けるほど疲れ果てていたのでしょう。
                                                      2002/11/29

66.東北新幹線  1982年8月21日〜22日
 東北新幹線にはこの時が初めての体験となりました。まだ、東京まで繋がっていないので上野駅からリレー号に乗り大宮で始発列車を待ちました。この日も夏休みの余波で混雑しているホームには溢れるほどの旅行者が並んでいました。新型の車両に乗り込み揺れない新幹線という謳い文句を実感したものでした。車内でタバコを立てても倒れない事が証明されました。仙台までの乗車は瞬く間に過ぎ去って、その日の宿は駅の案内所に委ねました。そこで紹介された旅館は冷房無し蚊の餌食となる最悪のパターンとなりましたが雨露を凌げれば良いのでしょう。次の日のレンタカーによる松島観光と帰りの新幹線も難なく楽しめました。
                                                      2002/11/29

65.友人の車で北陸へ 1982年8月8日〜12日
 友人の車はスプリンターです。まだ新車の面影も残っていた頃に二人でその車に乗って北陸へと旅立ちました。早朝に家を出て大宮〜高崎〜軽井沢〜長野〜上越〜黒部と走り続けました。運転は一応交代でとなっていますが、やはり持ち主の運転が一番安心でしょう。夕方近くにようやく富山に到着しました。ここまではまだ高速道路は完成していないので全部国道だけでした。走破した道のりは450キロにもなります。この日はビジネスホテルでぐっすり眠りに就きました。
 2日目はいよいよ能登半島へと進んでいきます。半島の形通りの道を走って先端部まで進んでいます。付近の見附島はまるで軍艦のような形をしています。峠を越えて輪島でこの日の運転は終了です。輪島では友人が是非とも民宿で泊まりたいというので妥協しました。駅前で案内された民宿はとても混雑していたため相部屋となってしまいました。でも、友人はこれが旅の醍醐味とばかりにはしゃいでいました。この日の夕方に朝市と並ぶ輪島の夕市に出かけて、この町の雰囲気を味わいました。
 次の日は金沢までのドライブです。途中の能登金剛などを見物したり狭い道をくねくねしていました。そして着いた金沢は片町ビレッジというホテルです。町中にあるので駐車場は料金が掛かります。一泊で1500円も支払う羽目となりました。
 4日目は福井までの行程で東尋坊や永平寺などを見て市内のビジネスホテルに到着です。翌日の最終日には家まで一気に車を走らせなければならないので早めの就寝となりました。何とか無事5日間のドライブ旅行が出来て楽しかったのです。流石に福井からは高速道路が完備していたので、スピード感をもって帰宅できました。
                                                      2002/11/29

64.野菜炒めの思い出 1982年5月2日〜4日
 長野山荘に行こうと決めたのは、この一ヶ月程前の飲み会での盛り上がった会話からでした。人数は当初の6人から半分の3人となってしまいましたが、出かけるしかありません。山荘では炊事は泊まる人が自前でするのです。到着前にスーパーで食材の調達です。何を作るかは迷う必要はありません。野菜炒めが一番面倒でなく手軽なものです。肉1キロ、ネギ一束、キャベツ半分、その他いくつかの野菜を買い込みました。何しろ3人で食事するのだし、皆若くて大食いのはずです。早速やや小さめのフライパンに油を敷き肉から炒め始めました。続いて刻んだ野菜を次から次へと放り込みました。ところがここで気が付きました。フライパンに入れた食材が返せないほど入ってしまったのです。半焼きの食材を取り出して何度かに分けて炒めることとなりました。さて食事が始まってみるとこれが考えていたことと違ってしまいました。多すぎたのです。食べきることが出来ません。結局半分以上は食べきれずに捨てる羽目に陥ってしまいました。こんなはずではなかったのにと思いつつ、次の日の夕飯は堂々と外食になります。あ〜勿体ないことをしてしまいました。
                                                      2002/11/26

63.防府・広島へ 1982年2月26日〜28日
 会社の同僚の結婚式で防府まで出かけました。東京からは3人で新幹線で出発です。当時出始めたウォークマンのカセットステレオで退屈を紛らすつもりが3人での取り合いとなっていたのでした。ヘッドホンからのシャカシャカ音はかえって新鮮さを与えていました。防府には夕方に着いて新郎の出迎えを受けました。「こんな事してていいのかな」と言いつつ早速駅前のホテルに荷物を置き前夜祭の赤提灯に向かいました。これで済むはずもなく2軒目はスナックでカラオケ大会です。やっと眠りに就いたのですが次の日の結婚式では酒が進まない状態となりました。無事式は滞り無く終了し、そのまま東京に帰るのも何か物足りないと思い同僚の1人を誘い広島で途中下車しました。しばらく列車にゆられてアルコール濃度も落ちてきたので広島の八丁堀付近を探索する夜になりました。
 この時の帰りの新幹線も大盤振る舞いのグリーン車で旅を締めました。行きと帰りを同じ行程では面白くないと感じていたので二倍の楽しい旅をすることが出来ました。
                                                      2002/11/26

62.年末関西の旅 1981年12月28日〜31日
 前年に引き続き年末の旅行へと旅立ちました。今回は関西です。関西とは言っても名古屋から四日市・津を訪ねてからの大阪入りになりました。大阪では地下鉄の阿波座駅近くのビジネスホテルに泊まり行動開始です。夕飯は地下鉄に乗って梅田まで行きビジネスビルの地下にある居酒屋で酒抜きの食事でした。大阪近郊の電車を乗りまくりへとへとになるまで歩き回っていました。帰りの起点もちょっと捻った新神戸からとしました。この駅は国鉄の三宮駅から徒歩で15分くらい掛かるのですが苦にはなりません。緩い坂道を上って新神戸へと歩いていきます。この駅の夕飯は日本食堂で食べた牛ステーキ定食で、この味は忘れられません。
                                                      2002/11/26

61.秩父の社員旅行 1981年10月2日〜3日
 池袋から西武特急レッドアロー号に乗って西武秩父まで。そこからは観光バスで三峰神社などを見学しました。泊まった宿は貸し切り状態です。会社の旅行は何処も、どんちゃん騒ぎが好きなんでしょうね。例に漏れずこの時も宴会場の大騒ぎは各自の部屋まで波及していました。この状態では他にお客さんがいればクレームが出るでしょう。さっさと寝なさい・・
 2日目は打って代わって物静かな人たちと変身してしまうのです。この人達が昨夜の人間と同じかと思うとゾッとします。昼のイノブタ料理なども大人しく食べて紳士淑女の集団となっています。もちろん帰りの電車は熟睡状態の快眠列車です。
                                                      2002/11/25

60.十和田湖プリンスホテル 1981年8月15日〜18日
 夏のリゾートでの休暇をしたいと近所の友人と二人で十和田湖を計画しました。泊まる宿は旅行会社に行ってプリンスホテルとしました。ただ予約が取れるかどうかが心配です。担当者から取れましたと言われたときはホッとしていたものです。しかし、食事抜きでも一人1万円もする高価な出費なので助かったやら寂しいやらの複雑な気持ちです。
 またしても出発は夜行列車です。青森から国鉄バスで子の口までとしていたのですが、奥入瀬の景色の良さが途中で降りて歩くことと変更しました。まもなく子の口の観光船乗り場に着きました。ここから休屋まで湖面に浮かぶ船からの景色です。こんな素晴らしい景色は、真夏とは言え紅葉シーズンにも劣らないのではと思わせるほどの感激でした。いよいよ休屋からバスでホテルへと移動です。今回の旅行で荷物のバックとは別にテレビ付きラジカセを持っていたのです。重量は5〜6Kgはあるでしょう。重くてもテレビが見られるかと思えば苦になりません。そんな重たい荷物を持ちながらリゾートホテルのドアが開かれました。
 初めての経験とは戸惑いが付き物ですが、荷物を持ってもらったり、部屋の使い方を教えてもらったりと呆然としていた時間が長く感じました。さて夕飯の時間です。しかしこのホテルでは食事はパッケージされてはいないのです。館内のレストランで別料金によるサービスを受けます。テーブルについて椅子に座り、メニューを開けています。しかし、どれを注文して良いのかが解りません。全部日本語で書かれていても、金額が納得出来るものではなかったのです。この十和田湖はヒメマス料理が有名で、これを食べようとは思っていたのですが、単品でも5000円もしたのです。それにライスなどを付けたらいくらになるのでしょう。急遽カレーライスに変更です。一泊目がこんな状況だったので、もちろん次の日の夕飯はパンを外で買ってきて済ませたことは言うまでもないことでしょう。目標は高く持っても背伸びしきれないほどの高さには付いていけなかった自分に気が付きました。友人はその次も十和田湖にいて安旅館を探して旅を続けていたのでした。
                                                      2002/11/24

59.三度目の磐田市 1981年8月1日〜2日
 この時の友人宅には新幹線での往復です。何度も行っているとだんだんシンプルな方法で交通手段を選んでしまいます。ただ、静岡の駿河湾へと海水浴に行った事が今までとは違いました。御前崎からルートを進めて相良町の砂浜まで出かけました。波は穏やかで海水浴日和です。遠浅の海岸も素晴らしく感じました。
 その日の夜は磐田を通り越して浜松までの行程です。城跡の駐車場に車を止めて繁華街へと繰り出しました。何処の都市にも町並みは独特ですが、浜松もこの時まではあまり知らなかった町でした。
                                                      2002/11/21

58.沖縄の旅 1981年4月25日〜5月4日
 沖縄には一度だけ行ったことがあります。住んでいるところからは遙かに遠いので何度も行けません。その時がこの思い出のシーンとなります。では、行程を列記します。東京から大阪まで夜行バスの国鉄ドリーム号、その後広島・宇部・門司港・宮崎・都城・鹿児島へと順に降りながらでした。昼前に鹿児島に着いたのですが、そこからの船は夕方に出航です。まだまだ時間がかなりあります。市内をブラブラしながら時間つぶしとなりました。
 桟橋には丸一日乗り続ける大島海運の「あけぼの丸」は出航を待っています。乗船手続きは開始されました。前もって買ってある二等船室のチケットを、寝台に替えて乗り込みます。船は思っていたより大きくて頼りがいがあります。これで翌日の夕方には那覇港に着くと思うとワクワクしてきました。いよいよドラが鳴り船のエンジン音は高くなってきました。デッキではテープで桟橋の人との別れを惜しむ光景もあります。その時でした、一人の女性が乗り遅れてはいけないと慌ててデッキに向かう姿がありました。乗組員や乗船客らが見守る中階段を一歩一歩と登って来ました。係の人がそこで一旦止まれと制止したのですが、女性にはその声が届きません。次の瞬間タラップが上がってきて足を挟んでしまったのです。大変なこととなりました。しかし、抱きかかえるようにして船室まで運ばれてしまいました。船は汽笛を鳴らして出航します。
 乗客のほとんどの人が先ほどの女性のことが気がかりでなりません。どうしたのだろうかと囁く声があちらこちらと語られていました。船はやがて錦江湾を南に進路を取って進んでいます。桜島を後ろにしてさらに南下です。ふと気づくと船はぐるぐる同じ場所を廻っていたのです。さっきの女性の事故で、船は喜入の港に入ると言うことになりました。しかし、まだ旋回は続いています。結局鹿児島港に戻ることとなりました。鹿児島港では救急車が待機しています。担架で下船されて病院に向かったのです。始めから下船されていれば良かったのにと誰しも思うことです。
 旅の始まりからトラブルが起こって、この先の事が少し気になり出します。翌朝の名瀬港着は2時間遅れです。その後も徳之島の亀徳港・沖永良部島の知名港・与論島には遅れを取り戻せないまま遅れての入港が続いています。那覇港に到着した時刻は午後8時30分とやはり2時間遅れのままでした。当初は港からホテルまでバスで向かうはずでしたが、急遽タクシーを使うことになりました。宿では、次の日の宿の予約をしただけで、夕飯も食べられずに寝てしまいました。
 翌朝は眩しい朝日の光を受けて目覚めたけれど決して熟睡は出来なかったのです。沖縄の休日を楽しむには観光バスでのツアーが最適だと思いバス会社に向かいました。当時はバス会社は4社ありそれぞれの独特なコース設定をしています。どのツアーが最適かはよく解りません。一番小さな会社を選びました。それは、手作りの心温まるイメージを持ったからです。初日は南部コースで摩文仁の丘やひめゆりの塔、さらにデイゴという店でのハブとマングースの闘いなどを見て回ることとなりました。昔の戦争の記憶も途切れている中で、後世まで伝えていかなくてはならない悲惨な戦争なのです。次の日は北部コースで海の眩しい風景と海洋博の記念公園にあるアクアポリスなどを見学です。基地の広さも目の当たりにして、ここにも戦争の余波が感じられました。これらのコースを小さなバス会社にして本当に良かったと思いました。
 那覇での宿は初日は沖縄で一番由緒のある沖縄ホテル、2日目はサンルートホテル、3日目と4日目はサンホテルにしました。サンホテルは那覇市内では最高の高さを誇っていました。沖縄県での最後の晩餐は一人でリッチに過ごした事が印象的でした。守禮門などを見物したり市内を歩き回った疲れも何のその。最後の晩はぐっすり眠ることが出来ました。
 那覇に到着するまで72時間も掛けて貧乏旅行らしき形態とは裏腹に、帰りの行程は豪華にしています。まず、船は「クインコーラルU世」の特等室と新幹線はグリーン車です。船の特等とはこんなにも素晴らしいことと初めて知りました。船室にはシャワーも完備していて、ベッドの柔らかさも比べものにはなりません。しかも、特等の乗船客のみ立ち入ることのできる展望室では景色が全開です。まるで舵を取って操縦していたり船長が進路を確認しているような気分でした。名瀬港までは4人部屋で独り占めだったのですが、そこから3人が乗り込んできて天下は取られてしまいました。しかし、何とも満足感のある旅をしました。鹿児島からの夜行特急「有明」と博多からの「ひかり」で東京まで戻って来ました。新幹線のグリーン車は二度目だったので慣れていたのですが、食堂車で知り合った人と、その後の会話が途切れてしまったことが残念です。
 長い紀行文になってしまいましたが、これ程沖縄への旅の思い出は強く残っています。
                                                       2002/11/19

57.春の山陰路 1981年4月2日〜5日
 母親と小学校に上がる前の甥を連れて山陰に旅しました。豪勢な旅は出来ないので予め松江の国民宿舎と天橋立の回旋橋の袂の安い旅館を予約しました。まず、東京駅から夜行の特急出雲号で出発です。京都からは山陰本線に入りますが、すでに客室内は寝息で一杯です。眼が醒めるとすでに宍道湖の付近に差しかかっていました。眠っている間に鳥取や米子なども通過していたのです。列車を出雲市で降りて、ここからは今では廃線となってしまった大社線に乗り換えです。出雲大社は大社駅からは徒歩で行けます。何年ぶりかなと感じながらお参りをして境内の荘厳さを噛み締めました。次の目的地の日御碕灯台へとバスを待つ間ルービックキューブを廻しながらの一時でした。白亜の綺麗な灯台は日本海を照らし道しるべとなっています。近くのウミネコの島では鳴き声が途切れることはありません。
 翌日は鳥取砂丘を見たり城崎で列車を乗り継いでの天橋立へとの行程でした。途中の餘部陸橋では下の景色を見ていると眼がくらむようでした。天橋立の傍での宿の風情は、何とも言えないほどの佇まいとなりました。阿蘇海を観光船で渡り名物の股覗きをしたりとここならではの空気に浸っていました。何度来ても良いところだとしみじみ感じたことはいつもの通り。あいにくの小雨模様でまた格別の感がありました。
                                                       2002/11/18

56.真冬の東北本線 1981年1月15日〜16日
 飛び石連休になるこの時期に一日だけ休暇を取って4連休としました。そこで夜行列車のあづまに乗り福島までが最初の列車です。電車の座席車ですが車内はガラガラで四人がけを独り占めしました。さすがに冬の東北は寒さが厳しいです。駅前を散策して早くも待合室に籠もることとなりました。次の列車は仙台までの比較的短い時間です。ここでも足をあまり弾ませないまま帰りの急行まつしまに乗り込むこととなりました。寒くて表には出られない旅は列車の車窓から見ている景色が一番良いのでしょう。
                                                       2002/11/16

55.年末四国の旅 1980年12月26日〜31日
 年末の休暇を利用して旅に出るのもまた良いものでした。この時は四国へとターゲットを絞りました。しかし、素直には行きません。今度の行程は東京〜名古屋〜草津〜姫路〜岡山〜宇野〜高松〜徳島と列車を乗り継いでの往路です。徳島に着いた時刻は辺りは真っ暗で、ホテルまでの道も初めて訪れた土地での手探り状態となりました。翌日は阿波池田で乗り換えて、土佐山田で降りました。ここから龍河洞へと洞窟探検をして高知市に入りました。さらに南下の予定が、鉄道の不通の影響で、松山までの国鉄バスによる峠越えを味わうこととなりました。このバスは四国山地の高所を通るため、途中の休憩地点では雪も降っていました。無事松山に到着してからは、この町での一番の名物である道後温泉に入浴する事となりました。通称ぼっちゃん湯に浸かって疲れを癒しながらホテルで熟睡することが出来ました。年末の慌ただしい時期に旅をしているとどこか別世界に身を置いているようで心地よく感じました。
 さらに、今治でタオルを買い金比羅山にお参りもして、高松の町へと身を置きました。いよいよ最終日は高松から小豆島までの往復です。小豆島は土庄港に着いて目の前の二十四の瞳の像を見物してきました。連絡船で本州に渡って岡山へ。岡山の駅では帰りの新幹線にはまだ時間があるので、繁華街に繰り出して大晦日の風景を満喫しました。さて、これで新幹線に乗るために岡山駅で歩いていると大きな体の関取が歩いていました。当時の郷土力士の鷲羽山関でした。これでこの年の旅行も納め時となりました。
                                                      2002/11/16

54.箱根に社員旅行 1980年10月3日〜4日
 この年の社員旅行は小田急のロマンスカーに乗って箱根です。新宿から一気に箱根湯本までの快適列車旅です。次は登山鉄道に乗り換えて塔ノ沢で下車しました。宿はここの近くにある対星館という旅館です。この旅館は道路から遙か谷底にあるのです。そこまでの手段は下りケーブルカーなのです。このケーブルカーは宿専用で二人が乗れば定員一杯と言うほどのこぢんまりしたものです。渓流沿いにあって露天風呂も完備の趣の深いところでした。翌日は強羅から桃源台までの長いロープウェイで雄大な大涌谷の真上を渡ることでスリルもありました。
                                                      2002/11/16

53.北陸の旅 1980年9月19日〜22日
 金沢の駅前ホテルを起点とすれば、能登半島・七尾・小松などにも行けました。しかし、東京からの出発はいつも通りの夜行列車です。今回の列車は新宿から出ている急行アルプスで松本まで行き、大糸線に乗り換えて大町で途中下車して糸魚川というコースです。北アルプスの景色を見ながら、青木湖・木崎湖の傍を走り日本海へと出ます。糸魚川ではすでに昼の時間となり待合室でボーッとしていました。ふと横を見てみると何人かの人たちが話しをしていたり、撮影機材の点検などもしていました。何者かも知らないまま、そこにいる1人の美人の女性だけが眩しく感じたものでした。帰りの行程は福井から永平寺を見て敦賀で途中下車をし、米原から新幹線での帰宅となりました。
 それから数日後にふとテレビを見ていたら、歌手の岡田奈々が旅人になっての旅番組を放映していました。場所は大糸線で観光巡りや名物の紹介などです。思わずハッとしたのはその時です。あの糸魚川駅での待合室で見た美女こそ、その人だったのです。
                                                      2002/11/15

52.北海道二人旅 1980年8月9日〜16日
 北海道へはこの時まで一人旅ばかりでした。この年の春の北海道一人旅を近所の友達に話しをしたところ、一緒に北海道へ行きたいと言い出しました。旅に出たければ勝手に行けば良いじゃないかと思っていたけど、人の良さが出てしまい、同伴の二人旅となりました。コースは全て任されていたので、かなりのハードさがありました。最初はお決まりの夜行列車で青森へ。翌朝青函連絡船で北海道に上陸です。ここからは道内の阿寒湖・摩周湖・稚内・富良野・札幌などを巡りました。友人は常に傍に居て自然の空気を満喫していたようです。札幌市内では観光バスにも乗車して藻岩山・羊ヶ丘などにも感動していました。何故か観光案内をしていたことを覚えています。数日巡った後は帰りの行程となります。再び青函連絡船でしたが、思い切ってグリーン船室での南下です。さすがに居心地は快適でした。青森に着いてからは、上野までの列車は素直には乗り込みません。特急いなほ号に乗っての帰り道です。この列車は奥羽本線〜羽越本線〜信越本線〜上越線〜高崎線〜東北本線と渡って走るのです。始発から終着までなのですが、途中での乗客で車内は身動きが取れない程の混雑でした。お陰でトイレにも行けなかったので我慢大会の様相となりました。上野駅に着いてホッとしたことは言うまでもありません。
                                                      2002/11/15

51.新幹線で大阪日帰り 1980年7月26日
 新幹線で名古屋と大阪に行きました。まず東京から名古屋までこだま号に乗り、そこから名鉄に乗るために地下の新名古屋に降りていきました。神宮前までを往復して名古屋に戻りました。さらに名古屋から新大阪まで、またこだま号に乗りました。ビュッヘで軽食を摂りながら、通過するひかり号を眺めていました。
 大阪に着いてからは弁天町の駅に併設されている交通科学館へと見学をしました。短時間であっても鉄道の博物館は楽しいものです。さて、帰り道となって新大阪からの列車はひかり号のグリーン車です。初めてのグリーン車は座席はリクライニングで幅も広く足掛けまで付いていました。シートの色はベージュで雰囲気が最高です。この旅は保育園に通っていた甥と一緒なのでした。
                                                      2002/11/14

50.二度目の友人宅へ 1980年7月19日〜20日
 静岡県の磐田市に行くのは二度目でした。友人の自宅へまた招かれました。前回は夜行列車で行きましたが今回はリッチに新幹線です。さらに案内も渥美半島へと足を延ばして案内してもらいました。途中の浜名湖は列車でしか見たことがなかったので雄大さが手に取るようです。特に入江の浜名大橋は頂上付近では余りの高さにちょっとスリルを覚えました。
                                                      2002/11/13

49.雪で足止め 1980年4月25日〜5月4日
 今回の北海度旅行は10日間の長旅です。コースは上野から東北線夜行の八甲田号で青森。続いて青函連絡船で函館へ。さらに急行すずらんで札幌、その日の内に夜行の利尻で翌朝に稚内です。またその日の内に旭川へと入りました。ここでやっと宿泊できます。泊まったホテルは駅前のグリーンホテルです。翌日は網走へと向いまた国民宿舎での宿泊でした。次の日は釧網本線で釧路経由で帯広まで。帯広で一泊して釧路へと逆戻りして小樽行きの鈍行の夜行列車です。札幌・登別を経由して室蘭へ着きました。宿泊後に洞爺湖を見てから函館で夜景を見ました。駅前の旅館に泊まってから松前城の桜見物をして青函連絡船で青森まで帰ってきました。ここからまた急行十和田で平で乗り換えて帰ってきました。鞄代わりのカメラバッグには絵葉書がびっしりと詰め込まれています。
 この旅では網走の国民宿舎「友愛荘」に泊まりました。当日の北見で、列車の停車中に予約をしていました。この宿は天都山と呼ばれる小高い丘の上に建っているのです。名物の刑務所を横目に宿までバスに揺られていました。宿泊者はなんと3人しか居ません。風呂も同宿の人と揺ったり気分です。夕飯時は大広間でこぢんまりとした風景になりました。しかも、話しのできる状態ではないのです。それは出された料理が、蟹一匹丸ごとで格闘しながら黙々と食事をしていたからです。その日はお陰でグッスリと眠ることが出来ました。翌日は釧路と帯広へとのんびりした予定としていたのですが、なんと外は一面に白いものが積もっています。しかも降る勢いは増すばかりで止む気配はありません。北海道なら雪くらいでは驚かないでしょう。でも尋常な降り方ではなさそうでこの日の予定が危ぶまれてきました。どうにか宿の人の薦めで同宿者の女性と駅までタクシーを相乗りで向かうこととなりました。しかし、案の定、列車は止まっていて暫くは足止めとなりそうです。仕方なくその女性と暫しのティータイムとなりました。なんと2時間ほども話しをしていたことが後になって判明しました。運転再開は昼頃になっていたのでした。無駄な時間と思われていたことが、思いがけない出会いを演出していたことで気分も取り戻すことが出来ました。これぞ気ままな一人旅でのハプニングそのものです。
                                                      2002/11/13

48.寝台特急はやぶさ号 1980年3月19日〜22日
 列車に乗り続けている内にだんだん豪華なものに乗りたくなります。この旅行も寝台列車の中で一番リッチなものはA寝台に乗ることと決めたのです。まずはいつもの通り夜行の鈍行で東京駅を出発です。途中は岐阜に降り立ちました。この時までは岐阜は通過ばかりで、駅から外には出たことがなかったので初めての町です。更に西へと列車を乗り継ぎ福山・尾道・三原と下車しながら進みました。ここまでで夕暮れ時となってしまい、次の門司からの夜行列車に乗るためには新幹線で新下関へと乗り換えざるを得ません。綱渡りのような乗り継ぎを果たし、西鹿児島には21日の早朝に到着しました。ここでは上りの特急はやぶさに乗るために来たのです。市内を簡単に散歩して駅の待合室でひたすら待ちのモードに入ります。
 いよいよ駅のアナウンスが流れ列車の改札が始まりました。端のホームにその瀟洒なブルーの車体が乗客を待っていました。この中の車両の内一番後方の客車に乗り込みます。初めてなのでドキドキしながらA寝台の個室へと扉を開けて入りました。室内は狭いながらも洗面台が付いていてハンガーだってありました。ベッドは幅が広くベージュのシックなものです。この部屋は明朝までずーっと誰にも干渉されずに居られるかと思うとワクワクしてきました。まだ出発していないにも関わらず早くも車内検札が始まりました。それは専務車掌さんがノックをして脱帽の挨拶付きです。この雰囲気が何とも堪らなくいい気持ちにさせてもらいました。
 いよいよ列車は滑るように走り出しました。これから終着駅の東京までの長い旅が始まります。昼過ぎの不知火海、夕暮れ時の玄界灘、宵の山陽路、夜間に入って熟睡どころか目は冴えるばかりです。大阪では運転停車といって乗客の乗降は出来ないのですが、機関車の付け替えなどで辺りを窺うのが、また感動でした。やっと翌日の昼前に終着駅の東京に到着しました。遙か西鹿児島からの旅人は駅のアナウンスで夢のような素晴らしい体験が体中に染みこんでいたことを実感しました。
                                                      2002/11/5

47.周遊券 
 この当時、旅に出るときは必ずと言っていいほど、国鉄を利用した夜行列車混じりの気ままなものでした。そんなとき切符は周遊券を買って目的の地域で乗り放題の旅をしていました。北海道ワイド・道南・東北ワイド・信州・北陸・万博回遊券・京阪神ミニ・南紀・四国・九州ワイド・鹿児島ミニなどです。ゾーン内は何度でも行ったり来たりできます。しかも急行列車の自由席は急行券が不用です。そんな列車に乗ってどれほどの金額分を乗車したかを計算したことがあります。三倍くらいの金額を乗りまくって悦に入っていた自分が居ました。ただ、防犯上と健康上問題からすれば決してお薦めできない旅の形態です。
                                                      2002/11/4

46.特急銀座 1980年2月24日
 上野駅は特急列車が頻繁に発着していて、毎時0分には「ひばり」と「ひたち」その後東北特急が4分と8分に出発します。さらに30分には「とき」34分38には高崎線の特急列車の出発です。これ程の本数があればホームには常に特急列車が留まる場面を見ることができます。そんなある日郡山に日帰りで往復しました。行きはひばり号で帰りははつかり号です。郡山の滞在は何の目的もなく、ただ上りの特急列車を待っていただけです。それぞれの列車は特徴があり停車駅も少ないので優越感に浸っていました。こんな事で満足するのが鉄ちゃんならではの趣味の世界です。
                                                      2002/11/4

45.また幹事で 1979年10月12日〜13日
 入社して四年目にして二度目の社員旅行ではまた幹事の大役?を引き受けてしまいました。社員旅行は毎年あるのですが、初年度は南房総へと幹事役で行きました。二年目は個人旅行をしたためパスしていました。三年目は社員旅行が行われませんでした。と言うわけで、今回の社員旅行の参加です。場所は栃木県の塩原温泉で、宿は「こめや」というホテルです。当時は鬼怒川温泉や那須などの観光地の蔭に隠れていた塩原でしたが、なかなかの観光地でした。巡ったコースも日光での紅葉も見られ普段の疲れも取れてくるようです。幹事の役目も果たせたと思います。
                                                      2002/11/2

44.南紀へ海水浴 1979年7月31日〜8月3日
 友人と二人でこの年のバカンスは、伊勢・南紀への海水浴としました。おきまりの夜行列車で出発して名古屋で乗り換え一路伊勢へと旅が始まりました。伊勢神宮や二見浦を見てから近くの海水浴場に飛び込みました。ここでは海の家の事を浜茶屋と呼んでいたことを覚えています。伊勢湾の波静かな海はとても気持ちが良く、ギラギラした太陽で日焼けもしてきました。その日の宿泊は伊勢市にあるダンケというビジネスホテルでした。翌日は那智勝浦までの行程で、途中那智の滝などを見物して、天満海岸へとまたまた海水浴を楽しみました。その日の宿泊は予め予約をしていた、勝浦観光ホテルです。夕食は豪華に舟盛りもあり二人で祝杯を挙げました。
 翌朝は快い目覚めで朝日を迎えます。周遊券での列車旅なので、帰路は和歌山経由で大阪からという事で、結局紀伊半島をぐるっと回って来たことになりました。帰りの新幹線に乗る頃は日焼けによる痛みに耐えながらとなりました。
                                                      2002/11/2

43.創立記念日を利用して 1979年5月31日〜6月2日
 6月1日は会社の創立記念日で休日です。この年はその日が金曜日に当たったので、絶好の行楽日和となりました。目的地は京都ですが、会社の同僚と5人での旅でした。宿泊は健康保険組合の「すみのくら」です。しかし、車で東京から乗り通すのは苦痛となってはと思い一人で行き帰りを別行動としました。もちろん目的を京都だけではなく、京阪神の電車を乗ることも大きな期待でした。さて、嵯峨駅で待ち合わせの同僚達と再会し、いよいよ目当ての保養所へと入りました。まだ新築当初の京風の庭園を配して風情は何とも言えないものとなりました。翌日は市内の寺社巡りをして、短いながらも楽しめました。帰りももちろん新幹線で一人旅を味わってきました。
                                                      2002/11/2

42.東北新発見 1979年4月27日〜5月3日
 東北地方は広く一回の旅では全てを見て回ることは出来ません。この時も何度目かの東北旅行だったのですが、同じコースにはしたくないので初めての場所を中心に訪れました。上野→山形→天童→山寺→米沢→郡山→東能代→弘前→大館→青森→福島→仙台→平泉→水沢→盛岡→八戸→青森→十和田湖→青森→上野とコース取りを実効しました。その中で東能代から弘前までの五能線に乗ったことや、水沢での宿泊など一度は行きたいと思っていたことが叶いました。最後は特急はつかりで東北本線のほとんど全線を乗り通したことです。
                                                      2002/11/2

41.長野の知り合い 1978年8月19日〜20日
 この年二度目の長野へは我が家のコスモLで出発しました。午前6時に家を出て途中の国道17号線では前面ガラスに小石が飛んできて驚きの場面もありました。無事長野に到着した時刻は午後の3時過ぎでした。今回は以前近所に住んでいて、親しくしていたお宅への訪問です。その知り合いが長野へ越してきて以来の再会となりました。夜まで話は尽きません。翌日もお墓参りやあちこちへと案内をしてもらいました。帰り間際になると、再会を約束してもやはり別れがたい気持ちで一杯です。何時までも長野での余韻に浸りながらの帰り道となりました。
                                                      2002/11/2

40.途中の一文無し 1978年4月29日〜5月5日
 旅先での金欠病は、苦しいやら情けないやらの惨めなものです。会社の先輩と一緒に新幹線で旅立ちました。先輩は故郷の山口県防府市に帰る時に、一緒にどうかと誘ってくれました。今回は山陰へと向かう旅の経由となっています。一泊目は先輩のお宅に寄らせてもらいました。ご家族の歓待を受けて有り難く思いました。翌日は近くの名所などを案内してもらい、故郷を出ている人間は戻ればすぐに土地の者へと逆戻りしていることが解りました。さて、ここで次の目的地には一人で行かねばなりません。しかし、財布の中身はほとんど空同然です。夜行列車で松江まで行けば翌日の銀行へと足を運べます。それまでは何も買えない辛さが染み渡っていましたが、口には出せません。その様子を察したのか、先輩が弁当と雑誌をカンパしてくれました。おかげで夜行列車も何とか過ごせて、翌日からのお金の有り難さを感じることが出来ました。その後米子・出雲・浜田などへも快適な旅を享受する事となりました。最後の楽しみは特急「出雲」に乗ることです。始発の浜田駅から出発して、終着駅の東京までゆっくり寝台に揺られていたことが印象的でした。
                                                      2002/10/31

39.長野山荘 1978年4月14日〜16日
 会社の山荘は長野市にあります。この旅が初めてのことでしたが、一緒に行った仲間達は何度も行っていたのです。人からの話と実際の体験は大いに違っていることがありますが、この時もそんな感想を持ちました。何もかも自分たちでしなければいけないのです。鍵を開け、燃料や食品の点検、風呂や布団の上げ下ろしなど全てが協力しての合宿そのものです。
 この時の人数は、男女7人で車は2台でした。あいにく我が家の新車は使えず知り合いから借りたカペラでの運転です。慣れない車なので最初はゆっくりと、しかし、しばらくすればスピードはグングン上がってしまうほど道路と空気が快適になってきました。山荘に到着した時刻は夜中の2時で、すぐに夜食会にと場は変化しました。酒盛りが進めば、議論が伯仲して、少し暑くなる場面もあったことが、この山荘での最大の出来事となりました。でも、皆で雑魚寝をして目が醒めれば爽やかな高原の空気が一面に広がります。その後は戸隠神社・バードウオッチングなどをして、雪解け間もない高原を後にしました。
                                                      2002/10/30

38.新車で元旦ドライブ 1978年1月1日
 前年の11月に新車を買ったばかりで、ドライブへと計画を立てました。それは元旦に何処か初詣をと言うことです。寒さも何のその、一路国道6号線を北上しました。土浦・水戸・日立を通りいわきへと。ここでは神社仏閣が解りません。更に違う国道を今度は北西へと進みました。そして、着いたところは郡山。やっと目的地らしく名も知らぬ神社があり、そこで参拝をして一年の始まりを感じました。それまではこれほどの長距離を走ったことがなかったので少々疲れていましたが、新車を運転できることで気分は高揚していました。帰りは高速道路が待ちかまえています。東北道は館林・岩槻間しか運転していなかったので、郡山から岩槻までの長さは途方もないほどでした。渋滞もなく順調に家路に着くことが出来ました。
 因みにこの時の新車はコスモL2000CCでした。ツードアのクーペスタイルで快適でした。
                                                      2002/10/30

37.秋川渓谷 1977年11月5日
 晩秋の小春日和の一日は立川まで電車で行き、そこからは車で乗り合わせての紅葉狩りです。河原でのバーベキューなどを会社の同僚達と楽しんできました。紅葉の事はほとんど覚えていませんが、河原での会話とかは良い思い出となりました。
                                                      2002/10/30

36.広島だけの予定が・・
 1977年10月7日に東京から広島にひかり号に乗って旅立ちました。目的地は広島の原爆ドームと宮島と錦帯橋などです。宮島へとフェリーで渡り、厳島神社に散歩をして、岩国の錦帯橋も階段の上り下りです。その晩は予め予約をしていた駅から徒歩で10分ほどの距離にあるリバーサイドホテルです。素泊まりの部屋は畳敷きの川の傍です。3人での旅にはレンタカーに乗った後の疲れを取るのには充分でした。早くも、ぐっすり眠りに就きました。
 翌朝起きて広島城を登り、さて次はどうしようと言うときに、今度は九州まで行ってみようと言うこととなりました。広島から小倉に着き小倉城を見物、さらに博多から太宰府天満宮へと足を延ばしました。結局広島と九州の広範囲な旅となりました。目的地は出かけた先でさらに違った旅を求めてしまいます。1泊のつもりが2泊になり広がりを感じました。
                                                      2002/10/29

35.特急ひばり
 交通網の発達でいつでも待たずに乗り物が利用できます。山手線では朝晩は3分以内の間隔で運行されています。また、特急も1時間間隔や30分間隔などは常識です。1977年9月3日は当時では本数の少ない特急列車の中でひばり号は1時間間隔で走らせている列車でした。上野と仙台の間を頻繁に通っているので、ほとんど待たずに乗れました。そんな列車も制覇する事が出来ました。密閉された室内とスピードが特別急行料金を支払っても満足度は高まるばかりです。行程は仙台から上野までの上り線です。停車駅は福島・郡山・白河・宇都宮・大宮くらいで特急の威厳が感じられました。速度も120キロでスピード感が伝わってきます。今ではそんな感動を与えてくれる電車は数少なくなってしまいました。
                                                      2002/10/29

34.三段式寝台車
 今や列車と言えば新幹線を始めとして高速のニュートレインで日中に乗るものが中心です。たとえ遠距離でも、と言いたいところですが、遠隔地には最早航空機にはかないません。しかし、昔は鉄道の線路がある限り鉄道での移動は当たり前てした。そこで夜行列車が頻繁に走っていました。特に豪華なものは寝台車です。当時の寝台車は現在のようにゆったりムードはありません。ベッドも三段式の窮屈なものです。特に上段へは梯子を登ってのまさにロッククライミング並だったのです。狭いエリアであっても、横になれるだけで旅の疲れも癒されていました。そんな寝台車には1969年11月17日の特急「さくら」ての体験が初めてでした。運良く下段での一晩は揺れの小さい感動ものでした。ただ、この下段は窓の外を見るには適していません。
 現在では夜行列車の本数も減り二段式は最低のレベルで、個室やツインベッドのデラックスルームも揃えてシャワー完備のホテルのようです。
                                                      2002/10/29

33.旅行で寝坊
 1977年8月26日から9月3日までの夏の旅行は北海道でした。もちろん予約無しの一人旅です。前回の北海道は道南の周遊券で廻りましたが、今回の旅は全道の周遊券です。国鉄の鉄道をフルに使って宿泊費も浮かせます。列車は二重窓で夏とは言えど夜中には涼しくなっていました。途中の宿泊は稚内・釧路・札幌だけでした。その内の釧路では、プリンスホテルに泊まりました。ところが、名前と実体はこうも違うのかと思えるほどの素泊まり旅館です。部屋でのくつろぎも余裕のあるものではありませんでした。その反動で翌朝の目覚めは、とんでもないこととなってしまいました。前日に予約した観光バスの発車10分前に目が醒めたのです。あわてて起きて顔も洗わないであわてて着替えをし、荷物を抱えて駅までのダッシュと相成りました。何とかバスの出発には間に合いましたが、旅での思わぬことは疲れを増幅しそうでした。
 札幌に場所を移してからは会社の札幌営業所のI氏とビール園に行ってのしばしの歓談でした。聞いたことはありましたが、実際にこの場所で飲むビールは内蔵に染みこみました。その後のホテルライラックへ戻れば熟睡が保証されました。いつも一人旅では何が起こるか解らないので楽しかったり辛かったり人生にとっての勉強になりました。
                                                      2002/10/27

32.本土最南端
 会社に入社して二年目のゴールデンウィークは休暇を挟んで10連休としました。その内9日間を掛けて九州へと旅立ちました。1977年4月29日に夜行特急の「あさかぜ」で出発して、九州各地を転々としていました。鹿児島も何度目かで訪れる度に南国情緒が湧いてきます。このときの鹿児島では珍しく観光バスに乗りました。コースは大隅半島の突端にある佐多岬への最南端巡りです。鹿児島からフェリーに乗って桜島へ、さらに鹿屋を通りいよいよ本土最南端の地「佐多岬」です。バスの中では記念の手形が配られました。小さな灯台があるだけですが、何とも感動的な演出で乗客全員が一体感を持って楽しいツアーとなりました。その手形は今でも大切に持っています。
                                                      2002/10/25

31.いわきへ
 普段使っている電車は都心へと利用していますが、反対方向へはなかなか乗らないものです。たまには反対方向へ各駅停車の電車で旅して見ようよと、友人を誘って平までの電車旅です。1976年12月30日に柏駅からの始まりです。電車の色は朱色で当時は通称「赤電」と呼ばれていました。簡単なバッグ一つとラジカセを持っての快適な旅行です。出張で覚えたビジネスホテルを予約していたので宿泊の不安はありません。途中小名浜港に寄ったりして、カセットの音楽は旅をより快適にしていました。帰りの電車ももちろん赤電です。3時間ほどの各駅停車の電車旅は、海あり谷あり川ありで窓を開けて風を受けていました。特急に乗れば日帰りできる程の距離も、鈍行列車は何故かゆったりしたのんびり旅行をさせてくれます。
                                                      2002/10/21

30.志賀高原に
 グループでレンタカーを借りて、長野は志賀高原の国民宿舎にドライブしました。時は1976年10月30日の朝は幾らか秋風が出て涼しくなっていました。大宮のレンタカー会社でブルーバードを二台借りてきました。男女併せて7人のドライブの始まりです。今では高速道路が当たり前ですが、当時はもちろん高速なんて通っていません。高崎までは国道17号線で、そこから分かれる国道18号線で長野までひたすらゴーストップの繰り返しです。目指す国民宿舎は何処にあるのでしょうか。誰も知らないのです。あたりは暗くなり道路も解らなくなります。路肩に止めて道を聞いたりしながらやっとの思いで今夜のねぐらに到着しました。運転手はたった2人で到着したことが何よりの骨休めとなります。さて、みんなでそこからの宴会が始まりました。酒の強い人はここからが独演会の始まりです。運転手のみが夢の中への旅立ちが早かったようです。
 夜が明けて外気の寒さが伝わってきました。高原地帯は日陰に入るとチラホラと雪が積もっています。運転も慎重を要するくらい危険度は増しています。帰り道は軽井沢を目指して鬼押ハイウェーを快走していました。スピードはグングン上がります。前方の遅い車はすり抜けるように追い抜きます。そして、何台かを抜き去ろうとしたところどうしても抜かせてもらえないのです。前方からは車が走ってきます。抜かせずに並んだまま前方の車とすれ違ってしまいました。このときは三台が並んだ状態だったのです。何と危険な行為でしょう。それからは暫く大人しく走っていたことは反省の現れでしょう。事故を起こさなくて本当に良かったな・・・
                                                     2002/10/21 

29.社員旅行の幹事
 会社では毎年一泊の社員旅行を開催しています。1976年は千葉県の白浜です。主に温泉旅行が多いのですが、この年は海岸沿いにバスを走らせて行楽の趣となりました。この旅行は入社して初めての社員旅行なのですが、たまたま幹事に任命されていました。決して立候補したわけではないのに周りでは当然のように幹事は新人です。
 出発は10月8日でバスは東へと向かいました。さて、幹事として何をしていたかと言えばカメラマンです。カメラは好きで何本かのフィルムを渡されてスナップ写真を撮りまくりました。マザー牧場・那古観音・野島崎など名所を巡っていてもカメラマンは暢気に見物は出来ません。慰安旅行もくたびれていてはイヤーン旅行となってしまいます。
                                                     2002/10/16

28.初めての四国
 1976年8月7日から5日間は四国に行きました。それまでは瀬戸内海での船で高松港に寄港したことはありましたが、熟睡中であったことと下船していなかったので初めてと言っていいでしょう。従って生まれて初めての四国へと旅が始まりました。当時は宇高連絡船で高松に着くともう午後の日射しになっていました。早速旅人の3人は宿探しです。でも突然訪れた町では安く挙げることなどは困難なことでした。そこで名案が浮かびました。ユースホステルに電話です。これが見事的中してその晩のねぐらは確保されました。
 島内の移動は専ら国鉄の周遊券による急行列車の利用です。次の目的地は松山を通過しての先の宇和島です。宇和島は、宇和海に面した港町で小さいながら城もあり楽しめました。今度の巣は民宿です。更にこの地からレンタカーを借りて足摺岬を目指しました。途中の国道は何とすれ違いも出来ないほどの道幅で崖の中腹を縫って走ります。車の乗り捨て場所の中村市に着きました。四万十川の豊かな水運に恵まれたこぢんまりした素敵な町です。丁度民宿の小父さんに花火大会への送り迎えは感謝しています。
 最後の訪問地は高知市で、これまた名物の「よさこい祭」の真っ最中で、なんてラッキーなんでしょう。最後のユースホステルは暑さも忘れるくらいの祭の熱気が眠りに効果的でした。2泊のユースホステルと民宿の旅は、地元の香りをそのまま吸い込んでいたようです。
 会社の同僚と幼なじみの友人との三人旅は、息も合って楽しい体験になりました。
                                                     2002/10/16

27.友人宅へ
 静岡の友人から誘われてお宅訪問へとしました。時は1976年2月27日からの夜行普通電車の大垣行きです。東京駅を11時30分過ぎに発車して各駅に停車して西に向かいます。小田原を過ぎると一気に通勤客は姿を消して夜行列車の趣が強くなります。しかも、主要駅だけの停車となり快足ぶりを見せます。浜松にはまだ夜の明けない時間帯に到着しました。ここから友人の住んでいる磐田市は二駅逆戻りなのです。つまり、夜行列車は通過していたのです。友人の迎えで再会を喜び、市内を案内してもらいました。その晩は友人宅で歓待を受けたことを感謝しつつ眠りに就きました。
                                                     2002/10/11

26.成田へ徒歩参拝
 新年を神社仏閣でお参りは良くしていますが、1976年の元旦の初詣はちょっと変わった方法で詣でました。それは前日、つまり1975年12月31日の早朝から始まりました。近所の友人と歩いて成田山に行こうと決めました。家から成田までは約40キロあります。今までそんな長い道のりを歩いたことはなく一日で行けるだろうかと作戦を練りました。そして計算上では午前8時に出発すれば夕方には到着できることが解りました。簡単な地図を手にして出発です。
 途中の昼食場所と休憩地点をチェックして歩みを進めていました。当時の県道を歩いていると普段は感じないほど車の往来が危険度を増してきました。歩道など無い道路が、これほど危なく不安を感じることなど、運転する側からは想像もしていなかった自分を自覚しました。ひたすら歩き続けて夕方にめでたく成田山の新勝寺の門前に到着しました。その時は二人でやったなーと歓びをわかちあいました。いくら暇な人でもなかなか出来ないことを成し遂げた満足感がこみ上げて来ました。もちろん参拝は日付の変わる時刻までお預けですが、信徒会館での数時間は辿った道を地図で確認しながら楽しんでいたことを覚えています。
 帰りは深夜運転の電車で帰ってきたけど、つくづく長い道のりを歩いたものだと自分ながら感心して、家路に就きました。
                                                     2002/10/11

25.天橋立
 良く聞かれることのひとつに「今まで旅行に行った中で何処が良いですか?」があります。そんなとき決まって言うことは「天橋立です」なのです。何度見ても素晴らしく感動が蘇ってきます。
 初めて天橋立に行ったのは、学生生活最後の夏休みでもある1975年8月16日でした。コースは上野から富山、金沢、敦賀、舞鶴と経由していました。友人との二人旅です。真夏の日差しが強く並の観光地だろうと思っていたら何と素晴らしい景色ではありませんか。宮津湾と阿蘇海に挟まれた細長い砂州には大きな松の木が生えています。昔、銭湯の壁面に書かれていた景色絵そのものでした。こん4景色が日本にあったのだと感動を強めたのです。ここを歩いて渡ることもできるのです。時間的には長く滞在できなかったことが尚更好印象を目に焼き付けていました。その後の豊岡、鳥取、松江、広島への流れに良い旅の印象を強めたのでした。
                                                      2002/10/10


24.静岡に日帰り旅行
 新幹線に乗って静岡に旅したのは1975年4月3日です。それまでは静岡あたりでも宿泊しての旅行が当たり前ですが、日帰りでも充分見所が味わえると思っての旅立ちでした。
 何度か通過してはいたので地理的には知っていても三保の松原や駿府城などは実際に行ってみないとどんな所か実感できません。早朝から夜までの日帰りでの旅は大いに満喫しました。しかも、ガールフレンドと一緒だったので時間の速さも新幹線並です・・・。
                                                      2002/10/10

23.二度目の菅平
 スキーをしようとまた友人と長野の菅平に向かったのは、1975年2月16日の早朝でした。前年に引き続き交通手段は急行「信州」です。2度目ともなると道順は戸惑いもなくすんなりです。ただ今回の旅行は友人の兄も一緒なので3人連れです。爽快な運動も終わるとロッジでも楽しい一時です。偶然隣室の女性軍と親しくなり皆で夜の更けるのも忘れるくらい話し込んでしまいました。これには周りの部屋のお客さんに迷惑を掛けてしまうという失態も付随しています。そんな未熟な青年達も翌日にはゲレンデで大いに遊びまくったことが、いい思い出として今でも蘇ってきます。
帰り道は前年とは違い万座・鹿沢口からの急行列車で上野に向かいました。柏市の施設なので帰り道も一緒でした。スキーの楽しさが2倍にも3倍にもなった1ページでした。
                                                       2002/10/10

22.無宿泊旅行
 夜行列車の利用は宿泊費を浮かすことが出来て、しかも時間の有効な旅の形態です。しかし、犠牲となる部分も沢山あります。それは翌朝に到着して午前中などは何も出来ないほど疲れてしまったりします。若い内はどんなに疲れても回復力は早いものです。何度も夜行列車の連泊がありますが、最高は8連続、宿での宿泊をしなかった1974年8月7日から15日までの九州旅行です。その内8月10日の宿泊はオールナイトでの映画館でした。その他の睡眠場所は門司港と長崎・西鹿児島を結ぶ夜行列車です。全部座席車での睡眠です。
                                                        2002/10/5

21.三度目の大阪へ
 大阪は初めての独り旅の地でした。良い旅をするとまた行きたくなるものです。3度目の大阪に行くことになったのは、1974年4月5日の夜行列車でした。宿も安いビジネスホテルとしました。何度も乗り慣れている大阪行きの夜行列車で東京駅を後にしました。毎度の事のように旅人気取りの列車の乗客となりました。
 今回の大阪では列車に乗ることはもちろんですが、市役所巡りも目的のひとつとなりました。巡った市は門真・守口・寝屋川・枚方・高槻・茨木などです。何処も初めて訪れた所ですが予め道順などを調べていたので迷いもせずに歩けました。広報紙をもらって特徴やニュースなどを集めていました。趣味とは言え都市の成り立ちや規模をじっくり観察させてもらいました。
                                                        2002/10/4

20.初めての北海道
 北海道には航空機を使わないと決めている身にしてみれば、時間のかかる旅は苦になりません。何度も行っている北海道ですが、最初に訪れたのは1973年8月19日でした。前日の朝に上野駅を常磐線経由の急行「もりおか」号で出発し、途中盛岡から青森まで乗り継ぎの急行に乗りました。青森からの青函連絡船にはもちろん初めて乗船となります。列車の中では連絡船での乗船名簿の配布が始まりました。ここで氏名を書くことが何か犠牲者名簿のようで異様な感じを味わいました。青森駅に着くと連絡船乗り場は前方にあり、皆足早に進んでいきます。遅れをとってはいけないとつられるように、歩幅とピッチは増幅していました。しかし・・・
 この日は台風が接近していて海は荒れ模様。当然連絡船は欠航状態です。しかし、乗船客は沢山待合室に待っています。尚も続々と人は増えていきます。初回の連絡船がこの状態ではこの先の旅はどうなるのでしょう。心配が全身を包み込んできました。出航までの時間はま充分にありそうです。駅員に案内されたのは旧型の客車を利用した列車ホテルでした。もちろん座席での仮眠程度しか出来ません。それから未明の頃になると、波も幾らか緩くなったとのことで出航のアナウンスが流れました。真っ先に船の中に突入です。船は広間のような部屋の形式と思っていたのですが、この連絡船にはゆったりした座席がありました。
 幾らか揺れて函館に入港してすぐに乗り継ぎの急行「すずらん」に乗り込みました。運良く座れたのですが、ボックス席の向かい側には外人さんが座っていました。ここから札幌まではまだ5時間位あります。どうしよう英語が話せない。話しかけられたらどんな単語で文法はどうだったっけ。などと思案をしきりに巡らせていました。これらの心配は全く不用なのはその直後に話し掛けられて解りました。彼は上智大学の講師をしている東欧出身の人で日本語がペラペラでした。当時は有珠山の噴火が話題の中心で、彼はその有珠山へと向かっていました。途中で別れを告げてまた独りの旅となりました。その後は札幌と函館の往復を夜行列車で行ったり来たりをして宿賃を浮かせました。札幌では観光バスに乗りここでも友達が出来たのです。
 初めての事は印象に強いものですが、独り旅ならではのトラブルと発見がありました。
                                                        2002/10/4

19.急行「高千穂」号
 題名の列車は現在では運行されていません。日本一の急行列車なのです。
1973年4月10日午前11時52分に西鹿児島駅から出発しました。もちろんこの列車に乗るために練りに練ったスケジュールを立てたのでした。この列車は東京行きなのです。面白いことに同じ駅から数時間後に出発する急行「桜島」号と小倉駅で合体して東京に向かいます。つまり、小倉以遠に行く人は高千穂号より桜島号に乗った方が西鹿児島駅を遅く出発出来るのです。それでも終着駅の東京駅まで乗るのに高千号に乗ったのは、やはり日本で一番長い路線長と乗車時間が体験したかったからでしょう。ホームの発車ベルが止み、静かに列車は走り出しました。鹿児島県から宮崎県・大分県・福岡県と進んでようやく日暮れ時です。この頃には、隣の席の人たちは降りてしまい、新たな隣人が現れたりします。さらに山口県・広島県・岡山県・兵庫県・大阪府と来た時刻で夜が明けました。また、京都府・滋賀県・岐阜県・愛知県・静岡県で早朝から午後の日差しを燦々と浴びていました。いよいよ神奈川県になり最後の東京都に入ってきました。東京駅には午後4時4分です。長い長い列車の旅は終了です。でもホームに降り立ったとき、すぐには歩き出せないほど座り疲れを感じました。こんな列車はもう二度と乗れないでしょう。
                                                         2002/10/5

18.ビスタカー
 近畿日本鉄道の特急電車は昔ビスタカーと呼ばれていました。一部二階建てで当時の憧れ列車です。その列車に乗る日が訪れたのです。1973年4月6日2早朝名古屋駅に東京からの夜行列車で着いたのです。その列車は確か3両編成の短いものでした。でも、この列車はノンストップ名阪特急と呼ばれる速達タイプです。名古屋を出ると大阪の玄関口の鶴橋まで止まらずにフルスピードで走ります。もう一つの特徴は早朝族には助かるモーニングサービスがあるのです。もちろんこのサービスは大変満足出来るもので車窓を眺めながらのパンとコーヒーの味は忘れられません。大阪にこのルートで訪れるのは初めてでしたが、通常とは違った良い思い出となりました。
 この旅行は決して大阪のみを訪ねたものではありません。この後は九州へと足を延ばして周遊していました。
                                                         2002/10/4

17.カメラを買いました
 子供の頃からカメラを持って写真を撮りたいと常々感じていました。少年時代にハーフカメラを買ってもらい旅の写真などを取りまくりました。しかし、どうしても一眼レフのカメラが欲しくなります。カタログを集めてスペックを比べてみます。そして、操作しやすいかどうか想像したりもします。アルバイトを重ねて何とか小金を手にすることが出来るようになりました。そして、1972年12月29日に念願の購入に向かったのです。購入店は以前から目を付けていた神田の駅前まで行き、普段から通り懸かりで展示してあるキヤノンFTbを買ったのです。ケースに入ったカメラを喫茶店で開けて手にしてみる。これが至福の時間だとしみじみ眺めてたり構えたりで嬉しかったことを覚えています。
                                                          2002/10/3

16.高尾山
 東京の西郊に高尾山が聳えています。山とは言っても標高は高くなく手軽にハイキング気分で上れます。1970年5月3日に友人と日帰りの登山でした。新宿から京王線に乗り高尾山口で下車をしてリフトで山頂を目指しました。それまでは聞いていたけど実際に登っていなかったのでどんな所だろうと思っていました。下山は徒歩と二人で決めて帰り道に就きました。この思い出は記憶の中では薄ぼんやりとしたものなので詳しく記載は出来ません。
                                                          2002/10/3

15.スキーに行こう
 若いときはスキーは憧れの的。列車に乗りゲレンデにシュプールを描く事をぼんやりとイメージしていました。その時は1974年2月でした。場所は長野県の菅平高原です。何故、菅平かと言えば柏市の高原の保養所があったからです。市役所で宿泊の予約をして出発となりました。
 交通手段は当然急行電車です。上野駅から「信州」号に乗り込みリュックを網棚に乗せて楽しい旅の始まりです。上田までの途中、横川駅での釜飯ダッシュも楽しい思い出です。3時間余りの車中は瞬く間に過ぎ去ってしまいました。下車してからはバスで唐沢の滝まで揺られ、そこからは徒歩での行程でした。すでに昼頃になっていましたが、菅平かしわ荘のジープ型乗用車でゲレンデまで乗せてもらいました。
 何しろ初めてのスキーです。友人は何度か経験があるようですが、決してスキーヤーと呼べる風貌も身のこなしもありません。借りたスキーの板は10年前には最新式(?)だったもの。ストックは竹製のしなやかな最新式です。靴はもちろん紐をぐるぐる巻く根気の必要なプロ仕様です。他の素人とは訳が違います。こちらはベテランの身なりなのです。滑る場所はもちろん傾斜が緩い所で、ストック無しでは止まってしまうくらいAクラスの上級者コースです。上方へはロープを捕まって頂上に向かいます。ほとんど誰も寄りつかないくらい傾斜のないゲレンデです。
 こんな所は面白くないとすぐに感じた我々は、リフトで別なゲレンデに向かいました。ここは東洋のダボスと呼ばれているほどの良質なゲレンデです。一度は直滑降や斜滑降を決めてみないことには来た甲斐がないと思いませんか。リフトは簡単に乗れました。ところが乗り方はマスターし易いのに、何故か降り方が解らない。前方の人のマネをすればいいんだ。と、解っていても体は別な力が反対に作動してしまいます。降りた途端スキーの板が前方へと進み体はリフトの椅子の位置のまま。当然次の瞬間は転んでいました。「まだ、滑ってもいないのに」と独り言。
 こんな体験は、その後何度かスキーに行って、幾らかでも滑れるようになった出発点でした。もちろん泊まった所も豪華で、翌年にもう一度行こうと心が動かされました。
                                                         2002/10/2

14.東北二人旅
 二十歳になって大学生活もエンジョイしているはずが、夏休みになると車の免許を取るための教習所通いに明け暮れていました。大学に通いながらの平日はなかなか行けなくて休日や夏休みには混んでいる状況では短期間に卒業する事が困難です。それでも、二ヶ月程度で教習所を卒業して、千葉市にある試験場に筆記試験を受けました。何とか一発で合格できてホッとして帰宅すると、その日は夜行での旅行出発日です。
 東北の旅は物心が付いて初めての宿泊旅行です。まず友人と上野駅で列車を待ち会津若松行きのばんだい号に乗り込みました。この列車で行けば早朝に会津の観光に入れます。まだ寝ぼけた状態で、野口英世記念館・猪苗代湖と巡ってその日の夕方に郡山駅に向かいました。次の列車は青森行きの夜行です。待ち時間は数時間にも及ぶもので、ただ待合室に籠もっていました。この時間は長く、出入りする若者達に対して恐怖感も感じたりしました。
 明朝は青森から八甲田・十和田湖と巡りました。十和田湖の紅葉には早すぎたのですが、遊覧船から見る森の様子は、素晴らしく感じました。更に夜更けに青森駅へと帰って、また夜行列車です。次の早朝の土地は、仙台に降り立ち松島の観光船などを経験しました。さすがにこの時分になると宿に泊まらなければということとなったのですが、料金が高いので考えてしまいます。友人と話し合った結果、グッドアイディアが浮かびました。また夜行です。この夜行列車は周遊券で旅をしているものには過酷な夜行ですが、ものは考えようです。それは、平らまで行きそこから折り返しの夜行に乗ると言うものなのです。夜行の乗り継ぎで戻って来たのです。その時の列車は満員でデッキに寝ていたこともありました。今度は仙山線に乗り換えて山寺などを見て一旦二人は別行動をしました。山形から新潟へ更に秋田までと列車を乗り継いで友人と再会しました。秋田からの行動もなおも続く夜行列車です。一旦福島まで行きそこから折り返しの夜行で大曲へと到着しました。大曲には早朝に着いたので盛岡・宮古と列車を進めて浄土ヶ浜の見物です。
 最終日が近づいて盛岡からの列車に乗り込みました。これが最後の夜行列車です。上野に翌朝到着した頃は睡眠不足・脱力感・風呂に一度も入っていないことによる垢だらけの体臭は最悪の二人です。きっと周りの人たちは異様な二人を奇異な目で見ていたことでしょう。
 結局6連続夜行列車の旅は安く体験出来てその後の独り旅のパターン創りに役に立ちました。1972年9月4日から10日までの貧乏旅行ですが、人間形成の上には心豊かになったと思います。
                                                           2002/10/1

13.アルバイト
 アルバイトは学生時代の特権のようになっていました。現代のようにフリーターと呼ばれるような風潮は無かったのです。生活のため或いは小遣い稼ぎのためなどに利用しましたが、主となるものはやはり旅行へと消えてしまいました。中期のアルバイトで数万円を稼ぎ出し、旅行の費用としたのです。最初はちょっとしたきっかけでレコード屋の店員です。お客さんとのやりとりは不慣れなことと恥ずかしさで困惑したことを覚えています。二度目も同じ事をしていました。その時はある程度は慣れてきたので一ヶ月間続けることが出来ました。他には駅の小荷物取り扱い、デパートでの売り子、梱包屋、カレー屋、タバコ屋、おもちゃ屋、ゴルフ場のキャディー、証券関連会社、そのライバル会社、郵便局での仕分け、パン工場、五月人形屋などです。結局年齢の数だけアルバイトの経験を積むことが出来ました。最後の仕事は偶然にも視聴率会社のビデオリサーチでの勤務でした。放送局へのお使いや広告会社の出入りをして、社会の一端を垣間見た思いです。さらに表作りなどでも任せられて、悦に入ったこともありました。約一年近くの日々はその後の自分の人生にも大きく影響をもたらせてもらったと思っています。その間にも旅行へは何度も出かけることが出来て青春の1ページを刻んでいました。成長過程から社会へと羽ばたく課程の一時期はその後の人生にとって大きなステップになりました。
                                                            2002/9/23

12.伊勢志摩名古屋
 1971年夏の旅行は伊勢参りから鳥羽と名古屋へと巡りました。旅の始まりは8月19日で、毎度のこととなった東京駅から夜行の銀河です。名古屋で降り立ちきしめんをほおばることとなったのです。初めて食べたきしめんは何とまずい食べ物かと感じました。それ以来この人生の中で一度しか食しては居ない食べ物となりました。
 名古屋からは近鉄の急行電車に乗り込みます。赤みがかったボディーカラーの電車は乗客の閑散とした車内をほとんど空気を運んでいるかのようでした。停車駅は数少なく快適なものとなりました。宇治山田までそのまま運転しているので、朝早い内に伊勢参りへと行けそうです。はて、これから何処に行ったら神宮があるのだろう。その時に目にしたのがタクシーでした。借り切りの観光タクシーとして5000円での契約が成立して、いざ内宮へと向かわせたのです。
 内宮は町からは離れていて駅前の外宮とは対照的です。勘違いしてしまうほどの神宮でした。初めての神宮は広いことと奥行きの深いことがすごく印象的でした。参拝は簡素化にて終了。
 伊勢の名物の一つに二見浦があります。絵や写真では何度か見たことがありましたが、実物を見て以外に小さいので少々ガッカリ。でも、ここでの初日の出やしめ飾りを見ていると間違いなく女夫岩です。そこから駅まで戻りタクシーを捨てました。さらに鳥羽へと進んで行くと海岸美と水族館やパールでおなじみの町です。この頃になると、早朝は小雨だった空模様も本格的な降りへと変化してきました。
 そろそろ名古屋へ行こうと言うことになって、時刻表を見つめていました。ここで近鉄に乗るからには是非とも乗ってみたかったビスタカーです。念願が叶って特急の車内です。胸は高鳴り至福の時間の始まりです。早速名物のおしぼりが配られてきました。今では当たり前で工夫の存在ではないこのサービスは、近鉄が最初に考案したものなのです。アッと言う間に名古屋に着いたことは余韻を楽しむことも中途半端な気分でした。その晩は駅の案内所で紹介してもらった木賃宿へと潜り込みました。
 翌日は雨も上がり市内観光のバスに乗り、名古屋城・熱田神宮などを見物して楽しい旅行は終わりました。
                                                            2002/9/17

11.逗子海岸
 夏の海水浴は若者としては楽しみでした。海岸が近くにないとプールでの水泳を楽しむしか無いのです。たまには海に行って海水浴をしたいと思っていました。高校一年生の時友人と二人で逗子の海岸に海水浴をするために出かけました。東京駅から横須賀線に乗り逗子駅に降り立ち目指す海岸へと歩みを進めました。遠浅の穏やかな海で人が多いことを覚えています。数時間の浜辺での一時を楽しみ、帰りの支度をして帰路へと就きました。途中横浜で途中下車をして駅前を散策と洒落込んだのでした。ここでちょっとした事件が起こったのです。友達と軽い口論となり怒った彼は1人で席を立ってしまったのです。1人になってしまいました。やむなくそこからの行程は1人でとなってしまったのです。無事家に着いて暫くしたら、その友人がまだ家に帰ってこないとその家の人から連絡が入りました。たかが横浜くらいで迷子になるとは思っても居ませんでした。後で聞いたら横浜からの帰り方が分からず東京の親戚の家に行っていたそうです。しかも、喧嘩の直後に戻って来たそうです。友達同士は口論しても結局は信頼しているものなんだなとつくづく感じました。
                                                             2002/9/15

10.奥多摩湖
 奥多摩に湖があります。その湖に行くには当時の氷川駅からバスに乗って行くほど遠いのです。高校生の頃友達とその湖に行きました。柏から常磐線に乗り、日暮里から山手線、更に新宿から中央線、最後は立川から氷川へと何本も乗り継いでの旅でした。片道でも3時間位掛かる行程でした。初めて見たときはダム湖の素晴らしさを初めて知りました。大きな水瓶が山の中にある風景は何とも言えないものでした。その何年後かにもう一度行ったのですが、更に感動を覚えたことを実感しました。
                                                             2002/9/15

9.日本万国博覧会
 1970年は日本で開催の最初の国際博覧会の年でした。3月の開会から連日報道が続いて国民の多数の人が挙って見に行ったものでした。もちろん行きたくなっていたので宿の手配や交通の事などを研究していました。宿は昔の知り合いが大阪に居て電話でお願いをし、列車は国鉄の回遊券を買うことに決めました。出発は8月15日に決まりました。まだ高校生だったので母親と叔母を伴い京都までの夜行列車で旅の始まりでした。京都に早朝に着くと、まず観光バスによる市内見物です。しかし心はすでに万博会場へと向かっていました。やっと昼過ぎになり会場に到着しました。そこは、報道以上に混雑が激しく何処をどう歩いて良いのか分からずに目を丸くするばかり。いくつか巡った後、入れた大きな建物はソビエト館くらいでした。
 2日目は入り口を入ってから左方向に全速力で走ります。それは超目玉である、アメリカ館の月の石などを見ながら一日中会場内をうろついていました。雨が降り出しても平気なくらいあちらこちらのパビリオンを渡り歩きます。
 3日目は1人でまたまた会場内を徘徊の状態でした。たった3日間でしたが一通りは見て回ることが出来て良かったと思いました。帰りの新幹線では余韻を楽しみながら家路に就くことが出来ました。
                                                             2002/9/14

8.勝浦の民宿
 中学三年生の時夏休み前までは、何処にも行かずに過ごしていました。もともと何処かに行きたくても行けるような環境ではありませんでした。
 さて、その夏休みは偶然にも海へと行くチャンスが巡ってきたのでした。付き添いは親戚の叔母さん達でした。場所は千葉県の勝浦市です。一旦東京の両国駅から列車に乗り、勝浦までの旅行です。ディーゼル列車は真夏の気温をそのままに窓を全開にしても風が強いだけで涼しさはあまり感じませんでした。でも、海で泳げることを思えば全く苦にはなりません。いよいよ目的の民宿に着いて目の前の海岸へと海水浴です。大きなチューブの浮き輪を借りて沖合へとぷかぷかしていきました。当時は沖合と思っていても実際はせいぜい50メートル程度しか海岸と離れていなかったようです。その晩はぐっすり眠ることが出来ました。
 次の日は行川アイランドに訪れてフラミンゴショウと孔雀の飛行を見物して帰り道に就きました。この旅行記を夏休みの宿題での作文としました。その文章の長いことといったら原稿用紙10枚くらいでした。それを学校に提出したことが命取りとなってしまいました。その文章をクラス全員の前で発表と相成ってしまいました。お〜 恥ずかしい・・・
                                                              2002/9/12

7.魚釣り
 釣りは今まで一度だけ経験があります。それは、中学一年生の時でした。友達のT君と釣りをしてみようと言うことになったのです。それまで全く釣り針も触ったことが無いのに、竿と浮きと糸などを専門店で買い回りました。どのようなものが良いのかも分からず何を釣るかももちろん分からないのです。そして日曜日の早朝、柏から取手行きの電車で終点まで乗ったのでした。取手は駅から利根川まで歩いて行ける距離なので選んだのです。駅前で餌となる赤虫を買い込みいよいよ河原へと歩みを進めました。一通りのセットをした後に、釣り針に餌を引っかける事がなかなか上手に出来ませんでした。第一気持ち悪いことがその時になって初めての体験で分かりました。さて、これからしばらく糸を垂らして魚が掛かるのを待つばかりです。1時間して何の応答もありません。もちろん一緒に居る友達も同様です。結局、飽きたのと何時間も釣れなかった悔しさで昼前にはさっさと引き上げてしまいました。それからは釣り竿を何処に仕舞ったのかも分からないほど釣りとの縁はなくなりました。しかし、この体験は何故か鮮明に覚えていることの一つです。
                                                              2002/9/9

6.熱海
 温泉と言えば熱海温泉は大分昔の話となってきました。子供の頃に熱海に行ったことがあります。東京オリンピックも間近と迫っている頃、東京駅から急行電車に乗り熱海駅に降り立ちました。その日の宿泊はホテル精観荘でした。当時のテレビでも宣伝していたくらい有名なホテルだったのです。今ではそのホテルは無くなり熱海の名声も同時に地に落ちてしまったようです。そのホテルはプールを備えていてリゾート気分は満点となりました。こんな立派な温泉地で夏休みが過ごせたなんて最高の気分でした。明けて2日目は熱海城にも行き、旅の楽しさが芽生えてきました。帰りは小田原からのロマンスカーで新宿までと、これまた豪勢な旅の思い出が出来ました。
                                                              2002/9/7

5.遠足
 小学校の頃の思い出は毎年の遠足でした。幼稚園はくるみ幼稚園といって、バスで通っていました。遠足は上野動物園です。そのころの事は全く覚えていませんが、集合写真があるのでそこに行ったのだろうと自分史の中では認識しています。
 学校に上がると各学年で近場からの遠足となります。まず、一年生は野田市にある清水公園です。近隣の大規模公園は他にはなく一年坊主には丁度良い遠足なのでしょう。これも覚えていない事になります。二年生は谷津海岸に行きました。このときはアサリを捕ったとを、よく覚えています。三年生は筑波山に登りました。遠足は毎年原則として4月から5月ごろに行くのでこの筑波山へは当然山頂の寒さなんかは知る由もありません。でも、薄手のセーターを持たされて登って行きました。友達との記念撮影の腕白写真が残っています。四年生は東京港と羽田空港へと行きました。当時の担任の先生は皆の友達のようで楽しかったことを覚えています。五年生は富津の東京湾観音に行きました。当時の道路はまだ整備が遅れていて時間もかなり掛かりました。バスに揺られてのガイドさんとのおしゃべりや歌を歌った思い出も蘇ります。
 六年生は修学旅行となって初めての宿泊旅行です。場所は日光で生まれて初めての観光地見学でした。行きも帰りも東武電車で柏から野田線日光線へと臨時の乗り入れ車両でした。泊まった宿は泉屋旅客で中禅寺湖の畔にあり見学の全てが鮮明に覚えています。
 中学生になると単なる遠足が気分的に変化してきました。やはり男の子の自我が出てくるのでしょう。バスに乗っていてもやや乱暴な振る舞いをしてみたりしていました。一年生は大洗海岸に行きました。原子力研究所などにも見学に訪れたりと当時では先進のコースでした。二年生は長瀞へとバスで見学しました。今でもその道路コースは覚えています。
 三年生は京都・奈良の修学旅行です。行きも帰りも品川〜京都間の修学旅行専用列車の「ひので」号です。この車両は今の新幹線普通車の座席と同じ4人・6人のボックスシートなんです。幅は在来線型なので、やたらに狭さが気になります。しかも、帰りの列車は夜行なのです。初めての夜行列車は、その後の旅行体験に大きな影響を受けました。
                                                              2002/9/7

4.初めての一人旅
 高校三年生は大学受験のために勉強しなければならなかった。しかし、勉強は嫌いでしている振りというのが正直なところ。そんな結果が全滅となり浪人生活が待ちかまえていました。決して浪人を希望していたわけじゃないのに、何故か納得していました。そんな灰色の世代なのに、独り立ちできたと勘違いしていた半人前の自分自身に、新たな体験の場を作ることが出来ました。それは1人旅。今までは1人で電車に乗ることは出来ても、また旅をする事を憧れていても、その体験は出来ませんでした。幸運にも予備校の始まるまでには多少の時間はあります。その春先の時期に決行しました。まず、目的地は以前から電車に乗るための旅行なので大阪となり、宿泊施設は金銭的理由からユースホステルにしました。ともに、事前の手続きが必要なのですが切符は前年の万博での回遊券から変身した京阪神周遊券と決定。ユースホステルは会員登録を市ヶ谷まで行って済ませました。
 いよいよ、出発の日です。東京駅から急行銀河に乗り込み旅の始まりとなりました。しかし、何処か楽しさは無いのです。不安感が心の底から湧いてきてしまうのです。何故なんだろう、好きで旅行に出たのに早くもホームシックに掛かるなんて、と後悔の念が悲しみとなっている気持ちでした。列車は明け方になってもまだ西へと走っています。まだ大阪には到着していません。一駅毎に景色は変わり東京近辺とは様相が全く違うものとなっていました。
 それでも大阪に着けば、好きな電車が一杯乗れることで気が紛れてきました。国鉄の電車は乗り放題。私鉄には切符を買ってターミナルから次のターミナルへと乗りまくり。それが目的の旅なのです。一日中電車に乗り疲れて、その日の宿泊地の曽根駅へと阪急に乗りました。あたりは夕暮れになりつつあります。事前に調べておいた服部緑地のユースまで雨の中を徒歩で歩いて行きました。
 建物が見えて、いざ玄関へと進んで行きました。ここで二度目の不安感が襲ってきました。初めての1人旅で、誰1人も知らない中に飛び込まなくてはいけないのです。「今晩は」と声を掛けても皆恐く見えてしまいます。「君、そのまま入っておいで」と優しく声を掛けてくれても「はいッ」と言う言葉が微かに空気の振動となるくらいです。ここで大失敗が発生してしまいました。そのままと言う言葉で靴のまま上がってしまったのです。もちろん靴は脱がなくてはいけないことは知っていたのに全く自己を失って舞い上がってしまいました。部屋番号を知らされて入った部屋は6人部屋です。既に学生風のがいます。もちろん年上のグループの中に入れる訳はなく1人孤独を決め込んでしまいました。
 翌日も同じユースでしたがさすがに二泊目となれば勝手知ったる所となり不安は吹き飛んでしまいました。同士の別な1人旅の青年ともうち解けて話も出来ました。
 帰りもやはり夜行列車で大阪駅を後にする時間が迫ってくると何とも言えない妙に心残りの寂しさが体中を包んでいます。おみやげを買うときも大阪では値切るのが当たり前とばかりにチャレンジしても敢えなく惨敗の結果となります。東京行き銀河は次の朝には終着駅にと向かいました。
                                                             2002/9/6

3.夜行列車
 東京駅から夜行の列車は沢山ありました。西鹿児島行き・長崎行き・熊本行き・博多行き・下関行き・広島行き・宇野行き・出雲市行き等です。その中の一つ、「銀河」号は電気機関車が牽引して西へと走っていきます。もちろん寝台などは乗りません。座席も硬めのもので決して乗り心地などと基準を考えてはいけないのです。その列車は大阪へと向かいますが僕は乗っている間中起きて窓の外を見ています。すれ違いの列車は頻繁に来るのです。そのすれ違いも種類が数多く、次の列車は何だろうと予想するのも楽しみとなります。最初のうちは通勤型の湘南電車や横須賀線などで次第に貨物列車が多くなります。特に名古屋付近からは旅客列車が全く無くなり、貨物列車オンリーとなります。通常では本数も少なくなるところですが、流石は東海道線です、貨物列車のすれ違い間隔が2〜3分おきにあるのです。ほとんどがコンテナ形式で、眠気が襲ってくる時間にも関わらず見とれてしまいます。今でも時々思い出す光景です。
                                                             2002/9/6

2.幼いとき
 旅行に行きたくても行く環境もなく、小さな冒険をする程度がやっとと言う、可愛いものでした。でも自分では記憶にない旅行から始める。
 まだ、三歳頃のときに宮城県の松島に旅行したことがあったようだ。あったようだとは母親から聞いたこととそのときの写真がかろうじて残っていたからです。
                                                            2002/1/13

1.乗り物と旅
 旅に出かけるときは交通手段から入ることとしている。なぜかと言うと期日・場所・天候によって変わる可能性があるからだ。これから紹介する旅の経験はそれらを考慮して計画を立てさらに実行した記録である。
 古来人が旅というものを実感したのは、まず自分の住んでいた場所から違う場所に移動したことから始まる。もちろんその時代は徒歩での移動です。次に時代が移ると動物を利用しての移動である。馬に跨り或いは牛に車輪付きの台を牽かせての移動である。この頃になると移動距離は大幅に伸びて広く移動が行われていた。さらに時代が進みいよいよ現代でも通用する機械を利用した移動手段の登場です。今では当たり前の自動車などの内燃機関や電車などのモーターが発明されたからで。現在ではガソリン・軽油・水素・電気・太陽エネルギーなど多様なエネルギーを利用して多彩な移動道具が発達しています。
                                                             2002/1/13