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【特集】『律令国家の胎動 ・ 天智天皇』


 ■ 略系図 ■

 欽明天皇
  ┃
  ┃
  ┣敏達天皇━┳押坂彦人大兄皇子┳舒明天皇━━━━━━━━━━━┓
  ┃
敏達天皇━糠手姫皇女兄皇子┗茅務王━┳皇極天皇━━━━━━
  ┃
敏達天皇━糠手姫皇女兄皇子┗茅務王━┗孝徳天皇━有間皇子
  ┃
敏達天皇━┗糠手姫皇女━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ┣用明天皇━━厩戸皇子━━━━山背大兄王
━━━━━━━━━━
  ┣推古天皇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ┣穴穂部皇女
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ┗崇峻天皇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ┗崇峻天皇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┃
  ┣古人大兄皇子━倭姫王
  ┣天智天皇━━┳大田皇女
  ┃
天智天皇━━┣持統天皇
  ┃
天智天皇━━┣建皇子
  ┃
天智天皇━━┣弘文天皇━━葛野王
  ┃
天智天皇━━┣御名部皇女
  ┃
天智天皇━━┣元明天皇
  ┃
天智天皇━━┣飛鳥皇女
  ┃
天智天皇━━┣新田部皇女
  ┃
天智天皇━━┣山辺皇女
  ┃
天智天皇━━┣大江皇女
  ┃
天智天皇━━┣川島皇子
  ┃
天智天皇━━┣泉皇女
  ┃
天智天皇━━┣水主皇女
  ┃
天智天皇━━┗施基皇子━━光仁天皇┳桓武天皇
  ┃
天智天皇━━┗施基皇子━━光仁天皇┣早良親王
  ┃
天智天皇━━┗施基皇子━━光仁天皇┗他戸親王
  ┣間人皇女
  ┗天武天皇━━┳高市皇子━━長屋王
  
┗天武天皇━━┣十市皇女
  
┗天武天皇━━┣草壁皇子━┳元正天皇
  
┗天武天皇━━草壁皇子━┗文武天皇━聖武天皇┳孝謙天皇
  
┗天武天皇━━草壁皇子━┗文武天皇━聖武天皇┣某皇子
  
┗天武天皇━━草壁皇子━┗文武天皇━聖武天皇┣井上内親王
  
┗天武天皇━━草壁皇子━┗文武天皇━聖武天皇┗不破内親王
  
┗天武天皇━━┣大伯皇女
  
┗天武天皇━━┣大津皇子
  
┗天武天皇━━┣長皇子
  
┗天武天皇━━┣弓削皇子
  
┗天武天皇━━┣舎人皇子━━淳仁天皇
  
┗天武天皇━━┣新田部皇子┳塩焼王
  
┗天武天皇━━新田部皇子┗道祖王
  
┗天武天皇━━┣穂積皇子
  
┗天武天皇━━┣紀皇女
  
┗天武天皇━━┣田形皇女
  
┗天武天皇━━┣忍壁皇子
  
┗天武天皇━━┣磯城皇子
  
┗天武天皇━━┣泊瀬部皇女
  
┗天武天皇━━┗託基皇女

 ※ 皇極天皇は重祚し斉明天皇、孝謙天皇は重祚し称徳天皇



 父・田村皇子(舒明天皇)、母・宝皇女(皇極天皇)。

<推古天皇34(626)年>
 誕生。葛城皇子、開別皇子と呼ばれる。

 5月20日、蘇我馬子、死去。

<舒明天皇元(629)年>
 正月4日、田村皇子、即位。

 中大兄皇子と呼ばれ「大兄」の地位に就く。

 舒明天皇の即位に当たっては、
 田村皇子(=舒明天皇)を推す
 蘇我蝦夷・阿倍麻呂・大伴鯨・采女摩礼志・
 高向宇摩・中臣弥気・難波吉士身刺らと、
 山背大兄王を推す
 境部摩理勢・許勢大麻呂・佐伯東人・紀塩手らが対立する。

 この時、蘇我倉麻呂は態度を保留した。

 山背大兄王は猛然と抗議し皇位に執念を見せる。

 しかし推古天皇の遺詔をもってして田村皇子が後継に決まる。

<舒明天皇2(630)年>
 正月12日、宝皇女を皇后とする。
 8月5日、犬上御田鍬を遣唐使として唐に派遣。
 10月12日、飛鳥岡本宮に遷座。

<舒明天皇3(631)年>
 3月1日、百済王子・豊璋が人質として来日。

<舒明天皇4(632)年>
 10月4日、唐からの返礼使・高表仁、難波津に到着。
      (翌年正月26日、帰国)

<舒明天皇8(636)年>
 6月、岡本宮、焼失。
    田中宮に遷る。

<舒明天皇11(639)年>
 7月、百済宮と百済大寺の造営を始める。

<舒明天皇12(640)年>
 4月16日、厩坂宮に遷る。
 10月、百済宮に遷る。

<舒明天皇13(641)年>
 10月9日、舒明天皇、崩御。

 中大兄皇子が誄を奉る。

<皇極天皇元(642)年>
 正月15日、宝皇女、即位。
 9月3日、皇極天皇は蘇我蝦夷に百済大寺の造営を命じる。
 9月19日、皇極天皇は蘇我蝦夷に板蓋宮の造営を命じる。
 12月21日、小墾田宮に遷る。

<皇極天皇2(643)年>
 10月6日、蘇我蝦夷が息子の入鹿に紫冠を与える。
 10月12日、蘇我入鹿は山背大兄王を廃し、古人大兄皇子の即位を計画。
 11月1日、『山背大兄王襲撃事件』勃発。

<皇極天皇3(644)年>
 正月元旦、中臣鎌子(鎌足)は神祇官に任命されるも固辞する。

 法興寺の蹴鞠で中大兄皇子と鎌足は出会う。
 また周囲の目をごまかすため南淵請安の所で学び、
 打倒蘇我政権の密議を巡らせた。

 鎌足の献策で、蘇我倉山田石川麻呂と姻戚関係を結ぶ。
 最初は長女と婚姻するはずであったが、
 身狭に略奪されてしまい、次女・遠智媛と婚姻する。

蘇我倉山田石川麻呂

 また鎌足は、中大兄皇子に、
 佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田を配下とするように薦めた。

 11月、蘇我蝦夷・入鹿親子は甘橿岡に館を建て、
    館を「宮門(みかど)」と呼び、
    子供たちを「王子(みこ)」と呼んだ。

<皇極天皇4(645)年>
 6月8日、中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂に暗殺計画を打ち明ける。
 6月12日、「三韓進調」の儀式を偽り飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺。
 6月13日、蘇我蝦夷は自分の屋敷に火をかけ自害。
 6月14日、皇極天皇は退位。弟・軽皇子(孝徳天皇)が即位。
      皇極天皇には「皇祖母尊」の称号が贈られた。

 改新政権の誕生である。

  皇太子・・・中大兄皇子
  左大臣・・・阿倍内麻呂
  右大臣・・・蘇我倉山田石川麻呂
  内大臣・・・中臣鎌足
  国博士・・・高向玄理・旻

 当初、皇極天皇は中大兄皇子への譲位を考え、
 皇子も受けいれるつもりであったようだが、
 中臣鎌足の進言により、天皇の弟である軽皇子を推薦した。

 軽皇子は古人大兄皇子の存在を理由に、
 なかなか承知しなかった。

 古人大兄皇子は出家し吉野へ篭る。

古人大兄皇子

 6月15日、元号を「大化」と定める。
 6月19日、天皇・皇祖母尊・皇太子が、
      飛鳥寺西の大槻樹の下で群臣を集めて誓明する。
 7月2日、孝徳天皇は間人皇女を皇后に立てる。
 9月12日、吉野の古人大兄皇子は謀反を理由に殺害される。
 12月9日、都を飛鳥から難波長柄豊碕宮へ遷都する。

<大化2(646)年>
 正月元旦、「改新之詔」発布。

 【改新之詔】

 1) 公地公民制

    皇室が所有する子代の民・屯倉、
    豪族の所有する部曲の民・田荘といった私地・私民の廃止。

    代償として大夫以上には食封、以下の官吏・百姓には布吊を支給。

 2) 中央集権国家への移行

    京師を修め、地方行政を統治。
    対外国・辺境地域の防衛力の整備。
    全国規模での交通網拡充と整備。

 3) 班田収授法

    国家としての戸籍の作成。
    班田法の制度の導入。

 4) 税制改革

    田からの調、またそれ以外の税の全国統一規定。

 これらの急進的な改革は、各方面の反発を招くこととなった。

 ※「改新之詔」について

   この「改新之詔」は主文4条、副文14項から構成されている。
   律令国家制度確立に向けての詔勅であるが、
   内容は極めて具体的に書かれており、
   私有地・私有民の廃止、中央集権による地方の統治、
   戸籍作成と税制改革である。

   しかし律令制度の根幹をなす
   官僚制度についての規定が全く抜け落ちており、
   8月に出された世襲制度禁止の詔により補足された形となっている。

   また律令国家としての統一国家を目指すことは、
   国の中央が指揮権を持つ「国軍」の創設をも意味していた。

 8月、品部廃止の詔。

    世襲制度を廃止するという内容。

 12月、東宮(皇太子の宮)で火災が発生する。

<大化3(647)年>
 「十三階の冠位」を制定。

 「大織冠・小織冠・大繍冠・小繍冠・大紫冠・小紫冠・
  大錦冠・小錦冠・大青冠・小青冠・大黒冠・小黒冠・建武冠」

<大化5(649)年>
 2月、「十三階の冠位」を「十九階の冠位」と改める。

 「大織冠・小織冠・大繍冠・小繍冠・大紫冠・小紫冠・
  大花上冠・大花下冠・小花上冠・小花上冠・
  大山上冠・大山下冠・小山上冠・小山下冠・
  大乙上冠・大乙下冠・小乙上冠・小乙下冠・立身冠」

 さらに「八省百官」を設置。

 3月17日、左大臣・阿倍内麻呂、死去。
 3月24日、蘇我日向が中大兄皇子に対して、蘇我倉山田石川麻呂を讒言。

 天皇は、大伴狛・三国麻呂公・穂積噛を使者として、
 蘇我倉山田石川麻呂を糾問。
 遂には兵を派遣。
 蘇我倉山田石川麻呂は大和国へ逃亡、山田寺を目指す。

 3月25日、蘇我倉山田石川麻呂は嫡子・興志らと共に自害。
 3月26日、蘇我倉山田石川麻呂らの後を追い自害する者が出る。
 3月30日、蘇我倉山田石川麻呂の謀反に連座し23人が死罪、15人が流罪。
 4月、左大臣に巨勢徳陀、右大臣に大伴長徳を任命。

大伴長徳

<大化6(650)年>
 2月9日、長門国から白雉が献上される。
 2月15日、元号を「白雉」と改元。

<白雉3(652)年>
 9月、難波長柄豊碕宮、完成。

<白雉4(653)年>
 5月12日、遣唐使を派遣。
 6月、旻、死去(白雉5年7月説あり)。

 中大兄皇子は難波から飛鳥へ帰還。
 孝徳天皇は難波宮に置いていかれる。

<白雉5(654)年>
 2月、遣唐使を派遣。遣唐押使に高向玄理(この後、唐で死去)。
 10月10日、孝徳天皇、崩御。

<斉明天皇元(655)年>
 正月3日、飛鳥板葺宮にて皇極天皇が即位(斉明天皇)。

<斉明天皇2(656)年>
 前年末に板葺宮が焼失したため、後飛鳥岡本宮(両槻宮)を造営。

<斉明天皇3(657)年>
 9月、有間皇子、発狂。

有間皇子

<斉明天皇4(658)年>
 正月13日、左大臣・巨勢徳陀、死去。
 4月、阿倍比羅夫が蝦夷を征伐する。
 5月、建皇子、早世。
 10月15日、天皇、中大兄皇子ら一行は紀伊へ湯治に出向く。
 11月3日、蘇我赤兄は有間皇子に謀反を持ちかける。
 11月9日、蘇我赤兄は有間皇子を捕縛、紀伊へ送致する。
      中大兄皇子は自身で取り調べをする。
 11月11日、有間皇子は藤白坂で絞首刑にされる。

<斉明天皇5(659)年>
 3月17日、須弥山を造営。
 7月3日、遣唐使、派遣。

<斉明天皇6(660)年>
 5月、中大兄皇子、漏刻を設置し時間を知らせる。
 9月5日、百済遺臣から救援要請を受ける。

<斉明天皇7(661)年>
 正月6日、天皇一行は九州へ出発。
 正月8日、大伯で大海人皇子の妃・大田皇女が女子を出産(大伯皇女)。
 3月25日、娜大津到着(長津と改名)。
 5月9日、朝倉橘広庭宮に遷る。
 7月24日、斉明天皇、崩御。

 斉明天皇の崩後、中大兄皇子は即位せず、
 称制のまま国家の大権を持ち運営に当たった。
 一方、妹である間人大后が即位し、
 中大兄皇子が実権を持って国家運営に当たったとする説もある。

 9月、百済王子・豊璋に「織冠」を授与。

<天智称制元(662)年>
 5月、阿曇比邏夫らが軍船170隻で豊璋を百済へ護送。

<天智称制2(663)年>
 6月、豊璋は将軍・鬼室福信を殺害。
 8月27日、『白村江の戦』で大敗。

 この敗戦は「大化改新」により創設された「国軍」の敗北であり、
 中大兄皇子ら政権中枢に大きな衝撃を与えたであろう。

<天智称制3(664)年>
 2月9日、冠位を「十九階」から「二十六階」にする。

 「大織冠・小織冠・大縫冠・小縫冠・大紫冠・小紫冠・
  大錦上冠・大錦中冠・大錦下冠・
  小錦上冠・小錦中冠・小錦下冠・
  大山上冠・大山中冠・大山下冠・
  小山上冠・小山中冠・小山下冠・
  大乙上冠・大乙中冠・大乙下冠・
  小乙上冠・小乙中冠・小乙下冠・大建冠・小建冠」

 「氏上」「民部」「家部」を設置。

 5月17日、百済に進駐した唐の将軍・劉仁願は使節を送ってくる。

 この使節派遣は、和平交渉が目的であったようである。

 この年、西日本防衛のため、対馬・壱岐・筑紫に「防人」「烽」を設置。
     筑紫には「水城」も設置。

 中大兄皇子は、和平交渉を優位に進めるために、
 百済からの亡命者を動員し西日本に軍事施設を多く建設、
 唐に渡海後の軍事行動の困難さをアピールした。

<天智称制4(665)年>
 2月25日、間人大后、死去。
 8月、長門・筑紫に「城(き)」を設営。
 9月23日、唐は254人もの外交使節団を派遣してくる。

<天智称制5(666)年>
 3月、危篤の佐伯子麻呂を見舞う。

<天智称制6(667)年>
 3月19日、都を飛鳥から近江国大津へ遷都。

<天智称制7(668)年>
 正月3日、即位(天智天皇)。
 2月23日、倭姫王を皇后とし、大海人皇子を皇太弟とする。

 5月5日、蒲生野に狩りに出かける。
 7月、栗隈王を筑紫率に任命。

<天智天皇8(669)年>
 正月9日、蘇我赤兄を筑紫宰に任命。
 5月5日、山科に狩りに出かける。
 10月10日、藤原鎌足を見舞う。
 10月15日、藤原鎌足に「大織冠」「大臣」「藤原姓」を授与。
 10月16日、藤原鎌足、死去。

 この年、唐から2000人もの外交使節団が来る。

<天智天皇9(670)年>
 2月、「庚午年籍」完成。
 4月30日、法隆寺全焼。

<天智天皇10(671)年>
 正月5日、大友皇子を太政大臣に任命。

大友皇子

  左大臣・蘇我赤兄
  右大臣・中臣金
  御史大夫・蘇我果安、巨勢人、紀大人

  事実上の後継政権が作られる。

 この人事では皇太弟・大海人皇子が、
 除外され内外に大友皇子こそが次期天皇であることを、強く印象づけた。

 結果、後継政権は、
 天智天皇の推進してきた律令制への不満を持つ旧来の豪族と、
 天智天皇により政権から除外された大海人皇子が結託するという危険を、
 抱えての船出となってしまった。

 4月25日、漏刻により時刻を報せる。
 9月、病床につく。

万葉集 巻二 147 万葉集 巻二 148

 10月17日、大海人皇子を枕元に呼び、後事を託す。
      大海人皇子は固辞し剃髪する。
 10月19日、大海人皇子は出家し吉野へ向かう。
 11月、唐より使者が来る。
 12月3日、崩御。

 律令制度による統一国家を夢見た天智天皇は、
 夢の途中でその志を我が子・大友皇子に委ね、その波乱の生涯を終えた。

 この後、勃発した『壬申の乱』により大友皇子は自害し、
 天智天皇が築き上げた近江大津京も消え去ってしまう・・・。

 しかし、その遺志は、
 以後の大海人皇子(天武天皇)の政権に受け継がれていく。

 天智天皇の存在がなければ、
 日本が律令国家の完成を見るまで、
 もっと多くの時間を費やしたことは間違いないであろう。



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