田辺城攻略戦

たなべじょうこうりゃくせん

安土桃山時代。
慶長5(16000)年に行われた小野木公郷による田辺城攻略戦。

《小野木軍 15000》

 総大将:小野木公郷

《田辺城軍 500》

 総大将:細川藤孝(幽斎)
 長岡妙庵・三刀谷孝和・北村甚太郎・沢田次郎助


《戦況推移》

<発端>

 慶長5(1600)年、徳川家康が「会津征伐」のために東下。
 その隙を突く形で石田三成が中心となり反・家康の兵を挙げる。
 三成は、大坂に残っている家康に従軍した諸大名の妻子を、
 人質として確保することを企図。

 7月17日、人質となることを逃れるために細川忠興の妻・将:ガラシャが落命。
 ガラシャの義父・藤孝は、その日のうちに大坂で発生した異変の情報を得て、
 自らの居城である丹後田辺城(舞鶴城)が攻囲されることを予想し、
 城周辺の樹木を切り払うなど篭城戦の準備に入った。

《決戦》

 7月20日、三成から田辺城攻略の命令を受けた
 福知山城城主である小野木公郷が丹波・丹後などの兵を動員し、
 合計15000を率いて布陣。

 一方、守備側の田辺城の兵は僅か500であった。

 当初、小野木軍は力攻めに出たものの、
 細川軍の防衛の士気は極めて高く、藤孝の家臣・沢田次郎助の妻は、
 甲冑を身にまとい攻め寄せる小野木軍の足軽たちをなぎ倒したと言われる。
 思わぬ強固な抵抗の前に力攻めあきらめた公郷は砲撃戦に持ち込む。

 一方の細川軍の方でもこれに応戦すべく、
 長岡妙庵が北村甚太郎に大砲を撃たせ小野木軍の度肝を抜いた。

 また小野木軍が使用している竹楯を無力化させる威力のある「射貫玉」を、
 城内で製造し城際に迫り来る小野木軍に浴びせかけるなど優勢であり、
 藤孝夫人も自ら甲冑を着用し城内を叱咤激励して回ったという。

 小野木軍は田辺城に対し砲撃を断続的に続けたが、
 中には空砲があり、命中率も極めて低いものであったという。
 当時、小野木軍の中の将兵の中にも家康に通じる者が多かったのである。

 敵味方の弾丸が飛び交う中を藤孝は、
 「ここ指して 射つ鉄砲の 弾きはる 命に向かふ 道ぞこの道」
 と歌を詠み、合戦の中にありながら驚くほど
 超然としていたと伝えられる。

 大兵力を有しながら攻撃する覇気のない攻城軍と、
 寡兵でありながら意気盛んな防衛軍の攻防は、
 思わぬところから動き出すことになる。

 藤孝は和歌の道に造詣が深く、
 藤原定家を祖とする二条家流歌道の奥技とされる『古今伝授』を
 正式に受け継いだ唯一人の人物であった。

 藤孝は死ぬ覚悟であったため『古今伝授』に関する書物を、
 後陽成天皇の弟宮である八条宮智仁親王に伝えたいと手紙を送った。
 この手紙を受け取った八条宮智仁親王が一大事と天皇に奏上。

 8月27日、後陽成天皇はここで歌道の奥技が失われること惜しみ、
 藤孝に対して開城し和睦するように勅使を差し向けるが藤孝はこれを拒絶。

 天皇をこれを受け、
 大坂城の豊臣秀頼に対して小野木軍に停戦命令を出すように要求し、
 京都所司代である前田玄以にも小野木軍を撤兵させるように勅命を下す。
 玄以は子・前田茂勝を田辺城に送り開城を勧めるが、藤孝はこれも拒絶。

 藤孝は奥技である『古今伝授』一巻を八条宮智仁親王に送り、
 「古へも 今も変わらぬ 世の中に 心のたねを 残す言の葉」
 という歌を添えた。

 俄然、朝廷側では和睦を推進し懸命に藤孝の一命を救うことに奔走する。

 9月3日、勅使として権大納言・烏丸光宣が田辺城に到着。
 停戦工作を行うこの勅使一向には前大納言・中院通勝、富小路秀直、
 そして前田茂勝らが同行していた。

 まず小野木軍の陣中に向かい攻囲を解除するようにという勅旨を伝える。
 思わぬ長期戦に陥っていた小野木軍はこの勅命を入れ攻囲を解除。
 さらに前田茂勝が田辺城内に入り勅旨を藤孝に伝えた。

 9月12日、藤孝は田辺城を開城し丹波亀山に向かう。


 細川藤孝は、
 僅か500の兵で小野木公郷の15000を相手に奮戦し、
 50日以上にも及ぶ篭城戦の結果として、
 この大軍を関ヶ原に向かうことを阻止した。

 このことが大きく評価され『関ヶ原合戦』後に、細川氏が、
 肥後国54万石を与えられる要因ともなった。

 戦略的に見た場合、兵数僅か500に過ぎない田辺城に対して、
 何ゆえに15000もの軍勢で攻囲したのか西軍の意図が全くの不明である。

 そしてこの『田辺城攻略戦』において特筆すべきことは、
 朝廷が積極的に合戦の停戦工作に乗り出していることである。
 このようなことは『応仁の乱』以来長く続いた戦国時代の中でも、
 まず考えられず見られなかったことである。

 言い換えれば「和歌」=「文化(学問)」を介して、
 朝廷が政治に大きな影響力を与えることが可能であったことを示している。
 この現実を一番危険視したのは徳川家康であった。

 家康は後に「禁中并公家諸法度」を制定して、
 朝廷の徹底した封じ込めを図るのである。

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