小牧・長久手合戦

こまきながくでかっせん

安土桃山時代。
天正12(1584)年に、羽柴秀吉と、
織田信雄・徳川家康連合との間で行われた合戦。

《羽柴軍 66000》

 総大将:羽柴秀吉
 羽柴秀長・丹羽長秀・稲葉一鉄・筒井順慶・蒲生氏郷・金森長近

 別動部隊
 大将:羽柴秀次
 池田恒興堀秀政・森長可

《織田・徳川連合軍 30000》

 総大将:織田信雄・徳川家康
 酒井忠次・榊原康政・石川数正・本多忠勝・井伊直政・
 本多正信・水野忠重・大須賀康高


《戦況推移》

<発端>

 天正12(1584)年―。

 3月6日。
 織田信雄(伊賀・伊勢・尾張を支配)は
 自身の家老三人(津川玄番頭・岡田長門守・浅井田宮丸)を
 羽柴秀吉に内通しているとして次々と斬殺して秀吉と手切れする。

 信雄は徳川家康に対秀吉陣営への参加を求める。
 これは秀吉の中央での台頭を不快に感じていた家康には「渡りに舟」であった。
 対秀吉挙兵の大義名分が手に入ったのである。

 家康は、この時期の秀吉が、
 反秀吉勢力と対峙している現実も見抜いていた。
 越中には佐々成政、中国には全面講和に達していない毛利輝元、
 四国の長宗我部元親、そして足元の畿内には紀伊に雑賀・根来衆・・・。

 このため秀吉は
 対佐々に丹羽長秀・前田利家、対毛利に宇喜多秀家、
 対長宗我部と対雑賀・根来に黒田孝高・蜂須賀家政・中村一氏を配置。

 また秀吉は対徳川戦略として越後の上杉氏、常陸の佐竹氏と結ぶ。

 3月7日。
 徳川軍、浜松城出陣。

 3月13日。
 徳川軍は尾張・清洲城で信雄軍と合流。
 そのまま先に信雄に殺害された三人の家老の居城を攻撃接収する。
 (津川玄番頭の伊勢松ヶ島城、岡田長門守の尾張星崎城、
  浅井田宮丸の尾張刈安賀城)

 秀吉方でも織田・徳川連合軍の動きを察知。
 蒲生氏郷・滝川一益を先鋒に信雄の本拠伊勢に侵攻。
 さらに両軍が合流した夜に池田恒興が、
 信雄方の犬山城の攻略に成功。

 ここに羽柴軍と織田・徳川連合軍は全面的にぶつかることとなった。

《決戦》

 3月15日。
 織田・徳川連合軍は小牧山城近辺に30,000の兵を布陣。

 3月17日。
 森長可の率いる部隊が犬山城近辺で
 徳川軍先鋒の酒井忠次・奥平信昌部隊に撃破される。

 3月21日。
 秀吉本隊、大坂を出発。

 3月22日。
 雑賀・根来衆、堺方面へ打って出るも中村一氏が防衛する。

 3月27日。
 秀吉は犬山城に入城し戦線に就く。
 (この時点での羽柴軍は総数40,000と言われている)

 秀吉は後続部隊到着まで陣地の構築を命じる。
 野戦の名手・家康との均衡した戦力での正面衝突を回避する。

 3月29日。
 信雄、小牧山に移動。

 4月初頭。
 羽柴軍の増援部隊が到着し総数66,000余に。

 4月4日。
 池田恒興は「三河中入れ」を秀吉に献策。

 この作戦は家康の本拠地である三河へ別働部隊を派遣し
 小牧山近辺に布陣する織田・徳川連合軍の動揺を誘い
 その間隙をついて秀吉本隊が敵を一挙殲滅する、というものであった。

 4月5日。
 秀吉は恒興の作戦案を採用。

 別働部隊の陣容は総数17,000。
 総大将に三好秀次、指揮官に池田恒興、軍監に堀秀政が配された。

 4月6日。
 夜更、別働部隊は三河へ向けて進発。
 しかしながら別働部隊は途中で進軍を中断し敵陣営から5キロで駐留。

 4月8日。
 別働部隊、進軍再開。
 先鋒部隊に池田恒興・森長可らが率いる7,000。
 その先鋒の後ろに堀秀政3,000。
 殿軍は三好秀次7,000であった。

 これら一連の別働部隊の動きにより
 織田・徳川連合軍は羽柴軍の動きを察知。
 家康は小牧山から小幡城に移動し臨戦体制に入る(兵10000)。

 別働部隊は三河を侵攻の前に、
 何故か長久手の近くにある岩崎城を攻撃し落城させる。

 4月9日。
 徳川軍は自軍の軍勢を二つに分けて別働部隊を攻撃。

 まず殿軍である三好秀次隊を奇襲した。
 秀次隊は完全な不意打ちをくらいまともな反撃すらできず敗北。
 秀次は秀吉本陣目指し退却。

 この時、先鋒部隊は岩崎城攻略の酒宴を催していた、と伝えられる。
 ここへ「殿軍が徳川軍の奇襲により敗走」の報が入る。
 慌てて殿軍救援と自軍の退却のため長久手方面へ進発。

 と、家康自身が直卒する徳川精鋭部隊と鉢合わせになってしまった。
 森長可は銃弾で眉間を貫かれ戦死。池田恒興も激戦の中で戦死する。

 ここに別働部隊は壊滅。

 「別働部隊壊滅」の報を受けた秀吉は小牧山へ向け進軍するが
 織田・徳川連合軍の本隊は既に戦線を下げて小幡城にいた。

 これにより野戦によって秀吉と家康が、
 直接雌雄を決する機会は失われた。

 5月7日。
 羽柴軍、加賀野井城攻略。

 5月9日。
 羽柴軍、奥城占領。

 6月10日。
 羽柴軍、竹ヶ鼻城攻略。

 6月28日。
 秀吉、大坂帰還。

 7月3日。
 羽柴軍の伊勢攻略に当たっていた滝川一益が反攻に遭い退却。

 8月。
 秀吉、大坂出陣。
 和議の交渉に入る。
 この間にも信雄側家臣の調略を進める。

 9月2日。
 和平交渉決裂。

 10月。
 秀吉、大坂帰還。
 秀吉は、ここから時間を遡り朝廷より官位の叙位を受ける。
 すなわち
 天正10(1582)年10月従五位下左近衛権少将、
 天正11(1583)年5月従四位下参議、に任ぜられたとする。

 11月。
 秀吉は朝廷より従三位権大納言に叙任される。

 11月15日。
 秀吉と信雄との間に和議成立。

 和議条件は・・・
 信雄の領地は伊賀・南伊勢を秀吉側に移譲すること。
 信雄息女を秀吉の養女に差し出すこと。
 信雄重臣の家族を人質として大坂に差し出すこと・・・であった。

 11月16日。
 出兵の大義名分を失った家康は浜松城へ帰還。

 12月。
 秀吉と家康は、信雄の仲介により和議を結ぶ。

 和議条件として
 家康は次男である於義丸(のちの結城秀康)を、
 大坂に差し出すことになった。


 『小牧長久手合戦』は展開次第では局地戦に留まらず
 全国的な規模で影響を及ぼしかねない合戦であった、といえよう。

 戦術的には何故、別働部隊が徳川精鋭部隊を引き付けている間に
 秀吉は戦力的に手薄になった小牧山の連合軍本隊を攻撃しなかったのか?
 という大きな謎が残る結果となった。

 この合戦は秀吉の朝廷を味方につける等、
 外交戦術の巧みさにより秀吉の勝利に終わるものの
 以後、家康が豊臣政権下で多大な影響力を残す端緒ともなった。

 一説によると、秀吉は、この「小牧・長久手合戦」で徳川勢を破り
 残る徳川の同盟者・北条氏を撃破し関東一円を平定の上、
 「征夷大将軍」の位を狙っていたとも言われる。

 しかし戦況は思い通りに進展せず
 源氏の血脈でないこと(足利義昭に養子を断られる)等も併せ断念。

 これより朝廷・公家に接近し「天下人」を目指すことになる。

 また家康も朝廷より承認された秀吉に進んで対抗し朝敵となるよりも
 「名を捨て実をとる」方針に転換するきっかけとなった
 出来事である。

     部はクリックすると説明ページが表示されます。

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜