山陵奉行

さんりょうぶぎょう

江戸時代。
徳川幕府が設置した山陵を管理する職名。

<文久2(1862)年>
 閏8月14日、戸田忠恕、山陵修築を建議。

  戸田忠恕は宇都宮藩主。
  幕府はこの忠恕の建議を採用し宇都宮藩に一任する。
  宇都宮藩ではこの仕事を家老の間瀬忠至に担当させる。
  間瀬忠至はこれを拝命し本姓である戸田姓に復帰する。


 10月20日、朝廷、戸田忠至を山陵奉行に任命。

  幕府の役職を朝廷が任命するという人事権のねじれが発生する。
  山陵奉行は京都所司代の下部組織とされた。


 11月1日、戸田忠至、山陵調方を選出。

  谷森善臣・北浦定政・平塚瓢斎・岡本桃里らが選ばれ、
  中でも谷森善臣は相談役となる。


<文久3(1863)年>
 2月、神武天皇陵を治定。

  文久2(1862)年内に既に、
  整備は開始されていたが正式に治定されたのがこの時である。
  神武天皇陵の修築経費は15062両であり、諸山陵の中で最大の経費が費やされている。

<慶応3(1867)年>
 11月、山陵奉行によって116陵の修築事業が完了する。

  所在不明陵は14陵であった。

<明治元(1868)年>
 2月、明治政府、戸田忠至を山陵修補奉行に任命。


山陵修築の費用は227500両。
幕府の負担はその内の63700両、
また宇都宮藩御用足し商人川村伝右衛門が10000両を寄進、
それらを除く残りの多くの費用を宇都宮藩が負担した。

また柳本藩は景行天皇陵(後に崇神天皇陵に治定)、津藩は光仁天皇陵、
館林藩は雄略天皇陵などの修築を補佐。

山陵奉行の指揮下で行われた「幕末の大修築」において、
山陵には「拝所」「石灯籠」以外に「鳥居」「周濠」などが整えられ、
さらには墳丘部の大規模な修築なども行われ、
現在の御陵の外観となっている。

山陵奉行職は幕府の役職でありながらその設置理由が、
「尊皇攘夷」思想に基づいているという点が注目される。

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