恵美押勝の乱

えみおしかつのらん

恵美押勝(藤原仲麻呂)による軍事クーデター未遂事件。

<天平宝字2(758)年>
 8月1日、淳仁天皇、即位。
 8月25日、仲麻呂、大保(右大臣)に就任。
       「恵美」姓を下賜され恵美押勝と名乗る。

<天平宝字3(759)年>
 5月17日、藤原恵美久須麻呂、美濃守。
 6月16日、藤原恵美真先、従四位下。
       藤原恵美久須麻呂、従四位下。
       藤原恵美児依、従四位下。
       藤原恵美朝狩、正五位下。
       藤原恵美薩雄、従五位下。
       藤原恵美小弓麻呂、従五位下。
 11月5日、藤原恵美薩雄、越前守。

<天平宝字4(760)年>
 正月4日、恵美押勝、従一位大師(太政大臣)に就任。
       藤原恵美朝狩、従四位下。

  恵美押勝は祖父・不比等、父・武智麻呂も就くことのなかった
  「太政大臣」職に遂に就任し権力をその掌中に収めるのである。


 6月7日、光明皇太后、崩御。

  恵美押勝の最大の後ろ盾であった光明皇太后の崩御により、
  恵美押勝は一族によって朝堂を固めることが急務となってくるのである。


<天平宝字5(761)年>
 正月7日、藤原恵美真先、従四位上。
 8月12日、藤原恵美児依、正四位下。
 10月13日、淳仁天皇・孝謙太上天皇ら保良宮へ行幸。

  行幸先で孝謙太上天皇が病に伏すが、
  この時、献身的な看病に当たったのが道鏡であった。
  以後、太上天皇は道鏡に絶対的な信頼を置くようになる。


 10月22日、藤原恵美朝狩、仁部(民部)卿。
       藤原恵美辛加知、左虎賁衛督。
 11月17日、藤原恵美朝狩、東海道節度使。

<天平宝字6(762)年>
 正月4日、藤原恵美真先、参議(美濃・飛騨・信濃按察使兼任)。
 2月2日、恵美押勝、正一位。
 5月23日、孝謙太上天皇と淳仁天皇が対立。

  孝謙太上天皇が道鏡を寵愛していることに対し、
  淳仁天皇が批判したことが原因であるとも言われる。


 6月3日、孝謙太上天皇、大権の占有を宣言。

  孝謙太上天皇は「国家の大事」と「賞罰」に関する大権を持ち、
  淳仁天皇は事実上無力となってしまったのである。
  ここに恵美押勝の強大な権勢に翳りが見えるようになる。


 12月1日、藤原恵美真先、正四位上。
       藤原恵美久須麻呂、参議。
       藤原恵美朝狩、参議。

<天平宝字7(763)年>
 正月7日、藤原恵美執棹、従五位下。

  この年、反・恵美押勝のクーデター計画が発覚。
  参加者は藤原良継大伴家持石上宅嗣・佐伯今毛人らであった。
  藤原良継は全責任を負い姓と官位と剥奪される。


<天平宝字8(764)年>
 正月21日、藤原恵美薩雄、右虎賁率。
       藤原恵美辛加知、越前守。
       藤原恵美執棹、美濃守。
 9月2日、恵美押勝、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使。
 9月11日、高丘比良麻呂の密告により、
       恵美押勝の軍事クーデター計画発覚。
 9月18日、恵美押勝、斬殺される。
 10月9日、淳仁天皇、廃位。

  (上記年表では恵美押勝の一族を「藤原恵美」姓で表記)


《クーデター発覚後の動き》

  孝謙太上天皇は即ちに山村王を派遣し、
  中宮院の駅鈴と内印を確保することに成功。
  この動きを見た恵美押勝は遂に挙兵。
  久須麻呂に命じて山村王を襲撃させ駅鈴と内印を奪い取らせる。

  太上天皇は坂上苅田麻呂と牡鹿嶋足を派遣し久須麻呂を射殺。
  恵美押勝は矢田老を迎撃に差し向け、態勢の立て直しを図るが、
  太上天皇軍の紀船守により射殺される。

  太上天皇は恵美押勝一族の官位と「藤原」姓の剥奪を勅す。
  これに対して恵美押勝は近江国へ転進し再起を図る。

  太上天皇軍は日下部子麻呂・佐伯伊多智に追撃させ、
  恵美押勝の先回りをし勢多橋を焼き落としてしまう。
  恵美押勝は高嶋郡へ向かい東国の兵との連合を画策したようであるが、
  太上天皇軍の佐伯伊多智は越前国へ攻め入り辛加知を斬殺。

  恵美押勝は塩焼王を即位させ、子息たちを三品に叙す。
  愛発関の通過を狙うが物部広成らの抵抗に遭い退却。

  恵美押勝は琵琶湖上を水路を通って、
  塩津方面への転進を狙うが折からの強風により断念。
  陸路、再び愛発関を目指すが太上天皇軍がこれを阻止。
  恵美押勝は高嶋郡に戻り太上天皇軍を迎え撃つ。
  戦闘は昼頃から夕刻になっても決着がつかない激戦となった。

  ここへ太上天皇軍の藤原蔵下麻呂が援軍を率いて到着。
  優勢となった太上天皇軍の前に恵美押勝軍は敗走。

  恵美押勝は琵琶湖上へ闇に紛れて逃亡を図るが、
  石村村主石楯により捕縛され斬殺される。

  恵美押勝の一族はことごとく鬼江で斬殺に処された。
  ただ一人だけ恵美押勝の子・薩雄だけは、
  幼少時より仏門に帰依していたことを理由に隠岐国への流罪に減じられた。


恵美押勝は橘奈良麻呂を葬り去り、淳仁天皇を擁立、
光明皇太后の信任と後ろ盾を得て朝堂で比類なき権勢を奮い、
官職名を唐風に改めた上で大師(太政大臣)に就任している。

唐風に改めたのは官職名を「太政大臣」とあからさまにするには、
やはり抵抗があったからではないだろうか。

だが光明皇太后の崩御、
さらに孝謙太上天皇が道鏡を寵愛するなど、
その政治基盤に不安定要因が見えるようになってくると、
恵美押勝は一族を要職に配して政権の安泰を図る。

自身の一族を要所に配置し、子息を次々に参議に取り立てる等、
その方法はあまりにも強引であり同じ藤原氏内部からも反発を買った。

また淳仁天皇が道鏡のことを批判し、
孝謙太上天皇から大権を取り上げられるに至り、
反・恵美押勝派は結束を強め天平宝字7(763)年になると、
恵美押勝政権の転覆を狙うクーデター未遂事件まで発生するようになる。

恵美押勝は軍事演習を口実に兵の動員を企み、
その軍事力を背景に道鏡の排斥を目論むが密告により、
緻密な計算を得意とする普段の恵美押勝では考えられないような
あまりにも拙速な戦略は崩れ去るのである。

この乱の背景には、恵美押勝の若き日、
藤原四兄弟が相次いで亡くなりその間隙を縫うように、
橘諸兄が政権を握り藤原氏が諸兄の下風に立たされた屈辱が、
恵美押勝に心の中に「藤原氏の王道」としての自負を生み出させ、
その恵美押勝の自負に立ちはだかるようにして台頭してきた道鏡への、
焦りがあったのではないだろうか。

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