橘奈良麻呂の乱

たちばなのならまろのらん

奈良時代に起きた政変未遂事件のこと。
この事件の首謀者は橘奈良麻呂であった。
「橘奈良麻呂の変」とも呼ばれる。

<天平9(737)年>
 4月17日、正三位参議・藤原房前、死去。
 7月13日、従三位参議・藤原麻呂、死去。
 7月25日、正一位左大臣・藤原武智麻呂、死去。
 8月5日、正三位参議・藤原宇合、死去。

<天平12(740)年>
 9月3日、『藤原広嗣の乱』勃発。
       藤原広嗣は敗死。

  ここに橘諸兄を中心として政治が運営されることになる。
  諸兄の子・奈良麻呂も諸兄政権で中央政治に携わることになる。


  だが藤原南家の藤原仲麻呂が台頭。
  仲麻呂は持ち前の頭脳明晰な才能と、
  光明皇后の後ろ盾を得て朝堂内で飛躍を遂げる。

<天平17(745)年>
 奈良麻呂、聖武天皇の病気が重態となり政変を企図するも中止。

<天平勝宝元(749)年>
 4月14日、諸兄、正一位。
 7月2日、仲麻呂、大納言に就任。
 8月10日、仲麻呂、「紫微中台」を設置し自ら紫微令に就任。

  ここに仲麻呂は軍事指揮権を手中に納めることに成功する。

<天平勝宝4(752)年>
 4月9日、大仏開眼。
      仲麻呂、孝謙天皇に田村第へ行幸を仰ぐ。

<天平勝宝8(756)歳>
 2月2日、諸兄、左大臣辞職。
 4月、  奈良麻呂、佐伯全成を自陣へ勧誘。

<天平宝字元(757)年>
 正月6日、諸兄、死去。
 3月29日、道祖王を廃太子。
 4月4日、大炊王が立太子。
 6月、  奈良麻呂と大伴古麻呂を中心に打倒・仲麻呂政権の謀議を開始。
 6月29日、奈良麻呂は太政官院庭において最終の打ち合わせを行う。

  このクーデター計画に参加した顔ぶれは、
  仲麻呂主導による皇位継承に不満を持つ安宿王黄文王
  仲麻呂中心の政治体制から疎外されていた
  大伴古麻呂・大伴古慈斐・大伴池主・大伴兄人・賀茂角足・
  多治比犢養・多治比礼麻呂・多治比鷹主らであった。

  この最終謀議によりクーデター決行日は7月2日と決まる。

  そのクーデター計画とは・・・
  大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍として赴任途中に美濃国の関を制圧。
  賀茂角足が酒宴を開き仲麻呂側の有力武将である
  高麗福臣・坂上苅田麻呂らを仲麻呂側から切り離し無力化する。

  兵400で仲麻呂の田村第を襲撃し仲麻呂を殺害。
  ついで皇太子の地位にある大炊王を廃太子。
  光明皇太后に迫り「内璽」「駅鈴」を手中に納めた上で孝謙天皇を廃位し
  安宿王・黄文王・塩焼王・道祖王から天皇を決めるというものであった。

  佐伯美濃麻呂が計画を仲麻呂側に密告。
  巨勢堺麻呂が計画を仲麻呂側に密告。
  山背王(安宿王・黄文王の弟)が計画を仲麻呂側に密告。

  これらの密告により奈良麻呂側の動きを仲麻呂は完全に把握していた。

 7月2日、朝。
      孝謙天皇は群臣に軍事クーデターの噂について戒告。
      光明皇太后は右大臣藤原豊成に深い憂慮を伝える。

  仲麻呂は天皇と皇太后による説得工作という形を取る。

 同日、夜(午後10時)。
      中衛舎人・上道斐太都が具体的な計画を仲麻呂側に密告。

  仲麻呂は天皇と皇太后に奈良麻呂の謀反を奏上した上で、
  兵を動員し平城京の防衛を強化しクーデター決起部隊に備える。


 仲麻呂は高麗福臣を派遣し小野東人・答本忠節を逮捕。

  ここで計画の全容が判明、クーデター計画は未遂と終わる。


 7月3日、勅使として藤原豊成・藤原永手が小野東人らを詰問。
      仲麻呂は塩焼王・安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂を
      御在所に召還し「謀反を赦す」旨の皇太后の詔を伝える。
 7月4日、小野東人・答本忠節らは厳しい拷問の前に計画を自供。

 仲麻呂はこのクーデター計画に関与した者を次々と逮捕し拷問にかけた。

  黄文王・道祖王・大伴古麻呂・賀茂角足・
  多治比犢養・小野東人らは厳しい拷問の末に杖下に殺された。
  このクーデター計画に関係したとして捕縛された者は440人。
  没官処分を受けた奴は233人、婢は277人に及んだ。

 また仲麻呂はこの危機に乗じて自身の専制体制を確立する。

  藤原乙縄が奈良麻呂と親しい関係にあったとして、
  その父である右大臣・藤原豊成を大宰外帥に左遷してしまう。
  さらに中納言・多治比広足も一族がクーデターに関与したとして辞任に追い込む。


 仲麻呂政権の打倒を目指した奈良麻呂のクーデターは、
 皮肉なことに結果として仲麻呂政権をより一層強固なものとしたのである。

     部はクリックすると説明ページが表示されます。 

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜