中国大返し

ちゅうごくおおがえし

安土桃山時代、羽柴秀吉が、
天正10(1582)年の『本能寺の変』後、
明智光秀を討つために取った軍事行動のこと。

中国大返し

<天正10(1582)年>
 6月2日、京・本能寺にて織田信長は明智光秀に討たれる。

  この時、
  柴田勝家は北陸で上杉景勝と対峙し
  滝川一益は関東の経営に追われており、
  この二人は即座に動くことはできない状態であった。
  丹羽長秀は四国出陣にため大坂にいたものの、
  兵数3000ほどであり情勢不穏な畿内で単独で動くことはできなかった。

  そして秀吉は毛利氏と対峙し備中高松城を水攻め中であった。

 6月3日、変の第一報を秀吉が知る。

  秀吉に運命の「信長横死」の情報をもたらしたのは、
  光秀が毛利氏に送った密使が秀吉の陣中に迷い込んだからとも、
  秀吉が京での動静を知らせるように頼んでおいた、
  長谷川宗仁の使者によるものとも言われる。


 6月4日、毛利氏と和睦交渉成立。

  秀吉が毛利氏側に提示した和睦内容は、
  備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、
  織田氏側が割譲を要求している
  毛利氏の領国である備中・美作・伯耆・備後・出雲を、
  備中・美作・伯耆に縮小しても良いというものであった。

  この交渉は毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊による独断で成立。
  その裏側には秀吉による恵瓊抱き込み工作があった。

  備中高松城主・清水宗治、自刃。


 6月5日、秀吉、策を打つ。

  中川清秀、高山右近らに「信長生存」の書状を送る。
  これにより畿内の武将の光秀加担を防ぐ。


 6月6日、備中高松城から退却。

  先鋒は宇喜多秀家、殿軍は黒田孝高。
  その日にうちに備前沼城に入る。

  羽柴軍の総数は25000(一万数千説あり)。


 6月7日、姫路城。

  ここで城内にある全ての金銀を武将に、全部の米を足軽に配布。
  養子・秀勝(信長の子)、堀秀政らと共に剃髪し「弔い合戦」を強調。

  姫路城の留守を三好吉房(義兄)、浅野長政に任命。
  秀吉は吉房に、もし負けるようなことがあれば
  家族全員を殺すように命じる。

  先鋒は中村一氏。


 6月9日、明石。

  軍の一部を淡路島洲本に派遣。

 6月11日、尼崎。

  池田恒興、中川清秀、高山右近ら参陣。

 6月12日、富田。

  神戸(織田)信孝、丹羽長秀らが参陣。
  (合流は13日とする説もあり)
  特に信長の三男・信孝を羽柴軍に推戴したことで、
  明智光秀討伐の大義を手にすることに成功する。

  この時、羽柴軍の総数36000。
  羽柴軍、先鋒はこの日のうちに出陣。


 6月13日、『山崎(天王山)合戦』。

  明智軍16000を山崎にて撃破。


 全行程200kmをわずか5日で移動した羽柴軍。

 秘密は甲冑武具等は別便で送り、
 兵は褌ひとつで、ただ駆けに駆けたからだ、とも言われるが、
 比類無き奇抜なアイデアと実行力は秀吉ならではのものであろう。

 それでも、その機動力はまさに神業であり、
 ここから「本能寺の変・秀吉陰謀説」等も出ている。

 しかしながら謀反人である明智光秀を討伐した
 羽柴秀吉の功績は大きく「清洲会議」でも主導権を握り、
 信長後の天下に大きく一歩を踏み出すこととなった。

 天下人への軌跡は「中国大返し」から始まったのである。

 そしてこの「大返し」は、
 翌天正11(1583)年の『賤ヶ岳合戦』でも再び繰り返される。

     部はクリックすると説明ページが表示されます。 

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜