得宗

とくそう

鎌倉幕府で執権職にあった北条氏の家督を指す。

「得宗」の語源は義時の法名「徳宗」から来るとされる。
義時以降を指して、「得宗」とされるが
『梅松論』では、時政以下九代を「得宗」としている。
(ここでは『梅松論』に従うこととする)

得宗としての基盤が固められるのは泰時の代で
元仁元(1224)年の『伊賀氏の変』により、
得宗家は独自の家人(御内人)を抱え、北条一門の中で強大な存在となる。

この後、幕府の要職は北条一門で占められていき、
北条一門での惣領としての地位の確立は、
そのまま幕府内部での指導的立場に就くことを意味した。

時頼の代には、
宝治元(1247)年の『宝治合戦』で有力御家人三浦氏を葬り去り、
建長4(1252)年になると、摂家将軍を更迭し、
宮家将軍を迎える等、得宗家による専制政治の様相を見せてくる。
この時頼の代に「得宗」はほぼ固まった、とされる。

時宗の代になると、
幕府要職は北条一門で完全に占められ、
文永9(1272)年の『二月騒動』などにより惣領としての地位は安定し、
御内人が幕府機構に進出していく。

やがて幕府の「評定」は軽視され、
得宗家での「寄合」により政治が運営されるようになる。
(得宗が「御恩」「官途」に関して差配するようになっていた)

貞時の代になり、最期の有力御家人であり
なおかつ得宗の外戚である安達泰盛が滅ぼされる。

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 北条時政
  ┃
  ┣
義時泰時時氏経時━頼助
  ┃
義政━泰時━時氏時頼時宗貞時高時┳邦時
  ┃
義政━泰時━時氏時頼時宗━貞時━高時┗時行
  ┃
義政━泰時━時氏時頼┣時輔
  ┃
義政━泰時━時氏時頼┣宗政┳師時━時規
  ┃
義政━泰時━時氏時頼宗政┗政助
  ┃
義政━泰時━時氏時頼┗宗頼┳兼時
  ┃
義政━泰時━時氏時頼┗宗頼┗宗方
  ┃
義政━泰時━時氏┗為時━定宗━随時
  ┣時房
  ┗政子


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