【略伝】

安土桃山~江戸時代。

豊臣氏当主。

正二位。
右大臣。

「拾」。
豊臣秀吉三男。
母は淀殿(浅井長政長女)。
異母兄に羽柴秀勝。
同母兄に豊臣鶴松
正室は徳川千徳川秀忠長女)。
側室は渡辺氏(成田氏とも)。
子は豊臣国松、天秀尼(共に母は渡辺氏)。
豊臣氏。

豊臣秀頼は、文禄2(1593)年8月、豊臣秀吉と淀殿との間に、大坂城で誕生する。

文禄4(1595)年の『豊臣秀次事件』を経て、豊臣氏の後継者となる。

しかし、慶長3(1598)年8月、秀吉が死去。

慶長5(1600)年9月、豊臣氏を侵食し政権奪取を狙う徳川家康に対して、豊臣氏のために決起した石田三成が武力衝突した『関ヶ原合戦』で、石田方が敗北。豊臣氏は局外中立を保ったものの、戦後、家康の差配で行なわれた論功行賞において、河内国、摂津、和泉の3ヶ国65万石の一大名に格下げされる。

慶長7(1602)年7月、家康の孫娘の徳川千と婚姻する。さらに、11月には、秀吉が建立した方広寺の再建を開始する。この年から畿内を中心に、神社仏閣の修築を始める。

慶長8(1603)年2月、家康が征夷大将軍に就任。秀頼は 4月に、内大臣に任命される。

慶長9(1604)年、豊国社の臨時祭礼が行なわれる。

慶長10(1605)年4月、右大臣に任じられるも、同月、徳川秀忠が征夷大将軍に就任したことで、徳川氏が政権を世襲することが天下に明確となる。

その秀忠から、秀頼に対して、上洛し将軍就任を賀すための挨拶に来るように圧力が加えられるが、これを拒絶する。

慶長16(1611)年3月、加藤清正が立会う中で、家康と二条城で会見。

慶長19(1614)年7月、『方広寺鐘銘事件』勃発。10月、遂に、『大坂冬の陣』が開戦する。しかし、12月には和睦停戦。

元和元(1615)年正月、徳川軍は大坂城の総堀埋め立てを完了する。その後、『大坂夏の陣』が開戦。

戦局不利の中、山里曲輪の糒蔵に入り、5月8日、淀殿と共に自刃する。

豊臣氏が日本史上に咲かせた大輪の花は、ここに散る。


《関係略図》
          おね(高台院)            │            └────────────────────┐                                 │           南殿                    │            │                    │            └───────────────────┐│                                ││  木下弥右衛門                        ││   │                            ││   │       三好吉房                 ││   │        │                   ││   │        ┝━━━━━━━┳秀次━┳仙千代丸   ││   │        │       ┃   ┗女子     ││   │        │       ┃     │     ││   │        │       ┃     └────┐││   │        │       ┃          │││   │        │       ┣秀勝        │││   │        │       ┗秀保        │││   │        │                  │││   ┝━━━━━━┳瑞龍院                 │││   │      ┣豊臣秀吉                │││   │      ┃ │││                │││   │      ┃ ││┝━━━━━━秀勝        │││   │      ┃ │││                │││   │      ┃ ││└────────────────┼┘│   │      ┃ │└─────────────────┼─┘   │      ┃ └─────┐            │   │      ┃       │            │   │      ┃       ┝━┳鶴松        │   │      ┃       │ ┗秀頼        │   │      ┃       │  │││(婚約)   │   │      ┃       │  ││└───────┘   │      ┃       │  │└──────────┐   │      ┃       │  │           │   │      ┃       │  ┝━━┳国松      │   │      ┃       │  │  ┗天秀尼     │   │      ┃       │  │           │   │      ┃       │ 渡辺氏(成田氏)     │   │      ┃       │              │   │      ┗豊臣秀長   │              │   │              │              │  なか(大政所)         │              │   │              │              │   ┝━━━━━━━南明院    │              │   │        │     │              │  筑阿弥       │     │              │            │     │              │           徳川家康━━━┿━━秀忠          │                  │   │          │                  │   ┝━┳千       │                  │   │ ┃│       │                  │   │ ┃└───────┘                  │   │ ┃                  │   │ ┗家光                  │   │  浅井長政            │   │   │              │   │   ┝━━━━━━┳淀殿     │   │   │      ┃ │     │   │   │      ┃ └─────┘   │   │      ┃           │   │      ┣初(常高院)     │   │      ┗江与(崇源院)    │   │        │         │   │        └─────────┘   │  織田市

豊臣秀頼は、文禄2(1593)年8月3日、大坂城二ノ丸において、豊臣秀吉と淀殿(浅井茶々)の間に誕生する。

大坂城二ノ丸跡
(大坂城二ノ丸跡)

「捨て子は育つ」の言い伝えに従い、この時、生まれた男児を、一旦、捨て子と見なして、秀吉家臣の松浦重政が拾っている。

この知らせを、大陸出兵のために滞在していた名護屋城で受けた秀吉は、8月9日付で、この男児に「拾」と名付けている。因みに、拾の名前に「お」を付けることを秀吉は固く禁じた。しかし、秀吉自身が、間もなく「お拾」と呼ぶようになり、以後「お拾」と呼ばれるようになった。

秀吉は、拾に会うため、当初9月10日の帰国を予定していたが、急ぎ8月15日に名護屋城を離れて大坂城へ出発し、25日に拾と対面している。

なお、拾に乳母は置かれていたものの、淀殿が自らの母乳を与えていたことが、秀吉の手紙から窺え、淀殿が拾に対して並々ならぬ愛情を注いでいたことが判る。

そして、生後僅か数ヶ月後の同年10月、拾は、前田利家と、その妻のまつを媒酌人とした上で、秀吉の甥で関白の豊臣秀次の娘と婚約することとなる。

時期は未詳であるが、この前後に、利家は、秀吉から拾の「傅役」に任じられたものと見られている。

この頃、秀吉は、秀次に対して、日本を五分割し、その中のひとつを拾に与えることを告げた、とされる。この婚姻は、秀吉から秀次、そして、拾へと、領土と権力が、スムーズに引き継がれるようにに考えられたものだった。

文禄3(1594)年12月、伏見城西ノ丸へ入城。

伏見城
(伏見城)

元々は、4月に入城する予定であったが、淀殿は、鶴松が満1歳にならないうちに淀城から聚楽第へ移動したことを不吉な先例として、
拒絶したために、拾が満1歳(数えの2歳)となるのを待って、12月となった。

言葉を話せるようになると、拾は、生母の淀殿のことを「かかさま」、秀吉正室のおね(北政所)のことを「まんかかさま」と呼ぶようになったようである。

文禄4(1595)年7月、秀次に謀反容疑が掛けられる。

所謂『豊臣秀次事件』の勃発である。かくて、秀次は自刃し、妻子は翌月に処刑された。

同月中に、利家は、石田三成等の奉行衆に対して、秀吉への絶対忠誠と、拾を敬い奉公することを中心とした誓約書を提出。

この誓約書は、他の諸将も提出するところとなり、結果、利家と宇喜多秀家は常に京に居て、拾を補佐することが義務付けられ、徳川家康と毛利輝元は交代で京に滞在することとなった。

秀次の妻子が処刑された翌日に発布された『掟書追加九ヶ条』に拠って、利家、家康、輝元、小早川隆景、宇喜多秀家が豊臣政権重臣に規定される。

この五人の中でも、とりわけ、利家と秀家の二人に託された職責は、秀頼の養育と補佐であった。

慶長元(1596)年5月、上洛。

上洛の様子は、騎馬姿の諸大名を先頭に、煌びやかな衣装を着用した数百人の兵が続き、その後ろに乳母が傍らに付いた秀頼が輿に乗って続き、さらに華やかな衣装を着た女房衆の輿が30数丁続いた。そして、行列の殿に、前田氏と徳川氏の騎馬武者が進んだ。

その後、五条大橋からは徒歩で御所へ向かった、と言う。

かくて、5月13日に、秀頼は、秀吉、利家、乳母等と共に参内して、後陽成天皇の玉顔を拝し、従五位下に叙された。

京都御所
(京都御所)

その数ヵ月後の閏7月、『慶長大地震』が発生。

伏見城は大きな被害を受けるが、秀頼は無傷で無事であった。直後、利家が駆け付けたので、秀吉は、秀頼の保護を利家に委ね、大きな余震が頻発する中、利家は秀頼を大切に抱きかかえ守っていた。

12月17日、「秀頼」と改名する。この時、後陽成天皇は、大坂城へ勅使を派遣して、祝いの品を下賜した上で、秀頼への改名を賀している。

慶長2(1597)年5月、修築中の伏見城へ入り、9月には、京都新邸に移る。

同月、参内し、後陽成天皇の御叡覧を仰いで元服を果たし、従四位下に叙され、左近衛権少将に任じられる。さらに、同月中に、左近衛中将に昇進する。

秀吉は、伏見城の修築現場へ戻り、秀頼は、利家と共に京都新邸で過ごす。この頃、秀吉が伏見城の普請現場で怪我をしたため、秀頼は、見舞いの書状を書き、利家が直々に届けている。

この後、秀頼は、秀吉と共に前田屋敷を訪問し、利家から元服祝いとして、銀200枚等を贈られている。

秀頼にとって、前田利家は、単なる傅役と言うよりも、父親代わりとも呼ぶべき存在であった。そして、そんな利家から、若き日の秀吉の話を、色々聞かされたものと想像される。

慶長3(1598)年4月、秀頼は、従二位、権中納言に進む。この頃から、利家は病気がちになったこともあり、隠居して、家督を息子の前田利長に譲る。

その利長は、秀頼の昇進と同じ日に、従三位、権中納言になっている。利家の病気療養中は、事実上、利長が傅役代行となったのである。

この時期、秀頼は、自分に従わない侍女たちについて、秀吉に訴え出ており、秀吉は秀頼に対して、それらの侍女たちを皆殺しにすることを約束している。

また、秀頼は、乳母の右京大夫に対する不満も秀吉に打ち明けており、秀吉は同じく右京大夫を殺すことを約束している。

このように「親バカ」ぶりを見せた秀吉であるが、自らの死期の近いことを悟ると、6月に、奉行衆に秀頼への忠誠を誓わせ、次いで7月には、五奉行五大老の制度を導入する。

これら五奉行、五大老の職務は、第一に、秀頼の補佐であり、次いで、朝鮮在陣中の諸将を無事に引き揚げさせることであった。

秀吉は、同月、諸将に秀頼への忠誠を誓わせた上で、形見の分配を行なった。

秀吉は遺言として、利長を秀頼の出仕衆として、五大老、五奉行に次ぐ待遇を与え、また、秀頼の取次ぎ役を利家と利長の二人で交代して務めるように命じた。利長は、秀頼の側近に位置付けられたのである。

利長の弟の前田利政は、大野治長、毛利秀元等と共に、「詰番衆」と言う秀頼の親衛隊指揮官の一員となっている。また、小出秀政と片桐且元が秀頼に付けられた、と言う。

そして、いよいよ秀吉の容態が重篤となる8月、五大老と五奉行との間で秀頼への絶対忠誠の誓書を交換させ、なおも、再び、五大老に秀頼への絶対忠誠の誓書を五奉行に提出させ、五奉行にも秀頼への絶対忠誠の誓書を五大老に提出させた。

「秀頼が成り立つように、よろしくお願い申し上げます」
「秀頼のことをくれぐれもお頼みいたします。他に思い残すことはありません」

そう言い残して、8月18日、秀吉は大往生を遂げる。秀吉が、秀頼に遺した財産は、大坂城や伏見城等の城や直轄領の他、金子9万枚、銀16万枚、金分銅無数の天文学的財産であった、と言われる。

翌9月、五大老と五奉行は、三度、秀頼に忠義を尽くす趣旨の誓書を提出する。

しかし、このような誓書に、何の効力も無いことは、五大老と五奉行の面々の誰もが知っていることであって、何より秀吉本人が一番良く知っているはずだった。

慶長4(1599)年正月元旦、秀頼は、秀吉後継者の「天下人」として諸将から年賀の拝礼を受ける。そして、同月10日、土砂降りの豪雨の中、淀川を下って、大坂城へ入城する。ここに、大坂城は、秀頼の居城となった。

大坂城
(大坂城)

秀頼の下で事務を執行するのは、三成の兄の石田正澄、片桐且元、石川一宗、石川光吉の四人であった。そして、秀頼以外で唯一天守に登る権限、即ち、大坂城の軍事権を付与されたのは、利家であった。

しかし、間もなく、家康が秀吉の遺命を反故にして、有力大名との婚姻を推進する。

家康を除く四大老と五奉行は、家康を詰問。ここに、家康の下に、黒田孝高、黒田長政、福島正則藤堂高虎等が集結。一方の利家の下には、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、細川忠興、佐竹義宣、立花宗茂、小西行長長宗我部盛親等が集まった。

一触即発の危機となったが、浅野長政、清正、忠興が、利家と家康の間に仲裁に入り衝突は回避された。ここで、もし、利家と家康が軍事衝突していたら、日本史は全く別のものとなったことであろう。

こうして、秀頼のために、家康と一戦する覚悟を見せた利家も、閏3月に死去してしまう。

利家は、死に臨むに当たり利長に対して、「前田の兵8000を大坂に常駐させ、利長自身も3年間は大坂城に留まり、何があっても秀頼公を守るように」と、遺言する。秀頼は、そんな利家の恩に報いるため、朝廷に願い出て、利家に従一位を追贈した。

利家が没すると、五奉行のひとり三成が、清正、正則、忠興等に襲撃され失脚。

このように、豊臣氏が家康と言う悪魔に思うがままに蹂躙され暗雲が立ち込める中、4月に、秀吉を「豊国大明神」として崇める豊国社が、京の東山に創建される。

豊国神社
(豊国神社)

7月に入ると、家康は、朝鮮での疲れを癒すようにと命じて、秀家、輝元を、それぞれ帰国させる。ここに、「秀家は何があっても秀頼の傍から離れぬように」とした秀吉の命令は、家康のために破られる。

また、利家に代わって秀頼唯一の側近となった利長であったが、家康からの圧力に抵抗し切れず、8月に、加賀国へと帰国してしまうのである。この時、前田氏の家臣たちは、「利家の遺言を守って秀頼公のために尽くすべし」と、利長を諌めたが、利長は、とっとと帰国してしまった。

秀吉が構築した秀頼補佐体制は、こうして、家康のごり押しで壊滅させられたのである。

9月になって、家康は、秀頼に対して、重陽を祝いを述べると言う名目で大坂城へ乗り込む。すると、増田長盛が、「淀殿と密通した利長を首謀者として、浅野長政、土方雄久、治長の三人が家康暗殺を計画している」と、家康に讒訴する。

10月、大坂城西ノ丸に入った家康は、長政、雄久、治長の三人を処分した上で、「前田征伐」を宣言。

これに慌てた利長は弁明に奔走し、遂に、生母の芳春院(まつ)を、江戸に人質として送り、家康に平伏し、ここに、家康に逆らうものは、全て駆逐されるに至った。

慶長5(1600)年2月、家康は、独断で、田丸直昌、森忠政を移封。事実上の徳川政権である。

6月、「豊臣氏の御為」と称して『上杉征伐』の兵を起こし東下する家康に対して、秀頼は、労いの言葉と共に、太刀、茶器、軍資金として金2万両、兵糧米2万石を下し与えている。

7月、石田三成が、家康の専横を憎み豊臣氏のために決起する。

16日、毛利輝元が大坂城に入る。17日には、前田玄以、増田長盛、長束正家の名で、家康糾弾十三ヶ条が出される。この日、輝元と長盛が、対徳川戦の期間中、秀頼の補佐を務めることが決定。

同月下旬、秀頼は、勅使から陣中見舞いを受けている。

しかし、9月15日に行なわれた『関ヶ原合戦』において、西軍は、小早川秀秋の裏切りを始め、次々と寝返りが相次ぎ、そのために遂に敗北する。

10月15日、家康は戦後処理を実施。この結果、豊臣氏は、河内、摂津、和泉65万石の一大名に、格下げされてしまう。

さらに、秀次以来空席となっていた関白に、12月19日、九条兼孝が就任し、豊臣氏に依る関白襲封が中絶するのである。

慶長6(1601)年3月、権大納言となる。この時、同時に、徳川秀忠も権大納言となっている。ただ、官位において、秀頼の方が上であった。

慶長7(1602)年正月、正二位に昇進。

家康は「秀吉の菩提を弔うように」と勧め、秀頼と淀殿は、この勧めを受けて、京都の方広寺の再建を開始する。

方広寺
(方広寺)

ところが、年末になって、方広寺大仏殿は、失火のため焼失。再建事業は停止する。

この年、秀頼は、方広寺の他にも、東寺、枚岡神社、須磨寺の修築事業に取り掛かる。

東寺(教王護国寺)
(東寺)

そして、注目すべきは、この慶長7年に、京都では、秀頼が関白に、秀忠が征夷大将軍に、それぞれ就任すると言う噂が、飛び交っていたことである。

翌慶長8(1603)年正月、秀忠では無く家康が征夷大将軍となる、と言う噂と共に、家康の将軍就任と同時に、秀頼が関白に就任するとの噂が、京や大坂において広く流布する。

かくして、2月、徳川家康は征夷大将軍に就任。ここに、家康は、朝廷のお墨付きを得て、幕府を開いて、日本の政治を掌握する権限を得る。

だが、噂に反して、秀頼が関白に任命されることは無かった。

また、3月には、前年から家康が御所に西に建設を開始していた二条城が完成する。この二条城は、儀式と政庁のための城であると同時に、朝廷と豊臣氏の監視を主目的としたものであった。

二条城
(二条城)

このような家康の動きに、豊臣氏側は猛反発したものの、4月になって、秀頼は、内大臣に任命される。

さらに、7月には、徳川秀忠の長女の千と婚姻する。家康は、秀吉の遺命を尊重しているように見せ掛けると同時に、将来的には、家康から秀頼への政権返上の含みを持たせたのである。家康の策略の前に、豊臣氏は、まんまと乗せられるのである。

この秀頼と千の婚儀に当たり、福島正則が、西国の諸大名を中心に、秀頼への忠誠を誓う誓書の取りまとめに奔走した、とする説もある。

なお、秀頼は、千との間に子を成すことは無かった。一方で、側室の渡辺氏(成田氏とも)との間に、一男(国松)一女(天秀尼)を成している。

この年、誉田八幡宮、叡福寺の修築事業に取り掛かる。

慶長9(1604)年正月、秀頼は、伏見城の家康に年賀の使者を送ったが、家康が大坂城へ年賀に出向くことは二度と無く、秀頼に対しても年賀使を送ることは無かった。

天下人は家康なのである。

8月、豊国社の臨時祭礼が開催される。

12日から19日にかけて開催された祭礼は、18日には勅使と豊臣恩顧の諸大名が参拝する等、京都始まって以来とも言われるほどの大賑わいであった。

そして、11月10日、九条兼孝が関白を辞任。ここに、関白職が空いたことで、臨時祭礼の豊臣氏人気もあり、淀殿たちは、豊臣氏側では秀頼の関白就任を期待したものと思われる。

この年、延暦寺、東寺、勝尾寺、中山寺、吉野子守神社、曇華院等の修築事業に取り掛かる。

慶長10(1605)年4月、秀頼は、右大臣に昇る。ところが、その数日後、秀忠が征夷大将軍に就任するのである。この将軍宣下に当たり、秀忠は、江戸から先鋒に伊達政宗、上杉景勝の部隊を配し、総勢10万の大軍勢を率いて上洛した。

この秀忠上洛について何の連絡も受けていなかった豊臣氏側では、臨戦態勢を敷いて警戒したほどである。

しかも、秀忠は、秀頼に対して、自らに将軍就任祝いの挨拶を行なうように強要して来た。この時に、秀忠が秀頼への使者に立てたのが、おね(高台院)であった。

秀忠からの強要に、秀頼が、どのように対処しようとしたのか不明であるが、淀殿は、拒絶した。それどころか、「秀忠如きに挨拶するぐらいなら、自分が秀頼を殺し、自分も大坂で自害して果てる」と怒り心頭であった。

淀殿が、家康と秀忠に突き付けた拒絶の回答は、京、大坂の人民の知るところとなり、「合戦間近」の噂が広まり、京、大坂周辺は恐慌状態に陥った。

そのような中、7月23日、近衛信尹が関白職に就任。秀頼の関白就任は無かった。

この年、醍醐寺相国寺、多田院、伊勢神宮宇治橋等の修築事業に取り掛かる。

相国寺
(相国寺)

慶長11(1606)年11月、関白職は近衛信尹から鷹司信房へと引き継がれ、今回も秀頼には巡って来ず、「秀頼が関白になる」との噂すらも聞かれ無くなる。

この年、醍醐寺、石清水八幡宮真正極楽寺(真如堂)、生国魂神社、南禅寺等持院等の修築事業に取り掛かる。

生国魂神社
(生国魂神社)

慶長12(1607)年正月、右大臣を辞任。この年、北野天満宮の修築事業に取り掛かる。

慶長13(1608)年10月、長らく放置されて来た方広寺再建が決定。秀吉の遺産の大法馬金を鋳直して、その費用とした。

12月、関白職は鷹司信房から九条忠栄へと引き継がれ、さらに、この頃、家康が秀忠の娘を、皇室へ入内させようと画策している、との噂が流れる。

この年、鞍馬寺の修築事業に取り掛かる。

鞍馬寺由岐神社
(鞍馬寺由岐神社)

慶長14(1609)年、
側室の渡辺氏との間に女子(天秀尼)が誕生する。

慶長15(1610)年6月、方広寺大仏殿再建が開始される。この時、淀殿は、秀忠正室の浅井江与に資金支援を依頼したものの、家康が妨害する。

慶長16(1611)年3月、後陽成天皇が政仁親王(後水尾天皇)に譲位。同日、九条忠栄が関白に再任される。

その翌日、秀頼は、家康と二条城で会見を行なう。

二条城
(二条城)

この会見には、淀殿が反対したが、加藤清正、浅野幸長、片桐且元等が懸命に淀殿を説得し実現した。秀頼の上洛に際しては、清正と幸長が各300騎で秀頼の護衛に当たり、沿道には豊臣軍18000が配された。

摂津と山城の国境に来ると、徳川義直の出迎えを受け、二条城へ入った。

会見で、秀頼に供奉したのは、高台院、且元、織田長益、大野治長等約30人であり、次の間に控えていたのが、清正、幸長、池田輝政、義直、徳川頼宣等であった。

会見では、秀頼から家康に、太刀、黒駒、金300枚が贈られた。その返礼として、家康からは、太刀、脇差、馬等が秀頼に贈られたが、明らかに家康からの贈り物の方が見劣りするものであった。

緊張に満ちて始まった会見も、終始和やかに進み終わった。

身の丈六尺五寸(197センチ)の肥満児の秀頼を、「能無しの二世の坊ちゃん」とバカにしていた家康であったが、しかし、会見後には、「秀頼は賢明な人物である」と感想を漏らし、秀忠との器量の差に愕然とすることとなる。

もちろん、この話は軍記物の類に書かれたものであって、史実における秀頼の風貌や、家康の考えを伝えるものでは無い。だが、秀頼と家康の会見が実現した後、徳川方から豊臣氏に対する動きが、ピタリと止まるのは不可解である。

なお、この会見から数ヶ月後に、清正は怪死する。

慶長17(1612)年、千の「鬢削之儀」を朝廷儀式に倣う様式で行ない、秀頼自ら千の髪を削いでやる。

7月、関白職は九条忠栄から鷹司信尚へと引き継がれ、この後、信尚は、豊臣氏滅亡後まで関白に留まることとなる。

慶長19(1614)年7月、朝廷は豊臣氏家臣に官位を授与。この時点で、朝廷は、皇室を重視する豊臣氏に対して、非常に好意を持っていたことが窺える。

しかし、同月29日、『方広寺鐘銘事件』が勃発。

家康の腰巾着である金地院崇伝が、方広寺の梵鐘に刻まれた銘文「国家安康 君臣豊楽」を、家康への不敬である、として問題視し騒ぎ立てたのである。

方広寺鐘銘事件
(方広寺鐘銘事件)

因みに、徳川御用学者の林羅山も、崇伝に負けず劣らず家康に媚びへつらい、「君臣豊楽 子孫殷昌」を問題視して、家康のご機嫌を取って、豊臣氏を責め立てた。

このため、豊臣氏側では、片桐且元を、弁明のために家康のもとへ派遣した。一方で、淀殿も独自に、大蔵卿局を派遣する。この二元外交が、致命傷となった。

家康は、且元に対して、「豊臣氏の国替えか、秀頼の江戸詰めか、淀殿の江戸詰めか」の豊臣氏が絶対に飲めないことが判っている内容の三条件を提示。

一方で、家康は、大蔵卿局に対して、「秀頼公を粗略に扱うわけは無い」として、一切何の条件も提示しなかった。

このため、豊臣氏は、且元と大蔵卿局の言うことが異なることから混乱に陥る。

且元は、秀頼に「家康は老人なので早晩死ぬ。その時まで待つように」と告げるが、治長等が、この発言に反発したこともあり、且元は、豊臣氏を見限る覚悟を決める。

10月1日、秀頼は、且元の追放を家康に通告する。即ち、この通告こそは、外交交渉の打ち切りを言い渡した事実上の宣戦布告であり、これをもって『大坂冬の陣』の開戦とされる所以である。家康は、「待ってました」とばかりに、諸大名に対して、「豊臣征伐」の大号令を発するのである。

2日、秀頼は、日本全国に檄文を発する。軍資金には、方広寺再建と同じように、大法馬金が鋳直された。

この時、徳川氏との開戦を阻止しようと、高台院が大坂城に向かおうとするも、徳川軍の兵に妨害され断念せざるを得なかった。

7日、長宗我部盛親、真田信繁(幸村)、後藤基次、明石全登、毛利勝永、京極備前等、牢人衆が続々と大坂城へ入るものの、豊臣恩顧の諸大名は、秀頼の檄文を黙殺し、家康方に付いた。

また、秀頼は独自に、和久是成を使者として伊達政宗に支援を願うが拒絶される。さらに、島津家久にも使者を派遣したが、こちらも拒絶されてしまっている。

11日、秀頼は、諸将と対面。この時、矢野正倫の「主家(中村氏)再興」の願いを聞き入れた上で、秀頼は、50騎の兵力を与えている。

13日、秀頼は、島津家久と浅野長晟に使者を出したが、家久には重ねて拒絶され、長晟には使者を斬り捨てられてしまうのである。18日にも、秀頼は、家久に使者を贈るも三度拒絶される。21日、池田利隆にも、秀頼は使者を出すが拒絶される。

結局、現役大名は誰ひとりとして、秀頼に呼応する者は無かった。ただ、福島正則のみが、自らの大坂屋敷に備蓄してあった兵糧米の使用を暗黙の内に許可した程度である。

このような圧倒的不利な状況下で、『大坂冬の陣』の火蓋が切られる。

しかし、予想に反して、鉄壁の大坂城を中心に篭城戦を仕掛けた豊臣軍は、とても牢人衆の寄せ集めとは思えないほどに奮戦した。とりわけ秀吉が造った大坂城は攻めようが無かった。

11月20日、大坂城の難攻不落ぶりに辟易した家康は、大坂城内の織田長益と治長に対して、講和勧告の呼び掛けを行なう。しかし、この初期の講和交渉は、秀頼、さらに、徳川軍内部でも秀忠の反対で流れる。

12月16日、徳川軍は大坂城天守を砲撃。これをきっかけに淀殿が講和受け入れに傾く。

秀頼は、長益と治長が「講和目的」で急遽開催した軍議の席上で、信繁等から、「この大坂城のある限り、豊臣軍は必勝の状態にある」との報告を受け、継戦を決意する。

これに慌てた治長は、「牢人衆は、ここで講和すれば禄を失うので、そう言っているに過ぎない」と、秀頼を諭したが、秀頼は聞き入れなかったので、治長が「家康は老人なので、間もなく死ぬので、その時を待ちましょう」と言ったところ、「それは且元の言葉と同じでは無いか」と激怒した。

その上で、「この状況で家康から講和を持ち出すのは怪しい」と、秀頼は断言した。家康の腹の底を、秀頼は、読み切っていたのである。

ところが、18日、淀殿を中心に講和交渉が開始されてしまうのである。そして、21日、講和条約が交わされる。

この日、信繁は、秀頼に対面し、家康と秀忠を生け捕りすることを願い出た。最大の好機に秀頼の心は大きく揺らいだが、淀殿が却下してしまった。

もっとも、徳川軍でも、伊達政宗が、「今こそ、淀殿と秀頼と言う奸賊を殺戮する好機」と提案したが、家康は却下している。

22日、講和条約に則り、徳川軍による大坂城惣堀の埋め立てが開始され、一ヶ月ほどで大坂城の堀は全て埋め立てられ、裸城にされてしまう。

元和元(1615)年、3月になって、秀頼は、青木一重を駿府城に差し向け、徳川義直の婚儀への祝辞と、豊臣氏に対する資金援助を要請する。一重には、淀殿の使者として、大蔵卿局、そして、常高院が同行していたが、家康は、これを黙殺。

そして、4月1日、秀忠は、「豊臣征伐」の宣言を行なう。

秀頼は、3日、天王寺周辺の井戸を埋め立てさせ、大坂城篭城が不可能となった状況下、野戦を覚悟する。4日、徳川軍が伏見城の集結しているとの報告を受け軍議を開催。

翌5日、秀頼は、大坂城外を視察。

前衛を、木村重成、後藤基次、そして、千成瓢箪の馬印、その後ろに秀頼の本隊、秀頼の傍らには、毛利勝永が秀頼の兜を持ち従った。続いて、明石全登、毛利元隆、真田大助等の部隊が連なり、長宗我部盛親、真田信繁と続き、殿は大野治房が務めた。

豊臣氏馬印
(豊臣氏馬印)

この時の豊臣軍の軍装は、真に煌びやかであり、規模こそ違え往年に行なわれた秀吉の『九州征伐』や『小田原征伐』を彷彿とさせるものであった。

そして、それこそが、秀頼にとって最初で最期の行軍であり、天下統一を果たした豊臣軍最期の勇姿であった。

9日、大坂城内桜門で、治長が襲撃され重傷を負う。

この日、秀頼は、浅野長晟と細川忠興に使者を派遣し援軍を頼むが拒絶される。

24日、家康は、常高院と二位局を大坂城に送り、秀頼に対して大和への国替えを命令するが、秀頼は、これを毅然と拒否する。

かくして、二度目の戦端が開かれる。豊臣軍は、各地で繰り広げられた野戦において、奮闘するものの、その兵力差は如何とも埋め難く、遂に壊滅状態となる。

5月7日朝、秀頼は最後の決戦のため出陣を決意。しかし、速水守久が「死体を野に晒すのは大将のするこでは無い」と諫止したため、出陣を断念する。

夕方、郡良列と津川親行が馬印を秀頼に奉還した上で自刃する。渡辺糺と正栄尼の母子も自刃。

秀頼は、天守へ登り、淀殿、千等と共に自刃することを考えていたが、守久の勧めで、山里曲輪の糒蔵へ避難する。

治長は、千を介して、秀頼と淀殿の助命を画策。

8日早朝、徳川軍は、それまで秀頼たちの居場所を確認出来なかったが、且元が秀頼たちの潜伏場所を秀忠に密告する。

秀忠は、家康と協議し、秀頼と淀殿に対して、「自害勧告」を行なう。また、徳川軍の兵たちが、面白半分で、秀頼等の篭る糒蔵に対して銃撃を加えた。

騒然とした空気が立ち込める中、治長が糒蔵に火を掛け、その燃え盛る炎の中で、秀頼は自刃する。毛利勝永(氏家行広とも)が介錯を行ない、秀頼の頚を刎ねた。

その瞬間こそ旭日の如く日本史に登場した豊臣氏の最期であった。

豊臣秀頼淀殿自刃跡
(豊臣秀頼淀殿自刃跡)

この時、秀頼に殉死した者たちは、32人を数えた。

戦後、家康は、秀頼と淀殿が篭った糒蔵の跡から、二人の骨を探し出させようとしたが、焼け崩れた木材や土壁に拒まれた上に、多くの人骨が重なるように出て来たこともあって、秀頼と淀殿の骨を特定することが出来なかった。

秀頼の死後、秀頼の遺児の国松も探し出され処刑される。もう一人の遺児は女子であったため、千が保護して尼寺に入った。

かくして、秀頼の死をもって、豊臣氏二代の栄耀栄華は、一瞬の夢のように潰え去ったのである。


豊臣秀頼の人物については、江戸時代、徳川史観下に書かれた俗書の影響で、「巨漢で凡庸なお坊ちゃん」と言うイメージが強い。

しかし、実際に秀頼に拝謁した人物が伝える秀頼像は、かなり違う。

鍋島直茂は、慶長2年、当時満4歳の秀頼に拝謁し、朝鮮での戦いにおける苦労を労われた上で着物を拝領しているが、その際の秀頼は、僅か4歳であるにも関わらず、実に威風堂々として、王者の貫禄を備えたものであり、その秀頼の姿に感動したことが、直茂の言葉として遺されている。

また、あれほどに淀殿を毛嫌いしていた加藤清正や福島正則であったが、秀頼に注いだ眼差しは限りなく優しかった。

その秀頼も、徳川家康と徳川秀忠の二人に、葬り去られる。

だが、『大坂の陣』直後から、秀頼生存説が語られるようになる。加藤忠広が肥後国へ逃したとも、島津氏家臣が薩摩国へ逃したとも、真田信繁(幸村)が護衛し薩摩国へ逃亡したとも言われ、さらには、高野山で僧体となっていたと言う目撃証言まで飛び出すほどに、秀頼伝説は人々の間で広く永く語り継がれて来た。

そう言う意味では、日本人の心の内の豊臣氏は、決して滅びることは無かったのである。

京都の清涼寺では、昭和58(1983)年に建立された秀頼の首塚において、毎年5月8日、秀頼の供養が営まれている。

清涼寺豊臣秀頼首塚
(清涼寺豊臣秀頼首塚)

上方では、未だ豊臣氏の栄光は色褪せず輝き続けているのである。

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【年表】

父:豊臣秀吉、母:淀殿。

<文禄2(1593)年>
 8月3日、誕生。
 8月9日、秀吉、「拾」と命名。
 8月15日、秀吉、名護屋城を出発。
 8月25日、秀吉、大坂城に入り、拾と対面。
 10月1日、豊臣秀次の娘と婚約。

<文禄3(1594)年>
 12月、伏見城入城。

<文禄4(1595)年>
 2月、秀吉、朝廷に対して拾の叙爵を願い出る。
 4月16日、羽柴秀保、死去。
 7月3日、『豊臣秀次事件』。
 7月8日、秀次、高野山へ追放。
 7月12日、徳川家康、毛利輝元等、誓書を提出。
 7月15日、秀次、自刃。
 7月20日、前田利家、宇喜多秀家等、誓書を提出。
 8月2日、秀次の妻子が処刑される。

<慶長元(1596)年>
 5月9日、上洛。
 5月13日、従五位下。
 閏7月13日、『慶長大地震』。
 12月17日、「秀頼」と改名。

<慶長2(1597)年>
 5月14日、伏見城入城。
 9月26日、京都新邸に移る。
 9月28日、参内。従四位下。左近衛権少将。
 9月29日、左近衛中将。
 10月22日、前田屋敷を訪問。

<慶長3(1598)年>
 3月15日、「醍醐の花見」。
 4月20日、従二位。権中納言。
 6月14日、秀吉、五奉行に秀頼への忠誠を誓わせる。
 6月16日、秀吉と共に諸大名を引見する。
 7月7日、秀吉、諸将に秀頼への忠誠を誓わせ、形見分けを実施。
 7月13日、五大老、五奉行が制定される。
 7月15日、秀吉、五大老と五奉行に遺言を伝える。
 8月5日、秀吉、五大老と五奉行との間で秀頼への絶対忠誠の誓書を交換させる。
 8月7日、秀吉、五奉行間の婚姻を行なう。
 8月8日、五大老、秀頼への絶対忠誠の誓書を五奉行に提出。
 8月10日、五大老、五奉行に三ヶ条の命令を下す。
 8月11日、五奉行、秀頼への絶対忠誠の誓書を五大老に提出。
 8月18日、秀吉、死去。
 9月3日、五大老、五奉行、誓書を提出。

<慶長4(1599)年>
 正月元旦、年賀の儀。
 正月10日、大坂城入城。
 正月21日、四大老と五奉行、家康を詰問。
 閏3月3日、前田利家、死去。
 閏3月10日、石田三成、佐和山蟄居。
 閏3月24日、秀頼の奏請で、利家に従一位が追贈される。
 閏3月26日、島津忠恒の昇殿が認められるように朝廷に願い出て勅許を得る。
 4月18日、豊国社、創建。
 7月、家康、宇喜多秀家、毛利輝元を帰国させる。
 8月28日、利長、加賀国へ帰国。
 9月7日、家康、石田三成の留守邸へ入る。
 9月12日、家康、石田正澄邸へ入る。
 9月27日、家康、大坂城西ノ丸へ入る。
 10月2日、家康、浅野長政、土方雄久、大野治長を処分する。

<慶長5(1600)年>
 2月1日、家康、独断で田丸直昌と森忠政を移封。
 6月2日、家康、『上杉征伐』を宣言。
 6月15日、家康に対して軍資金、兵糧米等を与える。
 7月16日、毛利輝元、大坂城入城。
 7月17日、家康糾弾十三ヶ条が出される。
 9月15日、『関ヶ原合戦』。
 9月20日、家康、秀頼を咎め無しとする。
 9月27日、家康、大坂城入城。
 10月15日、河内、摂津、和泉65万7400石に減封。

<慶長6(1601)年>
 3月27日、権大納言。
 10月、家康、江戸下向。

<慶長7(1602)年>
 正月6日、正二位。
 3月、家康、年賀の挨拶を行なう。
 11月、方広寺再建開始。
 12月、方広寺大仏殿、失火のため焼失。

<慶長8(1603)年>
 2月8日、家康、年賀の挨拶を行なう。
 2月12日、家康、征夷大将軍。
 4月22日、内大臣。
 7月28日、徳川千と婚姻。
 10月、家康、江戸下向。

<慶長9(1604)年>
 8月12日、豊国社臨時祭礼。

<慶長10(1605)年>
 4月12日、右大臣。
 4月16日、徳川秀忠、征夷大将軍。
 5月10日、上洛を拒絶。
 8月14日、豊国社臨時祭礼。

<慶長12(1607)年>
 正月11日、右大臣を辞任。

<慶長13(1608)年>
 10月、方広寺再建決定。

<慶長14(1609)年>
 渡辺氏との間に女子(天秀尼)が誕生。

<慶長15(1610)年>
 6月12日、方広寺大仏殿再建開始。

<慶長16(1611)年>
 3月27日、後陽成天皇、譲位。政仁親王、受禅(後水尾天皇)。
 3月28日、家康と会見。
 3月29日、家康、後水尾天皇に2000石献上。
 4月12日、後水尾天皇、即位。

<慶長17(1612)年>
 千の「鬢削之儀」。

<慶長19(1614)年>
 4月16日、方広寺梵鐘鋳造開始。
 6月11日、秀頼、家康の命令に従い大野治長と片桐貞隆に加増する。
 7月、朝廷、豊臣氏家臣に官位を授与。
 7月21日、『方広寺鐘銘事件』。
 8月13日、片桐且元を駿府城に派遣する。
 8月23日、淀殿、大蔵卿と正栄尼を駿府城に派遣する。
 9月20日、秀頼、且元から報告を受ける。
 9月28日、駿府城、江戸城、京都所司代へ「且元追放」を宣言。
 10月1日、『大坂冬の陣』。
 10月2日、日本全国に檄文を発する。
 10月7日、軍議開催。
 10月11日、諸将と対面。諸将の持ち場を公平にするため抽選を導入しようとする。
 10月13日、島津氏と浅野氏に援軍要請する。
 10月18日、島津氏に援軍要請する。
 10月21日、池田利隆に内応要請する。
 12月16日、徳川軍の砲撃が天守に命中し西に傾く。
 12月21日、講和停戦。

<元和元(1615)年>
 正月24日、大坂城の総堀埋め立て完了。
 3月13日、秀頼の使者、駿府城到着。
 3月15日、秀頼の使者、家康と会見し資金援助を要請。
 4月3日、天王寺周辺の土地を野戦に適するように整備させる。
 4月4日、軍議開催。
 4月5日、大坂城外を視察。
 5月7日、山里曲輪へ入る。
 5月8日、自刃。

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