西郷局(お愛の方)

さいごうのつぼね(おあいのかた) (?〜1589)

略伝

戦国〜安土桃山時代。

徳川幕府初代将軍徳川家康側室。
徳川幕府第二代将軍徳川秀忠生母。

従一位追贈。

「龍泉院」、「宝台院」。
「愛」、「お愛(於愛)」、「愛子」、「昌子」、「お丁(於丁)」。
父は戸塚忠春(別説あり)。
母は西郷正勝の娘。
継父は服部正尚。
養父は西郷清員。
子に徳川秀忠、松平忠吉

西郷局は、今川氏家臣の戸塚忠春の娘として誕生する。

しかし、間もなく忠春は戦死したため、
母は服部正尚と再婚する。

西郷局は、天正4(1576)年に、西郷義勝と婚姻。
ところが、翌天正5(1577)年に、義勝は戦死してしまう。

天正6(1578)年、徳川家康の目に留まり、西郷清員の養女となって、
家康の側室に迎えられる。

天正7(1579)年、長丸(後の徳川秀忠)を出産。
続く翌天正8(1580)年には、福松丸(後の松平忠吉)を出産。

天正17(1589)年、死去。
後に秀忠から従一位を追贈された。

《関係略図》
 西郷正勝┳元正━━━━義勝      ┃       │      ┃       └───────┐      ┃               │      ┣清員====西郷局(養女)←←┼┐      ┃       │       │↑      ┃       ┝┳秀忠    │↑      ┃       │┗忠吉    │↑      ┃       │       │↑      ┃       └───────┼┼─────┐      ┃               │↑     │      ┗女子             │↑     │        ││            │↑     │        │└───────────┐│↑     │        │            ││↑     │        ┝━━━━西郷局(愛)→→┼┼┘     │        │     │      ││      │        │     └──────┼┘      │       戸塚忠春          │       │                     │       │       服部正尚          │       │        │            │       │        └────────────┘       │                             │       松平広忠━━徳川家康            │              │              │              └──────────────┘

西郷局の母方の西郷氏は、
清和源氏を自称する一族で、
松平清康が三河国岡崎城を支配するまで、
岡崎城城主を代々務めていた家柄であったと言われる。

その西郷氏の西郷正勝の娘が、
今川氏家臣の戸塚忠春と婚姻した理由が
何であったのか全く不明である。

三河国が今川義元に併呑された際の政略結婚であったのかも知れない。
が、忠春は、清和源氏を名乗っているものの、それほど有力な武将であったのか、
謎の残るところである。

その忠春は、永禄5(1562)年に戦死したとされる。

しかし、一説では、忠春は、天文23(1554)年に起こった
今川氏と北条氏との合戦において戦死した、とする伝承がある。
また、忠春は、遠江国法泉寺の住持である心翁永伝の父とされており、
西郷局には兄弟(恐らく異母兄弟)がいたことになる。

これらのこともあり、西郷局の父を、忠春では無く秋山十郎とする別説もある。

ただ、忠春戦死の報に、当時、今川氏の人質であった松平元康(徳川家康)が、
その死を嘆いたとされることから、忠春と家康との間には、
何かしらの交流があったことも推測される。

このように謎の多いところであるが、忠春と正勝の娘の間に生まれた女子が、
愛(西郷局)であった。

忠春の死後、時期は不明であるが、
母は服部正尚と再婚し、愛も連れ子として家に入る。

天正4(1576)年に、愛は、従兄妹の西郷義勝と婚姻。
しかし、翌年に、義勝は、武田氏との合戦で戦死してしまう。
義勝との間には、男子の西郷家員と女子一人(二人とも)がいたとする説がある。

義勝の死後、愛のはっきりとした動きは不明であるが、
母のもとへ戻ったか、西郷氏一族のもとへ身を寄せたものと思われる。

天正6(1578)年、徳川家康は愛を見初め、自身の側室にしようとする。
ただ、継父の正尚の身分が低過ぎるため、伯父の西郷清員の養女としてから、
家康の側室に迎えられる。

家康の「後家好き」の性癖は、この愛から始まる。
言い換えれば、それほどに、家康にとっては、愛との出逢いが、
人生を左右するほどの出来事であった。

愛は、視力が弱かったと伝えられる。
それが極度の近視であったとしたならば、相手の顔を確認するのに、
自らの顔を近づける等、愛の仕草のひとつひとつが、
家康の心を掴んだのではないだろうか。

また何より父を失い、夫を失うと言う深い悲しみを経験していた愛であればこそ、
家康の心の闇に暖かな灯火を点すことが出来たのであろう。

側室となって、愛は「西郷局」と呼ばれる。
長丸(徳川秀忠)を出産してから、「西郷局」の名前で
呼ばれるようになったとする説もある。

西郷局は、家康と同衾するようになると、すぐに身篭り、
見初められて1年後の天正7(1579)年には長丸(徳川秀忠)を出産した。

その出産に際して、家康は、
西郷局を生母のもとへ里帰りさせた上で、
自身の奥向きから倉見局を派遣して出産の面倒を見させる等、
並々ならない優しさを見せている。

その長丸が誕生して間もなく事件が勃発する。
『信康事件』である。

事件の真相は、明確では無いが、この事件の結果、
家康は、正室の築山殿を殺害し、嫡男の松平信康を自刃に追い込んでいる。

家康には、信康の他に、次男の於義丸(結城秀康)が誕生していたが、
於義丸の母の万(小督局)は性に自由奔放な貞操観の無い女性であったため、
家康は、万の子の於義丸を自分の子と一応認めてはいたものの逡巡するところがあった。

このため信康を失った家康にとって、
長丸こそが信康に次ぐ自分の後継者との思いがあったのではないだろうか。

翌天正8(1580)年、西郷局は、その家康の心を力づけるかのように、
福松丸(松平忠吉)を出産している。

こうして西郷局は、家康の妻として充実の時を過ごすが、
己の欲望を満たすための贅沢な暮らしを求めるようなことは一切せず、
その代わりに、自身の視力が弱かったこともあって、経済的余裕が出来ると、
目の不自由な女性たちの生活支援を積極的に行なっていたと言われる。

だが、天正17(1589)年に、西郷局は、突然、この世から去る。
まだ幼い長丸と福松丸を残しての死であった。
享年満27歳とも、37歳とも言われる。

西郷局の訃報が駿府城城下に広がると、大勢の目の不自由な女性たちが、
西郷局の死を嘆き悲しんだ。

なお、西郷局に死については、
松平家忠の家臣に殺害されたとする伝承がある等、
その死は尋常なもので無かったことが示唆されている。

だとすれば、西郷局は、苦難の末に、やっと辿り着いた幸せを、
凶刃の前に奪い取られたことになる。


西郷局が、戦争未亡人から
徳川家康の妻へと迎えられる様子は、
あたかもシンデレラ物語の主人公のようですらある。

家康との間に、二人の男子をもうけて、西郷局は幸せであった。

その幸せを、力こそが全てと信奉される弱肉強食の世にあって、
誰からも顧みられることの無かった幸薄い女性たちに、
惜しみ無く分かち与えようとした西郷局こそは、
人間として真に強い女性であった。

実父と夫を合戦で失い、自身も視力にハンディーを持った西郷局は、
だからこそ他人の悲しみや痛み、辛さを、自分のこととして受け入れる心を
持つことが出来たのであろう。

合戦に明け暮れる家康が、西郷局を側室としたのは、
そのような西郷局の無償の優しさに触れ、心の安らぎと、
そして、人としての希望を覚えたからではなかったろうか。

多くの研究者は言う、「西郷局こそが、
徳川家康の最愛の女性だったのではないか」と。

     部はクリックすると説明ページが表示されます。

年表
 父:戸塚忠春、母:西郷正勝の娘。

<永禄5(1562)年>
 戸塚忠春、戦死。

<天正4(1576)年>
 西郷義勝と婚姻。

<天正5(1577)年>
 義勝、戦死。

<天正6(1578)年>
 3月、徳川家康の側室となる。

<天正7(1579)年>
 4月7日、長丸(徳川秀忠)を出産。
 8月29日、築山殿、殺害される。
 9月15日、松平信康、自刃。

<天正8(1580)年>
 9月10日、福松丸(松平忠吉)を出産。

<天正17(1589)年>
 5月19日、死去。法名・龍泉院殿松誉貞樹大姉。

<寛永5(1628)年>
 7月、従一位追贈。法名・宝台院殿松誉貞樹大姉。

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜