【略伝】

安土桃山時代。

豊臣氏家臣。

豊臣政権五奉行
従五位下。
治部少輔

幼名「佐吉」。初名「三也」。
父は石田正継。

永禄3(1560)年、近江国坂田郡石田の出身で、京極氏に仕える地侍の家系出身、、と伝えられる。

幼少時に、近江国大原の観音寺へ稚児小姓に出される。

天正4(1574)年頃に、長浜城主の羽柴秀吉に見出され、秀吉に出仕。

秀吉との出会いに関する逸話は有名である。伊吹山に鷹狩に出かけた秀吉が、寺に立ち寄り、茶を所望したところ、一人の稚児小姓が応対し、最初に大ぶりの茶碗に、ぬるい抹茶を七分入れて持って来た。秀吉がお代わりを望むと、二杯目には、茶碗に、やや熱めの抹茶を半分入れて持って来た。さらに秀吉がお代わりを望むと、三杯目は、小ぶりの茶碗に、熱い抹茶を少し入れて持って来た。

秀吉は、この稚児小姓の機智に感服し、自分の小姓として取り立てた、と言うものである。

秀吉と三成
(秀吉と三成の出会いの像)

この稚児小姓こそが、石田佐吉、後の石田三成である。

最初は、小姓として仕えていたが、間もなく近習となり、さらに、使番(使者業務)、奏者(取次ぎ業務)となる。

天正5(1575)年、秀吉の『中国征伐』に従軍。続いて、天正8(1580)年には、因幡、伯耆攻略戦に従軍。さらに、天正9(1581)年、洲本城攻略戦に従軍し、翌天正10(1582)年の備中高松城攻略戦に従軍する。

この年、「本能寺の変」によって、織田信長が明智光秀に討たれ、続く『山崎合戦』において、秀吉が光秀を討ったことで、秀吉は一躍「天下人」を目指して駆け上ることとなる。

天正11(1583)年、『賤ヶ岳合戦』に先立つ、桑名城、亀山城攻撃等の伊勢方面攻略戦に参加。そして『賤ヶ岳合戦』本戦では、「先懸衆」として、大谷吉継、一柳直盛らと共に、所謂「賤ヶ岳七本槍」の福島正則加藤清正らと並んで、一番槍を挙げている。

天正12(1584)年、『小牧長久手合戦』に従軍。この年、近江国今財家で行なわれた検地に、検地奉行のひとりとして初参加する。

天正13(1585)年、秀吉が関白に就任すると、福島正則、中村一氏、大谷吉継らと共に諸大夫に選抜され、従五位下治部少輔に叙任される。

この頃に水口城城主に任命され、4万石の大名となる。

そして、4万石中、1万5000石をもって、元筒井氏家臣で浪人となっていた島左近を、自らの家臣に迎えている。

秀吉は、主人と家来の知行に差が無いことに、「いかにも三成らしいやり方」と思わず感心したと言う。そして、左近を呼び出すと、菊桐紋の入った羽織を自ら与え、三成を補佐してくれるように言葉を掛けている。以後、左近は、三成からの一切の加増を断り続け、粉骨砕身、三成のために尽くし、三成と左近の絆は、その死まで続くことになる。

天正14(1586)年には、小西隆佐と共に堺奉行を兼任。この時、三成は、堺の自治組織を徹底的に骨抜きにして、秀吉の天下統一事業の障害にならないようにしている。

天正15(1587)年の『島津氏征伐(九州征伐)』では、豊臣軍総数約30万人にも及ぶ大部隊の兵站を、大谷吉継、長束正家らと担当する。三成は、秀吉に付き従って本陣にあった。

この行軍中、安芸国厳島神社において、秀吉が、「聞きしより ながめにあかぬ 厳島 見せばやと思ふ 雲の上人」と詠んだのを受けて、「春ごとの 頃しもたえぬ 山桜 よも霧島の 心地こそすれ」と応えている。

三成は、戦況が、どのような展開になろうが、前線部隊はもちろんのこと予備部隊に対しても、兵糧及び武器弾薬の補給を一度も滞ること無く、充分に補給し続けた。

30万人の兵站を無事にこなしたのは、日本史上で、三成が初めてであった。

戦後、博多の町割奉行を務め、博多を十町四方に区画整理した上で、道路も整備し近世都市へと造り直した。

天正17(1589)年、美濃国の検地奉行を務める。

また、この年、浅野幸長、森忠政と共に大徳寺に三玄院を建立する。その際、三成が大徳寺の春屋宗円と親しかったことから開祖に迎えると同時に、三玄院の表門には、わざわざ三成の屋敷の門が移築されている。

天正18(1590)年の『北条氏征伐(小田原征伐)』では、佐竹義宣、宇都宮国綱、結城晴朝らの部隊で編成された大部隊の軍監として、上野国の館林城と武蔵国の忍城の攻略を任される。

館林城攻略戦は、開始から半月後に、先に豊臣軍に降伏していた北条氏勝がやって来て、城兵に開城を勧告したために開城。

続く『忍城攻略戦』では、大苦戦となった。

三成は、忍城の周囲に大堤防を築いた上で利根川の堤を切って、水攻めを仕掛けたが、折からの豪雨のために、かえって自部隊に被害を出す結果となった。このため、浅野長政、真田昌幸の各部隊が援軍として加勢するが、全く歯が立たず、遂には、前田利家、上杉景勝らの部隊までが動員されることになる。

こうしているうちに、7月7日に、小田原城が落ち、7月16日、その小田原城から武装解除の命令が届き、三成は、ようやくのことで忍城を接収出来た。この『忍城攻略戦』での苦戦によって、三成は「戦下手」のレッテルを貼られることになる。

天正19(1591)年、豊臣政権内部で、ナンバー2であった秀吉の弟の豊臣秀長が亡くなる。

秀長と共に、豊臣政権で重きを成していたのが千利休であった。同時に、利休には、立場を利用した茶器売買等の私的な権力濫用が見られた。

時勢は、天正17(1589)年に秀吉の子の鶴松が誕生したことで、豊臣政権は、従来の「秀吉=秀長」による協調型の初期豊臣政権から、「秀吉=鶴松」の絶対型の第二次豊臣政権への過渡期にあり、その最中に秀長が死んだのである。

こうした緊張下、大徳寺の三門に利休の木像が置かれてある件、並びに茶器売買の不正の件が秀吉に報告されたことで、秀吉は政権から利休を追放し自刃に追い込む。かくて、豊臣政権は、第二次政権へと体制を移す方向に向かうが、三成は、その中で重要な存在となる。

だが皮肉なことに、鶴松は、利休の自刃後に亡くなる。

この年、豊臣秀次を総大将として行われた「九戸城攻略戦」では、軍監を務める。

文禄元(1592)年、秀吉による大陸出兵開始に先立ち、三成は、2月に、兵2000を率いて、肥前国名護屋に赴任。野本上堤に布陣すると共に、船奉行筆頭として、大谷吉継以下総数11人で、合計20万人以上の日本軍を、武器、弾薬、兵糧等と共に、4万隻の軍船を動員して、無事に滞りなく、朝鮮へ渡海させることに成功している。

諸戦の電撃作戦によって、5月3日には、漢城が陥落。

朝鮮の完全占領が近いと見た秀吉の命令を受け、三成は、軍監として、大谷吉継、増田長盛らと共に、石田部隊2000を率いて、6月3日になって朝鮮へ赴く。この時の任務は、軍監以外にも占領地の検地業務も帯びていた。

ところが、三成が朝鮮に渡って間もなくの6月下旬、明軍は祖承訓率いる5000の部隊が平壌を目指して出陣。その一方で、明は、遊撃将軍に任じた沈惟敬を派遣し反攻までの時間稼ぎの外交交渉も開始することを決め、和戦両面で攻勢に転じたのである。

7月、三成は、漢城に到着。そこで三成は、軍議を開催し戦況を掌握する。さらに日本軍の兵糧、及び軍資金の状況を確認し、以後、逐一戦地の様子を日本本土の名護屋城にいる秀吉に対して報告している。

8月、平壌の小西行長の本陣を沈惟敬が訪問し講和交渉を提案。行長が独断で外交交渉に軸足を移した頃、明は、李如松を前線総司令に任命。こうして時間を稼いだ明軍は、朝鮮軍と合わせ、10万人の兵力で、鴨緑江が結氷する冬を待ち、冬の訪れと共に南下を開始する。

明は、軍事行動の開始に伴い、外交交渉において、行長の出した講和条件を一蹴し、文禄2(1593)年正月になって、4万の兵力で、平壌に駐留する小西部隊に攻撃を加える。

小西部隊は、明軍の天字砲、地字砲、玄字砲等の大砲の前に叩きに叩かれ、平壌から撤退し漢城へ逃亡。

漢城へ迫る明軍に対して、三成は、宇喜多秀家と軍議を開き、明朝鮮連合軍10万を、残存兵力5万をもってして迎撃することを決めている。この時、三成は、加藤清正に援軍を求めているが、清正も明軍への対応で動ける状態になかった。

日本軍は、小早川隆景、立花宗茂らの活躍によって、『碧蹄館合戦』で明朝鮮連合軍を撃破し、何とか戦線を支えることに成功する。この『碧蹄館合戦』は、攻め寄せた明軍が2万人であったことや、明軍内部の主導権争いのために、明軍の切り札であった大砲を投入出来なかったことが、日本軍にとって幸いした。

三成ら軍監は、この状況をつぶさに見て、日本で聞いていた戦況とは丸っきり違っており、朝鮮での日本軍各部隊は寒さによって凍傷を負って、足の指を失い歩行困難となり、そのまま行軍不可能となる者が続出している上に、兵糧も払底し飢餓状態にあり、継戦が非常に困難であることを強く認識する。

因みに、最前線で一番過酷な状態にあった小西行長部隊は、開戦時の全兵力は、1万8700人であったが、この時、既に、1万2074人が死亡していた。武勇を誇った加藤清正部隊も全兵力1万人中、4508人が死亡していたほどである。しかも、それらの死者のほとんどが凍傷と飢餓によるものであった。また、三成の兵も、1546人に減っていた。

三成は、秀家、隆景、行長ら最前線に布陣する大名に対して、「私心を捨てて、互いに助け合い、皆で決めたことは守り抜くこと」を誓っている。

その一方で、罪の無い一般朝鮮人民も僅かな食料を日本軍に強奪され、窮して降伏しても日本軍によって殺戮されるだけであった。まさに朝鮮は、地獄の様相を呈していたのである。

このような状況に直面した三成は、どのような形であれ、即時停戦の必要を強く認識したに違いない。そこで、三成ら軍監は、秀吉の許可を得て、漢城を放棄することを決定し、全部隊を釜山にまで撤退させた上で、沈惟敬との講和会議を進めることとした。

4月1日、沈惟敬は、講和条件として、加藤清正が捕虜とした朝鮮の二王子の解放と日本軍の釜山への撤退を求め、日本側も明の講和使節の日本への派遣と明軍の遼東半島への撤退を求めたことで、日本側と明側は、お互いの条件を飲み、停戦が成立した。

これを受け、日本軍の一部は、早速、帰国を開始したが、日本軍4万人は、朝鮮南部に、蔚山城、東莱城、金海城、熊川城、巨済島城を築き、長期戦に備えて駐留を続けることとなった。

明側でも、これらの日本軍に対して駐留を続け対応した。

三成は、沈惟敬を伴い、講和交渉を行なうために、行長と共に釜山を出発し名護屋に帰国することとなる。しかしながら、日本と明との一時停戦は成立していても、日本と朝鮮との間では停戦交渉が一切行なわれておらず、いつ朝鮮軍からの攻撃を受けるか、わからない状態であった。

そこで、三成らの帰国に際しては、島津義弘が、島津部隊の軍船10隻を用意し、朝鮮水軍が制海権を握る海域を、島津水軍が警護して無事に抜け、三成らを送り届けている。

こうして、名護屋城で、講和会議が開始される。三成は、明使の沈惟敬を接待しながら、講和会議の実務交渉に携わり、秀吉の意向を汲み取った「講和七ヶ条」を練り上げる。

6月18日、沈惟敬に講和条件を提案する。

8月3日になると、淀殿が秀吉の子である(後の豊臣秀頼)を出産したことで、一気に講和ムードが高まり、希望を持って明との外交交渉は続けられることとなる。

一方で、三成は、朝鮮駐留の日本軍の兵糧確保に苦心していた。主戦場となった朝鮮半島に近い西日本を中心に兵糧を徴発していたが、駐留期間が長期に及んだことで、西日本各地では、深刻な米不足となり、もはや調達不可能となっていたのである。

9月、三成は朝鮮に渡り、駐留する日本軍のための兵糧について、必要分20万石中、5万石しか準備出来なかったことを詫び、早期に講和して、駐留部隊は最低限に留め、多くの部隊の帰国を実現させるつもりであることを、前線武将に告げている

そして、朝鮮での激務にも関わらず、朝鮮から帰国して、すぐさま、越後国上杉景勝領の検地を行い、兵糧の確保に奔走しているのである。

この年、朝鮮出兵中の島津忠辰の領地が没収され、没収地は三成と細川藤孝に分配されることとなり、三成は約6000石を大隈国に得る。

文禄3(1594)年9月には、薩摩国、大隈国、日向国の検地の責任者となる。三成は、25人からなる検地奉行を送り込み、検地を年末までの時間を掛けて実施。この結果、島津氏領は、それまでの約21万5000石から、約58万石へと増えた。

また、母が亡くなり、同月、大徳寺三玄院において葬儀を行う。

次いで10月、三成は、常陸国と下野国等の佐竹氏領の検地の責任者も務める。結果、佐竹氏領は、約54万5000石とされ、内1万石が秀吉の蔵入地となり、3000石が、増田長盛と三成にそれぞれ与えられた。

これを契機に、三成は、島津氏、佐竹氏と、それぞれに太いパイプを持つこととなる。

文禄4(1595)年、乱行を秀吉に咎められた豊臣秀次を詰問し調査する。結果、秀次は、秀吉に赦されることなく、高野山で自刃に追い込まれる。そして、三成は、残された秀次の妻子を秀吉の命令下、京の三条河原で処刑する。

慶長元(1596)年正月、三成は、加藤清正について、三か条を挙げて、日本に召還させている。その三か条は、「一、朝鮮人の前で小西行長に対して薬売りと罵倒したこと」、「二、無断で豊臣清正と名乗り明へ書状を出したこと」、「三、清正の家臣の三宅角左衛門の足軽が明国使である李宗城の財貨を盗んだこと」である。これにより清正は蟄居処分となる。

この一件は、閏7月13日の「慶長の大地震」で、秀吉の救援に活躍したことによって清正は赦免されるが、清正と三成との間に大きなしこりとなって残ることになる。

9月、明との外交交渉が決裂。慶長2(1597)年2月、大陸出兵が再開される。『慶長の役』である。日本軍約14万1500人が再び渡海し朝鮮へと出兵する。

慶長3(1598)年4月、小早川秀秋が、越前国16万石に改易されると、三成は、秀吉の蔵入地に編入された秀秋の旧領である筑前国一国と筑後国二郡合計約52万石の代官となる。

この時、秀吉は、三成に対して、筑前国と筑後国を与えようとしたが、三成は、秀吉の側から離れることを嫌って、これを固辞している。

5月5日、伏見城内で端午の節句を終えた秀吉の病状が再発、一時、容態が悪化したものの、6月16日、秀頼を連れて、諸大名を引見。盛り菓子を皆に分け与えながら、「秀頼が十五歳になれば、天下を譲るものを、自分の命は、それを待たずして尽きようとしているのが口惜しい」と力無く嘆く秀吉の姿に、三成は流れ出る涙を止めることが出来なかった。

この月、三成の妹婿で、軍監として朝鮮に渡っていた福原直高らが帰国し、黒田長政、蜂須賀家政が、蔚山城救援戦において、先鋒でありながら、その働きをせず、撤収のことばかり考えていた旨を報告。これにより、長政と家政は、秀吉から蟄居を命じられている。ここに、長政は、一連の報告の背景には三成が絡むと邪推し、三成を深く憎むようになる。

『文禄慶長の役』は、朝鮮の将兵や人民、明の将兵、そして、日本の将兵や人民を、殺し傷つけ激しく国力を消耗させただけでなく、実は豊臣政権自身をも壊滅的分裂状態に追い込んでいたのである。

7月13日、五大老と五奉行の制度が制定され、三成は、五奉行の一人に抜擢される。

五奉行の職務は、伏見城大坂城の城番の統監と、朝鮮在陣の武将を無事に引き揚げさせることであった。

そして、7月15日、秀吉の十一ヶ条の遺言に対して、遺言を固く守ることを、他の五大老と五奉行と共に、血判の誓書を提出する。8月5日には、五大老と血判誓書を交換している。

同月18日、秀吉が死去。

悲しみにくれる時間も無く、28日、毛利秀元と共に博多へ赴任し、朝鮮からの日本軍の引き揚げ業務を指揮する。

この頃、浅野長政が、家康と通じていることを見抜き、家康に対抗するために毛利輝元との接近を目論む。

9月3日、五大老と三回目の誓書交換。

9月に前田利家の伏見屋敷で行なわれた秀吉の形見分けでは、金子50枚と吉光の脇差を拝領する。

この年の冬、加藤清正らが朝鮮から帰国。あの有名な「稗粥ぐらいならば、こちらからもてなそう」という清正の言葉が、飛び出たのは、この時である。

清正の妨害で引き揚げ業務に支障が出かけるが、行長の支援を得て無事にこなす。

また行長は、『文禄慶長の役』の終戦処理として、明のみならず、朝鮮との講和の成立を図っていたが、交渉拠点にしようとした釜山の日本側の政庁は、清正によって焼き払われており、これがために、行長が『文禄慶長の役』の最終処理と考えていた朝鮮との講和が不可能となってしまったのである。

しかも、清正は、日本から撤退命令が届く前に、勝手に帰国していたのであった。

行長の帰国後、朝鮮との講和が成立し得なかったことは大いに問題となり、毛利輝元、島津義弘、そして三成は、行長を支持し、清正を批判した。結果、清正は、豊臣氏系大名の中で浮き上がり、徳川家康に接近するのである。

その徳川家康は、前田利家と共に、一兵も戦地に送り込まなかった。

それは、言い換えれば、家康は、戦国から安土桃山時代にかけて、日本各地の合戦で鍛え抜いた戦闘部隊を、無傷で温存し続けていたことを意味する。それは、大陸出兵で疲弊し切った大名が多くいる中においては脅威であった。三成は、このことについて相当に不満を持ち、かつ警戒していた。

慶長4(1599)年、激震が走る。

家康が、秀吉の十一ヶ条の遺言を無視して、自分の六男の松平忠輝と伊達政宗の娘との婚儀、さらに、自分の異父弟の松平康元の娘と福島正則の子の正勝との婚儀や、自分の外曽孫の小笠原秀政の娘を養女として蜂須賀家政の字の至鎮との婚儀 自分の従弟の水野忠重の娘を養女として加藤清正の子の忠広との婚儀を、それぞれ無断で勝手に推し進めていたのである。

この家康の動きに、前田利家以下の四大老と五奉行は、家康を詰問するが、「届出を忘れていた」と、とぼけられてしまうのである。

これを契機に家康の伏見屋敷は、豊臣政権の家康以外の大老や五奉行から家康を守るために、正則、黒田長政、池田輝政、、藤堂高虎と言った、かつての秀吉子飼いの武将が、厳重に警備することになる。彼らに本末転倒であることの自覚は無かった。

一方、これに対抗する形で、前田利家の下には、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、細川忠興、加藤嘉明、小西行長、そして、三成が集まった。

この時、家康は逆ギレし、大名屋敷改替問題をふっかけて、四大老と五奉行を恫喝。五奉行が、剃髪して頭を丸めて、家康に謝罪すると言う事態になるのである。

しかし、家康陣営にも難題が生じた。それは、利家陣営に武将派と奉行派が混在している事実である。犬猿の仲の三成と清正が同じ陣営に属し、家康陣営と対立しているのである。

この対立を解くために、忠興が動き、2月29日に、利家が伏見で家康と対面。続いて、3月11日、家康が大坂へ出向いて利家と対面する。ここに取り合えずの緊張は緩和されたかに見えた。しかし、閏3月3日、利家は死去。

利家の死んだ夜、清正以下の七将は、三成を襲撃。これは、先に三成の妹婿の福原直高が出した報告書の撤回を、黒田長政と蜂須賀家政が、三成に求めたことに、その原因があったと言われる。

三成は、死中に活を求めて、家康の伏見屋敷に逃げ込む(この伏見屋敷逃亡は史実ではないとする説が有力である)。三成は、家康から一連の混乱の責任を負わされて、奉行職を解任された上で、居城の佐和山城へ蟄居処分となり、嫡子の石田重家を人質として、家康の伏見屋敷に預けている。

ここに、三成は豊臣政権から失脚し、政権は、家康の独り舞台の様相を呈する。

家康は、伊達氏と結納を交わしたり、独断で堀尾吉晴に加増したり、その子の忠氏を転封したり、天下人気取りで政権をほしいままにする。

9月には、秀吉が頼みとした奉行のひとりの増田長盛が、前田利長が家康暗殺計画を計画していることを密告している。豊臣政権の奉行でさえ、もはや、家康へのご機嫌取りに奔走している有様であった。

慶長5(1600)年5月、家康は、上洛を拒否する上杉景勝の征伐を宣言。三成は、嫡子の重家を上杉討伐に従軍させてくれるよう家康に願い出て、家康も、これを許可する。

6月18日、家康は伏見城を出陣し東下を開始する。20日になると、三成は直江兼続に「家康が東下し、上方が手薄になったこと」を知らせる。

家康が江戸城に入った7月2日、重家を会津征伐に同行させるために、美濃国垂井に駐屯していた大谷吉継を、三成は佐和山城に呼び寄せ、打倒家康の挙兵計画を打ち明ける。

吉継は、三成の挙兵には、無理があることを見抜き、何とか諫止しようとするが、三成の「秀吉への忠義」に心を動かされ、運命を共にすることを決める。11日、大坂城に居た安国寺恵瓊を佐和山城へ呼び寄せ、作戦会議を実施。三成、吉継、恵瓊は、徳川家康討伐軍(以下、西軍)の総大将に、五大老の毛利輝元を擁立することを決める。

14日、恵瓊は、吉川広家に計画を打ち明けるが、広家は、即座に榊原康政に密告。ここに三成らの計画は、早くも家康に筒抜けとなったのである。

16日、輝元が、西軍の総大将として大坂城に入城。この日、前田玄以、増田長盛、長束正家が、大坂城下の大名屋敷に居るに諸大名の妻子を人質に取ることを決める。

17日、三成は、前田玄以、長束正家、増田長盛らの奉行名において家康弾劾の十三ヶ条の檄文を各地に飛ばす。同日、大坂城下の大名屋敷に留まっている諸大名の妻子を人質にしようとするが、細川ガラシャに死なれたりする等、悉く失敗に終わる。

19日、西軍は伏見城に対して攻撃を開始する。しかし、家康から留守を任された鳥居元忠の死を覚悟した戦いぶりに苦戦。

25日、関東では、三成決起を受けて「小山会議」が開かれ、石田三成討伐軍(以下、東軍)が形成される。

29日になって、三成も伏見城へ援軍に駆け付けて参戦。30日、三成だけ、一度、大坂城に戻って、秀頼に拝謁。三成不在の石田部隊は、側面攻撃を担当し、伏見城は、8月1日に落城。

西軍は、数百人相手の戦いで、3000人の死傷者を出してしまう。

8月5日、三成は、佐和山城に戻り、真田昌幸へ作戦計画の概要と、西軍参加の褒賞として信濃国諏訪郡等が加増されたことを記した密書を出す。この時、三成は、尾張国と三河国の国境付近で野戦を行い、家康と雌雄を決する予定であった。

8月10日、三成は、美濃国大垣城に入城。翌11日に、石田部隊が大垣城に到着。

三成の作戦計画では、美濃国岐阜城と尾張国犬山城を防衛ラインとし、伊勢方面攻略部隊と連携し、尾張国を占拠し、毛利輝元部隊を待って、合流後、東海道において、東軍を撃破する計画であった。このため、大垣城を最前線基地とする。

14日、東軍先鋒部隊、尾張国清洲城に入城。

21日、三成は、織田信雄に対して、尾張国を与える約束をする。

23日、東軍は岐阜城を制圧。沢渡まで前進していた三成は、岐阜城を失ったことを受けて、小西行長、島津義弘らと会議を開き、強引に大垣城へ後退させる。

この時、島津部隊は、墨俣に展開していたために、義弘は撤収までの時間猶予を求めたが、ところが、三成は、これを聞き入れず、独断で先に後退してしまう。島津家中の三成への信望は、この時に失われたとも言われる。しかし、三成はひとり、大垣城近くで、島津部隊の到着を出迎え、義弘と共に大垣城に入っている。

この日の午後、宇喜多秀家部隊が、大垣城に到着。秀家は、東軍が強行軍で進軍して疲労困憊していると見て、東軍が集結している赤坂陣地への夜襲を提案する。三成も賛成の意向を見せるが、三成の参謀の島左近が、この提案を批判したために、三成も却下する。

24日、東軍先鋒部隊、大垣城近くの赤坂に布陣。25日、西軍伊勢方面攻略部隊は、作戦を終結させ、美濃方面へ転進。

8月26日、三成は、大坂城にいる毛利輝元へ大垣城までの出馬と、越前の大谷吉継に関ヶ原への布陣を要請した上で、自らは佐和山城へ一時帰還する。

三成が、佐和山城へ戻ったのは、東軍が、垂井、関ヶ原方面の放火しつつも、赤坂が動かないのを見て、佐和山城を第一目標にしていると見たからであった。

9月3日、大谷吉継、関ヶ原山中村に布陣。7日、西軍の伊勢方面攻略部隊が関ヶ原南宮山に布陣する。10日、三成は、大坂城から動こうとしない毛利輝元に出陣を促す。輝元は、12日か13日に、豊臣秀頼を奉じて出陣する準備を整えるが、大坂城内に「増田長盛が東軍と内通している」との噂が流れたために出陣を取り止める。

このような大坂城内の様子を知らない三成は、12日、増田長盛に状況報告の書状を送るが、この書状は、東軍の間者の手によって奪われてしまう。

その内容は、三成が東軍が赤坂に駐留したまま、全く動きの無いことを不審に思っていること、さらに、9月10日の段階で安国寺恵瓊や長束正家は交戦を忌避する有様で、しかも、西軍の将兵の間には様々な噂が飛び交い動揺が見られ苦心していることを、増田長盛に知らせるものであった。

この書状によっては、東軍は、西軍の開戦直前の状況を、詳細に知ることとなったのである。

13日、毛利元康を指揮官に、立花宗茂らを配して、大津城に攻撃を開始。この日、家康が、赤坂に到着する。

14日、三成は、宇喜多秀家と共に、池尻口まで進出し、家康の着陣の事実を偵察する。この時、三成の家臣である島左近と蒲生郷舎は、家康がいるように見せかけているだけと三成に進言している。しかし、三成と秀家、そして小西行長は、それぞれの部隊から改めて偵察要員を出し、家康本人の着陣を正式に確認する。

家康の登場に動揺する西軍各部隊を落ち着かせるため、三成は左近の提案を受け入れ、東軍に武力偵察を仕掛ける。これが所謂「杭瀬川合戦」で、この小規模戦闘で、西軍の士気を高める。

夕方になると、関ヶ原の大谷吉継から、「決戦になれば小早川秀秋が裏切ることは間違いなし。大垣城を中心に決戦を挑むことは危険である」との書状が届く。

三成は、大垣城を作戦の要としていただけに、秀秋を大垣城に召喚し、そのまま人質として確保し、小早川部隊を西軍側に参戦させようとするが、秀秋は、三成からの呼び出しを無視。

そこに、家康が意図的に流した「東軍は直接、大坂城を狙う」の偽情報が飛び込む。

三成は、大垣城に、福原長尭ら4800を残して、関ヶ原へ転進することを決める。そして、この日の夜半、雨をついて、石田部隊、島津部隊、小西部隊、宇喜多部隊は、大垣城を出て、関ヶ原に布陣する。

こうして、運命の9月15日を迎える。

ほぼ互角の兵力でありながらも、西軍は地形上有利な場所に布陣していた。三成の石田部隊5820人は、笹尾山に布陣。この石田部隊の正面には東軍の黒田長政部隊5400人、細川忠興部隊5100人、加藤嘉明部隊3000人、田中吉政部隊3000人らが布陣し対峙する。

三成の陣は、西軍の最左翼に位置し、先鋒に、島左近、蒲生郷舎の各部隊を配し、その石田部隊の脇に、織田信高、伊藤盛正、岸田忠氏、豊臣秀頼の黄母衣衆が、構えていた。

戦いの火蓋は、松平忠吉と井伊直政が、宇喜多部隊に放った銃声によって切られる。

開戦と同時に石田部隊に対して、黒田部隊、細川部隊、加藤部隊、田中部隊、金森長近部隊1140人が次々と殺到。中でも黒田長政は、正面攻撃だけでなく側面攻撃を仕掛ける等、三成の頚だけを狙い攻撃を加えた。

この側面攻撃に加藤部隊も参加したことで、石田部隊の先鋒は崩壊。先の諸部隊に加えて、生駒一正部隊1830人も、石田部隊の攻撃に加勢する。

石田部隊は、5倍近い敵部隊から、攻撃を集中され苦戦するが、三成や島左近、蒲生郷舎らが兵卒を叱咤激励し、先陣に立ち奮戦した結果、猛烈な反撃を東軍に加え、戦線を押し戻す。

また宇喜多部隊1万7720人の中の先鋒である明石全登部隊が、福島正則部隊6000人を蹴散らす等、戦況は一進一退であった。

この戦況下、島津義弘部隊800人、島津豊久部隊858人は、布陣したまま参戦する気配を見せないでいた。このため三成は、使者として八十島助左衛門を派遣するが、助左衛門が馬上から義弘に伝令したために、義弘の怒りを買い役目を果たせず、やむを得ず三成自身が、義弘の陣に赴き、参戦を要請する。ところが豊久によって、三成の参戦要請は拒絶される。

島津部隊の不参加は誤算であったが、しかし、三成は、なおも勝算を持っていた。それが、ここまで温存してある毛利秀元部隊1万6000人と小早川秀秋部隊1万5675人の戦線投入である。秀秋の戦力が仮に裏切ったとしても、秀元部隊だけでも、一気に形勢を変えられると見ていたのである。

西軍優位の戦況を確認した三成は、天満山に狼煙を上げて、小早川部隊と毛利部隊の投入を図る。

だが、毛利部隊は、家康に内通した吉川広家の計略によって動けず、小早川部隊もまた微動だにしなかった。三成は、小早川部隊の陣に急使を送るが、秀秋は動かなかった。

そして、家康が、小早川部隊が布陣する松尾山に発砲したのを契機に、小早川部隊は、大谷吉継部隊1500人に殺到。

小早川部隊が東軍へ裏切ったのと同時に、西軍の脇坂安治部隊990人、朽木元綱部隊600人、小川祐忠部隊2100人。赤座直保部隊600人が、突如として一斉に東軍に寝返った。

秀秋の裏切りは予想していたものの、脇坂らまでが裏切ることは予想出来ず、ここに、三成の計算は完全に狂ったのである。

これらの裏切り部隊の総攻撃を受けて、大谷部隊は壊滅。次いで、裏切り部隊は小西部隊6000人に襲い掛かり、小西部隊も壊滅、宇喜多部隊1万7220人も壊滅した。

石田部隊は、先の黒田部隊、細川部隊、加藤部隊、田中部隊らと激しい戦闘を繰り広げていたが、そこへ新たに東軍の藤堂高虎部隊2490人、京極高知部隊3000人が加わり、側面を突かれるが、これを必死に戦い抜き、7、8回押し戻す活躍を見せている。

関ヶ原に出陣した部隊の中で、最も勇敢に戦ったのは、大谷部隊、そして石田部隊だったのである。

ところが西軍の右翼から中堅が壊滅してしまった状況下、東軍の主たる部隊、それに西軍の裏切り部隊を加えた10万を越す東軍が一斉に石田部隊目掛けて殺到したことで、遂に石田部隊も支え切れずに壊滅してしまう。

三成は、伊吹山を目指して逃亡。

17日には、三成の居城である佐和山城が、小早川秀秋、朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠、田中吉政らの各部隊によって完全に包囲される。

佐和山城には、三成の父の石田正継、三成の嫡子の重家、三成の兄の石田正澄、正澄の子の石田朝成、三成の義父の宇多頼忠らが残り、家来たちを城から退去させた上で、石田一族のみ城を枕に討ち死にしようとしたものの、家中2800人が運命を共にすると名乗り出て、篭城戦となった。

しかし、正澄の命令を受けた石田家家臣津田清幽が徳川方と交渉した結果、正澄の自刃と引き換えに、城内の家臣たちの命を赦免することで決着した。ところが、18日になって、功名に逸った吉政が城内に突入し、18日に落城。

三成の妻は、この混乱の中で、三成の家来である土田桃雲に命じて、自らの命を絶ち最期を遂げている。

そして、三成自身も、9月21日、近江国古橋村で、田中吉政配下の田中伝左衛門に捕縛される。

この時の三成は、ろくに食事もしておらず、空腹に耐えかねて、稲穂を食べたりしたために腹を下し、身なりも疑われれないように、ボロボロの衣服を身に着け腰に鎌を差して、きこりを装っていた。

三成と吉政は、共に秀吉に小姓として仕えていた頃からの同僚で、吉政は出世を遂げた三成に対して普段から一方的なライバル心を抱き、三成の捕縛についても、わざわざ家康に願い出て行なっていたほどであった。

こうして吉政の前に連れて行かれた三成であったが、吉政の顔を見ても、かつてのあだ名であった「田兵(たひょう)」と呼び、一切臆することなく堂々と振舞い、昔を懐かしみながら、むしろ吉政を気遣う様子で、自分の大切にしている正宗の脇差を形見として吉政に与えた。この三成の態度に吉政もまた礼を尽くして応じた。

やがて家康の本陣に引き立てられると、家康の側近の本多正純が、「無思慮な挙兵をしたためにこのような無様なことになって」と三成をなじると、三成は「亡き太閤様から受けた御恩を忘れず、豊臣家を守るため、徳川殿を討とうとしたが、裏切り者のために、それが果たせずに口惜しい」と応じた。さらに、正純が「敗戦しても自害しないのは臆病者の証拠」と言うと、「お前如きに、源頼朝公が石橋山合戦の後に木の洞で身を潜めていた心情等わかるまい」と堂々と三成は答え、正純は、何も言えなくなってしまった。

また小早川秀秋が、細川忠興の止めるのも聞かず、三成の様子を見に行くと、三成は、秀秋の顔を見て「お前に二心があることを見抜けなかった自分が愚かである。しかし、武将として恩義を忘れ、人を裏切ったお前は末代までの笑いモノとされるがいい。 この卑怯者。お前のことを内股膏薬と呼ぶのだ」と、さんざんに罵った。

さらに福島正則も三成の元にやって来て、「無益な合戦を仕掛けて、そのざまか」と笑ったが、これに三成は「貴様を生け捕りに出来なかったのは不覚であった」と、返している。

福島正則については、細川忠興と浅野幸長が、三成に対して、「日頃から偉そうなことと言いながら、この無様なサマは何だ?」と、罵ったことに、三成が、「戦に負けたからと言って自刃するのは端武者のすること。大坂城に立ち返り、家康を打ち滅ぼすまでは、この命を粗末にすることは出来ぬ」と、答えたのを傍らで聞いていて、「治部の申すこと、もっともなり」と、述べたとも伝えられている。

一方で、黒田長政は、三成に近付くと、「負けたのは、たまたまその時の武運が拙なかっただけのこと」と、言葉をかけ、自らの羽織を脱いで、三成に着せている。

また家康が家来に言いつけて、三成に対して小袖を与えた際には、「上様からの下され物じゃ」と家来が三成に告げると、三成は「上様とは誰だ?」と尋ね、その家来が「家康様じゃ」と答えたのを聞いて、「どうして家康如きを上様と呼ぶのじゃ?」と、嘲り笑っている。

また「どうして自害しなかった?」と問われ、「もう一度、大坂城に立ち戻り、何としても、天下に害なす家康の頚を挙げたいからである」と、答えている。

もっともこれらの捕縛後の三成の逸話は、江戸時代に書かれた他愛も無い軍記物等に記されたことであって史実とは言えないものである。けれども、それらに描かれる三成の姿は、ここまで勇ましい敗者は日本史上いないであろう、と思わせるものである。

26日、小西行長、安国寺恵瓊と共に大坂へ連行され、29日には、大坂市中、及び、堺市中を引き回されている。10月1日、京の一条の辻から室町通を下がり寺町通を経て、六条河原に引き出された。

その道中、三成は「喉が渇いた。湯を所望じゃ」と訴え、警固の兵たちが近くで湯を探したが見付からず「干し柿でも食え」と言うと、三成は「干し柿は痰の毒である。いらぬ」と答えた。これに兵たちは「これから処刑されるのに、毒断ちとは滑稽な」と、笑った。

すると三成は毅然として次のように言った。

「大義を思う者は、その死の瞬間まで、生きて、生きて、何としても生きて、大義のため自分の思いを遂げようとするものだ。『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』」

これには笑っていた兵たちも、皆、心を打たれ静まり返った、と伝えられる。

こうして、最期の最期まで何としてでも生きて、自らの命が尽きるその刹那まで、ただひたすらに、豊臣秀吉から受けた大恩に報いようとした石田三成は、刑場の露と消えたのである。

大徳寺三玄院
(三成の菩提所「大徳寺三玄院」)

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《関係略図》

 真田幸隆┳信綱
     ┣昌輝
     ┗昌幸
       │
       ┝━━┳信幸(信之)
       │  ┗信繁(幸村)
       │    │
       │    └──────┐
       │           │
 宇多頼忠┳女子           │
     ┗女子           │
       │           │
 石田正継━三成           │
                   │
      大谷吉継━女子      │
            │      │
            └──────┘



         山田隼人正(石田家家臣)
          │
          └─────┐
                │
 石田正継┳正澄━朝成     │
     ┗三成┳重家     │
        ┣重成     │
        ┣長女     │
        ┃ │     │
        ┃ └─────┘
        ┃
        ┣次女
        ┃ │
        ┃ └─────┐
        ┃       │
        ┗三女     │
          │     │
         津軽信牧   │
                │
          ┌─────┘
          │
          ┝━━━吉右衛門
          │    │
          │    ┝━━━━━お振
          │    │      │
          │    │      ┝━━━━━千代姫
          │    │      │      │
          │    │      │      ┝━━━綱誠
          │    │      │      │
          │    │      └───┐  │
          │    │          │  │
          │    │          │  │
          │    └─────────┐│  │
          │              ││  │
         岡重政(蒲生家家臣)      ││  │
                         ││  │
         町野幸和(蒲生家家臣)     ││  │
          │              ││  │
          ┝━━━女子         ││  │
          │    │         ││  │
          │    └─────────┘│  │
          │               │  │
 稲葉良通┳女子━祖心禅尼             │  │
     ┗福(春日局)              │  │
                          │  │
 徳川家康┳秀忠━家光               │  │
     ┃    │               │  │
     ┃    └───────────────┘  │
     ┃                       │
     ┗義直━光友(尾張徳川家)           │
          │                  │
          └──────────────────┘

 ※ 系図については諸説あり

石田三成は、中世から近世へと動く日本で、時代の先を歩んでいた武将であった。


三成が、まだ小身であった頃、秀吉から500石の加増の話があった。しかし、三成は、この加増話を断っている。このことを訝る秀吉に、加増分の代わりに、淀川と宇治川の葭や荻を農民が刈り取ることに対する運上を、三成が一手に徴収することを認めてくれれば、1万石分の軍役を務める、と宣言した。

そこで秀吉は、この三成の願いを聞き入れた。三成は、喜び勇んで、淀川、宇治川流域の住民に対して、運上を申し付けた。

その後、出陣する秀吉の軍勢の後から、秀吉本隊にも負けないぐらい、きらびやかな金の吹貫の旗印をいくつも並べ、立派な騎馬武者を中心とする部隊がやって来た。

秀吉が調べたところ、それこそは、三成の部隊で、先の運上金によって、まさに三成が言った通り1万石分もの収益を上げ、その全てを注ぎ込んで軍勢を整えたのであった。

これらも軍記物や講談の類であり史実とは思えないが、それでも、主君の財を使うことなく、無から資金を生み出し、その全てを主君のために使った三成の才覚と忠義心は伝説として語り継がれるほどのものであったことが窺える。

また、三成が、奉行して大坂城に在った時のこと。大坂城下に大雨が続き、淀川の堤防の決壊が危ぶまれた。そこで、三成は、大坂城京橋口の米蔵を開いて、米俵を土嚢の代わりに使い堤防を補強することで緊急事態を凌ぎ、天候が安定した後には、近隣住民に対して、土嚢と米俵の交換を提案し、短時間で堤防の補修を終えている。

これら三成の奉行としての卓越した有能さを物語る逸話も、三成が持つ経済感覚や合理性が同時代の武将たちに比して、極めて柔軟なものであることを示している。

また豊臣秀吉の天下統一事業の要である「太閤検地」においても、三成は重要な役割を占めている。

記録では、天正12(1584)年に、三成は初めて検地に携わっている。これ以降、秀吉の天下統一戦によって支配下に収められた土地の多くが、三成の手によって検地されている(一説には、三成が、検地制度を秀吉に提案したとも言われるが、その証拠は無い)。

そして、検地が進むにつれて、三成は、日本の経済力を知ることになる。経済力は、即ち、国力そのものである。恐らく検地を通して、三成は、「日本」と言う国家を、強く認識していたに違いない。

『文禄慶長の役』の際、三成は、国軍としての日本軍を強く意識していたと言われる。

このことが敗色濃厚な戦況で、日本の諸部隊が、朝鮮において略奪等の行為に走ることを憂いた三成が、宇喜多秀家、小早川隆景、小西行長と共に、「私心無く相互に助け合って、規律を厳守すること」を誓い合ったことに繋がっている。

絶望的な戦場において三成が求めたものは、「日本人としての誇り」であった。


一方で、三成には、江戸時代に、徳川御用学者によって捏造されて、盛んに喧伝された結果としての「姦臣」像が根強くつきまとう。有名なものとして「千利休を排斥した」、「蒲生氏郷を毒殺した」、「豊臣秀次を自刃に追い込んだ」と言ったものがある。

天正19(1591)年、豊臣政権内部で、ナンバー2であった秀吉の弟の豊臣秀長が亡くなったが、その秀長と共に、豊臣政権で重きを成していたのが千利休であった。

同時に、利休には、立場を利用した茶器売買等の私的な権力濫用が見られた。大徳寺の三門に利休自身木像を安置したり、立場を利用して茶器の売買で不正を働いたことで、秀吉の逆鱗に触れて自刃に追い込まれた。

この利休を自刃に追い込んだのは、三成の謀略とする説が江戸時代に盛んに喧伝されたが、利休の行為を秀吉に報告したのは、前田玄以であって、三成は代官として、秀吉からの命令を実行したに過ぎないのである。

利休は町人である立場を越え、あまりにも政治的な分野に深入りしていた。秀吉の逆鱗に触れた真の理由はこの一点である。木像や茶器等、理由は何でも良かった。この秀吉の意思を実行に移すことが、三成の奉行としての仕事であった。

蒲生氏郷の死については、三成が、直江兼続と示し合わせて、上杉景勝に会津120万石を与えるために毒殺したとされる。

しかし、これには誰が見ても疑問が起こる。上杉氏は代々、越後を本拠としており、会津への移封等、望むはずがない。さらに、氏郷が体の不調を訴えたのが文禄2(1593)年で、死んだのが文禄4(1595)年のことである。毒殺に数年もの時間を掛けるだろうか。

しかも、氏郷の会津移封は、秀吉が東北経営政策の柱としたもので、豊臣政権にとって重要な柱であった。とても、三成が毒殺に走ったとは考えられないのである。

次に「秀次事件」を見ると、三成は、秀吉と淀殿の間に生まれた秀頼を守るために、秀次の乱行を秀吉に讒言し、遂に自刃に追い込んだ、とされる。

しかし、実態は、蒲生氏郷の遺児の蒲生秀行を、秀吉が2万石に減封したことに対し、秀次が、この秀吉の命令を関白として遮ったことが決定的な要因であって、即ち、豊臣政権が「太閤秀吉」と「関白秀次」の二重権力構造となり、政権分裂の危機を孕んでいることが露呈されたために、秀吉は秀次の処分に踏み切ったのである。

ここでも秀吉の代官に過ぎない三成は、秀吉の意思に従っただけである。

勝者によって、真実が捻じ曲げられるのは、古くからの倣いである。他にも「三成と淀殿の密通」等、とるに足りない珍説を、徳川御用学者は捏造し流布させている。これは言い換えれば、そこまで三成のことを徹底的に貶めないと、逆に徳川家康が引き立たないことを示していると言えよう。


三成は、私利私欲の無い人間であった。

小早川秀秋が、その所領を没収された際、秀吉は秀秋の所領を三成に与えようとしたが、三成は、秀吉の傍から離れることを嫌い、これを断っている。

主君と家臣の絆は、武家政権たる鎌倉幕府成立以来、「御恩と奉公」によって成り立っている。即ち、領地の安堵(加増)があってこそ、家臣たちは命を投げ打って主君に仕えるのである。

しかし、三成にとっては、領地等は二の次で、三成にとっての「御恩」とは、秀吉に取り立てられ仕事を与えられたことであり、そのために命を賭けることすら厭わなかった。

重篤となった秀吉が小康状態となった時に、秀吉から「100万石の加増」を言い渡されたが、三成はこれすらも固辞している。

三成が、私利私欲を嫌ったことは、佐和山城落城の際に証明されている。

三成の居城である佐和山城は、裏切り者の小早川秀秋、朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠、そして、同じ近江閥で、三成をライバル視していた田中吉政らの各部隊によって、攻め立てられ落城したが、これらの武将たちは、三成が豊臣政権下で比類無き権力を誇っていたことから、城内には、さぞかしたくさんの財貨が納められていると思い、それらを略奪しようと我先に城内へと雪崩れ込んだ。

しかし、佐和山城内は、壁は荒壁で、部屋も畳は無く板張りで、襖や障子も古い紙を再利用したもので、城内の庭園には花のひとつも無かった。それでも、どこかに財貨があるはずと、城内を破壊し尽くし徹底的に調べたが何も出て来なかった。

三成は、その知行の全て(蔵入地を含めると30万石)を、豊臣家への奉公のために使っていたのである。豊臣家から賜った禄を蓄財すること等、三成にとって大罪だったのである。


石田三成について、徳川家康には三成を殺すつもりは無く、三成が平身低頭して家康に仕えれば生き延びられたと言う人がいる。しかし、それは、三成の魂を知らない浅はかな人間の馬鹿げた言い分であろう。何故ならば、三成にとって、その命は、豊臣秀吉に捧げたものであり、秀吉のために尽くして生きること、そして、死ぬことこそが、三成の本懐だったのである。

この世の中の誰にも理解されなくても、ただひとり秀吉にだけ理解されれば、それだけで三成は幸せだったのである。

石田三成こそは、日本史上並ぶ者無き、真っ直ぐに生きた真の「忠義の士」であった。

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【年表】

父:石田正継、母:瑞岳院。

<永禄3(1560)年>
 誕生。

<天正2(1574)年>
 羽柴秀吉、北近江を治める。

<天正10(1582)年>
 6月2日、『本能寺の変』。
 6月13日、『山崎合戦』。

<天正11(1583)年>
 2月20日、「伊勢攻略戦」。
 4月17日、『賤ヶ岳合戦』。

<天正12(1584)年>
 3月15日、『小牧長久手合戦』。
 11月、近江国今財家で検地奉行を務める。

<天正13(1585)年>
 7月11日、従五位下治部少輔。

<天正14(1586)年>
 堺奉行。

<天正15(1587)年>
 3月、『島津氏征伐』兵站部門担当。
 6月、町割奉行。

<天正16(1588)年>
 4月14日、後陽成天皇、聚楽第行幸。
 7月、刀狩。大判小判鋳造。

<天正17(1589)年>
 美濃国検地奉行。
 大徳寺に三玄院を建立。

<天正18(1590)年>
 3月、『北条氏征伐』。
 5月、「館林城攻略戦」。
 7月、「忍城攻略戦」。
 7月、佐和山城城主。
 8月、陸奥国検地奉行。

<天正19(1591)年>
 正月22日、豊臣秀長、死去。
 2月13日、千利休、堺へ追放。
 2月25日、千利休、切腹を命じられる。
 2月28日、千利休、切腹。
 8月、「九戸城攻略戦」。

<文禄元(1592)年>
 2月20日、船奉行筆頭。
 4月12日、『文禄の役』。
 6月3日、軍監として朝鮮へ渡る。
 7月16日、漢城に到着。

<文禄2(1593)年>
 5月、明国使を伴い帰国。
 6月、明国使と講和会議。
 8月3日、拾(豊臣秀頼)、誕生。
 9月、朝鮮へ渡る。

<文禄3(1594)年>
 9月、大隈国、薩摩国、日向国の検地責任者。
 9月、母の葬儀を大徳寺三玄院で行う。
 10月、常陸国、下野国の検地責任者。

<文禄4(1595)年>
 2月7日、蒲生氏郷、死去。
 7月13日、増田長盛と共に秀頼に誓紙を提出。
 7月15日、豊臣秀次、高野山で自刃。
 8月2日、秀次の妻子を三条河原にて処刑。
 8月、佐和山城主。194000石に加増。
 8月2日、秀吉、大名私婚を禁止。

<慶長元(1596)年>
 9月、秀吉、朝鮮への再出兵を布告。

<慶長2(1597)年>
 正月、『慶長の役』。二条城に入る。
 4月20日、「大坂城十三ヶ条掟」を制定。

<慶長3(1598)年>
 3月15日、「醍醐の花見」。
 7月13日、五奉行。
 7月、「五大老誓約書」を練る。
 8月、筑前国筑後国の代官。
 8月18日、豊臣秀吉、死去。
 8月28日、博多で引き揚げ業務を指揮。
 9月10日、秀吉の形見分け。

<慶長4(1599)年>
 正月21日、前田利家と共に徳川家康を詰問。
 閏3月3日、前田利家、死去。
 閏3月4日、七将、三成を襲撃。
 閏3月9日、佐和山城蟄居が決定。

<慶長5(1600)年>
 5月、「上杉氏征伐」。
 6月20日、直江兼続へ書状を送る。
 7月14日、直江兼続へ書状を送る。
 7月17日、徳川家康糾弾の檄文を発する。
 7月27日、真田昌幸から加勢の書状が届く。
 8月5日、真田昌幸に作戦計画の概要を記した密書を送付。
 8月6日、垂井に兵6700を指揮して布陣。
 8月26日、佐和山城へ一旦帰還。
 9月14日、関ヶ原へ転進。
 9月15日、『関ヶ原合戦』。
 9月18日、佐和山城落城。
 9月21日、近江国古橋村で捕縛される。
 10月1日、六条河原で斬首。

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