梶原景季

かじわらかげすえ (1162〜1200)

略伝

鎌倉時代。

左衛門尉。

梶原景時の嫡男。通称「源太」。
弟に景高・景茂がいる。

養和元(1181)年、父の梶原景時が、
源頼朝に臣従し家人となったのと同時に、
景季もまた頼朝の家人となったと言われる。

寿永元(1182)年、北条政子が出産のために
比企谷の産所へ向かう輿を千葉胤正らと護衛する。

そして頼朝の後継者である嫡男・万寿(後の源頼家)が誕生すると、
和田義盛・畠山重忠、そして父・景時と共に、
誕生を祝い、護刀を献上する儀式に参列。

元暦元(1184)年、
源義仲討伐戦において『宇治川合戦』では、
頼朝の異母弟の源義経が率いる搦手軍に属して、
惜しくも先陣争いには遅れを取るものの
名馬「摺墨」に乗り活躍を見せる。

この時、先陣争いを演じた佐々木高綱は、
かねてから景季が欲していた頼朝の名馬「生食」に
乗っていたことも遺恨となった。

続いて行われた平氏軍との『一ノ谷合戦』では、
大手軍に属して東部方面に展開し平知盛部隊と激突する。

この「生田の森合戦」では景季は矢を入れる箙に
手折った白梅を差し、景時らと共に500の手勢を率いて、
平氏軍の中でも屈強を誇る平知盛部隊に突入する。

両軍入り乱れて戦い続けるうちに景時は、一旦、兵を引き上げるが、
手勢は僅か50にまで減っていた。

その激戦の中で、景季はこの引き上げ命令にも従わず、
平知盛部隊に深く攻め入り兜を失いながらも、
縦横無尽に駆け巡り戦っていたと言う。

文治元(1185)年、平氏滅亡後、
義経は源行家と連携を模索するようになり、
さらに平時忠の娘を自分の室として、時忠の流罪を実行しない等、
頼朝に対する反逆とも見受けられるような行動を取ることが多くなったため、
景季は頼朝の命令を受けて義経を糾問すべく上洛する。

しかし義経は景季との面会を拒み、ようやく対面しても、
義経は病気を理由に行家追討について言葉を濁すなど、
明らかに不審であるとして、景季は義経の言動の全てを鎌倉の頼朝に報告。
これを受けた頼朝は、義経の討伐を決意する。

景季の報告が頼朝に義経討伐の最終的決断をさせたのである。
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文治4(1188)年には万寿の甲着始の儀で、
三浦義連と共に太刀を持っている。

正治元(1199)年、頼朝が急死すると景季の運命は急転する。

頼朝の死後、後継者となった頼家に対して、
景時が結城朝光を讒訴したことから他の御家人たちの反発を受ける。
梶原景時の乱』の勃発である。

11月、所領のある相模国へ引きこもるものの12月になって鎌倉へ戻る。
しかし、18日、景時の追放処分が決まり、鎌倉にあった梶原景時邸は、
和田義盛や三浦義村によって破却される。

正治2(1200)年、正月19日密かに出発。
しかし翌20日に駿河国清見関において鎌倉からの
命令を受けた在地武士団によって追い討ちを受けることとなる。
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景季は懸命に奮戦するものの
景時は矢部小次郎に、景茂は吉香小次郎に、
そして景季は景高と共に矢部平次によって
遂に殺害されてしまう。

《関係略図》
 梶原景長━景時┳景季         ┣景高         ┗景茂

梶原景季は、父の景時譲りの剛直さと二心なき忠誠心で、
源頼朝からも厚い信用を得ていたようである。

また『宇治川合戦』において、
佐々木高綱から「馬の腹帯が緩んでいる」と
声をかけられたために先陣を逃したというエピソードや、
『一ノ谷合戦』で箙に白梅を差して戦ったというエピソードなどから
景季は御家人として「戦場での美学」というものを、
常に持っていたことが伺える。
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さらに頼朝の嫡男・万寿(源頼家)の成長儀式には、
いつも近侍していることから頼朝には、将来、景季を、
万寿の側近とする考えがあったのかも知れない。

しかし頼朝の死を契機として、
鎌倉幕府の政治は将軍の独裁という形から
御家人の合議制へと大きく転換していくこととなる。

この合議制への移行を影で推進したのは北条時政であった。

それはまた将軍家への絶対的な忠誠を誓って来た梶原父子に
時政から突きつけられた刃でもあった。
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そしてそれは『梶原景時の乱』と言う名の粛清へと繋がる。

梶原父子は再起を期して京へ向かう途中に襲撃され、
景季は御家人らしく戦い命を落とす。


景季は和歌も詠み、
当時の鎌倉御家人の中でも、
文武に秀で優れた武将であったと伝えられ、
父の景時と共に幕府に対してではなく将軍個人に
忠誠を尽くした景季の死は、後になって将軍家にとって
大きな痛手となるのである。

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年表
父:梶原景時。

<応保2(1162)年>
 誕生。

<養和元(1181)年>
 正月、源頼朝に臣従。

<寿永元(1182)年>
 7月12日、北条政子の輿を護衛。
 8月12日、政子、万寿(後の頼家)を出産。

<元暦元(1184)年>
 正月20日、『宇治川合戦』。
 2月7日、『一ノ谷合戦』。

<文治元(1185)年>
 左衛門尉。
 3月24日、平氏滅亡。
 9月2日、上洛。
 10月18日、頼朝追討の宣旨が下る。
 11月8日、義経追討の宣旨が下る。

<文治4(1188)年>
 7月10日、万寿、甲着始。

<文治5(1189)年>
 閏4月30日、源義経、死去。

<建久2(1191)年>
 11月、多好方から楽を習う。

<正治元(1199)年>
 正月13日、源頼朝、死去。
 10月28日、梶原景時への弾劾文が御家人によって起草される。
 11月13日、景時と共に相模国一宮へ向かう。
 12月9日、鎌倉へ戻る。
 12月18日、鎌倉から追放処分となる。

<正治2(1200)年>
 正月20日、駿河国で殺害される。

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