江戸時代。
徳川幕府第九代将軍徳川家重正室。
比宮増子。
伏見宮邦永親王の娘。
邦永親王の娘として生まれ育ち、
京の公家の間でもその聡明さと美しさが話題を誉めそやされていた増子が、
遠く京を離れ徳川幕府将軍家の正室に迎えられることとなるのは、
幕府内部の権力抗争の結果であった。
徳川幕府八代将軍徳川吉宗の側用人として、
幕閣内において比類なき権勢を誇っていた松平乗邑は、
吉宗の後継者として家重の弟である田安宗武を猛烈に推挙していた。
ところが吉宗はお家安泰を思い長子相続を決断。
この決定に焦ったのが乗邑である。
このまま家重が将軍に就任すれば失脚である。
そこで乗邑が己の安全のために考え出したウルトラCが、
吉宗の正室で早逝した真宮理子の兄である邦永親王の娘と
家重との婚姻だったのである。
こうして享保16(1731)年4月に増子は京を出発し東下することとなる。
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5月に江戸へ到着した増子は、そのまま西の丸に入り、
その月の内に諸大名に今回の縁組が正式に発表されている。
そして12月、西の丸にて婚礼の儀が行われたのである。
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江戸での生活にようやく馴染み始めた頃に増子は懐妊するものの、
享保18(1733)年9月になって増子は早産し体調を崩してしまう。
そして同年10月、京から遠く離れた江戸でこの世を去る。
僅か21年間の短い生涯を駆け抜けた増子は、
現在、上野寛永寺山内春惟院に眠る。
享年を19歳とする説もある。
《関係略図》
お古牟の方 │ ┝━━━━━━━宗武(田安家) │ └─────────────────┐ │ お久の方 │ │ │ ┝━━━━━━━宗尹(一橋家) │ │ │ │┌────────────────┘ ││ 徳川光貞━━━━━吉宗 ││ │└─────────────────┐ │ │ │ お幸の方 │ │ │ │ │ ┝━━━━━━家治 │ │ │ │ ┝━━━━━━━家重 │ │ │ │ │ └─────────┐│ │ ││ お須磨の方 ││ ││ 伏見宮貞致親王━┳邦永親王━━━┳貞建親王 ││ ┃ ┣道承法親王 ││ ┃ ┣尊祐法親王 ││ ┃ ┣尊孝法親王 ││ ┃ ┣義周法親王 ││ ┃ ┣光子 ││ ┃ ┗増子 ││ ┃ │ ││ ┃ └─────────┘│ ┣道仁法親王 │ ┗理子 │ │ │ └──────────────────┘
比宮増子は徳川家重との婚姻に対しては、
婚礼のいきさつもあってか、かなり不満であったらしい。
また江戸に到着してから家重と実際に対面して、
さらに愕然としたのかも知れない。
家重との新婚生活においても、
葵の紋所の入った品々を使うことを忌み嫌い、
増子が使う身の回りの品々には全て菊御紋が入っていたという。
この万事「京風」をひけらかす増子の態度は、
家重の父である徳川吉宗が改革を行い沈静化させた大奥を、
再び火薬庫と化すには充分なものであった。
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また増子が嫁いだ時には家重はまだ将軍後継者という立場であったために、
「御台所」とは呼ばれずに「御簾中」と呼ばれたことも、
増子のプライドを大きく傷つけたに違いない。
増子は徳川幕府の幕閣たちが繰り広げた
熾烈な権力抗争の犠牲者であったと言えよう。
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そうして見ると万事「京風」にした増子の行動は、
とてもささやかではあるものの、天下を牛耳る武家政権への
増子に出来うる精一杯の抵抗運動であったのかも知れない。
なお後日、家重の世嗣を出産することとなるお幸は、
増子の側付として京より同行して来た梅渓家出身の女性であるが、
このお幸が後に火薬庫である大奥に火を点けることとなる。