月光院

げっこういん (1685〜1752)

略伝

江戸時代。

徳川幕府第六代将軍徳川家宣側室。
徳川幕府第七代将軍徳川家継生母。

従三位。
追贈従二位。

お喜世。左京の局。輝子。

父の勝田著邑は元加賀前田藩の浪人で、
浅草唯念寺林昌軒の住職であったと伝えられる。
また別説として町医者勝田寿迪が父であるとも言われる。

お喜世は当初、京極氏、次いで戸沢氏に出仕。
やがて四代将軍家綱の乳母である矢島局の養子であった
矢島治太夫の目に留まり養女に迎えられ、宝永元(1704)年に、
甲府藩の徳川綱豊(のちの家宣)の桜田御殿に出仕する。

お喜世が綱豊から寵愛を受け出すようになると、
その年の12月に綱豊は五代将軍徳川綱吉の養嗣に迎えられ、
江戸城西ノ丸に入ることとなり、お喜世も他の正室、側室らと共に、
西ノ丸に同行することになるのである。
お喜世の強運であろうか。

宝永6(1709)年5月、家宣は幕府将軍に就任。
それから間もなく同年7月3日、お喜世は男児鍋松を出産する。
名前も「お喜世」から「左京の局」と呼ばれるようになる。

この時点での家宣の子供であるが、
正室煕子が元禄12(1699)年に出産した嫡男は早世。
側室お古牟が宝永4(1707)年に出産した次男も早世しており、
側室お須免が宝永5(1708)年に出産した大五郎だけが、
将軍職後継の候補者として存在していた。

ここに大奥で左京の局とお須免との激しい衝突が繰り広げられる。

桜田御殿時代から家宣の腹心であった間部詮房と結託し、
左京の局は何としても鍋松を将軍後継者として擁立せんと欲した。
お須免の方であるが、お須免は家宣が綱吉の養嗣となった時に、
柳沢吉保が「綱吉路線の継承」を目論み側室として送り込んだ女性で、
その吉保が失脚した後には大奥に自らの影響力の確保を狙う桂昌院が、
お須免の後ろ盾となって支持していた。

大奥を二分する争いの最中の宝永7(1710)年8月に大五郎が急逝。
この死を巡って左京の局方の謀略が囁かれたが、何と言われようと、
大奥での戦いに勝利したのは左京の局であった。
こうして左京の局はお世継の母となった。

正徳2(1712)年10月14日、家宣、死去。
左京の局は落飾し「月光院」と称する。
煕子も「天英院」と称した。

正徳3(1713)年4月2日、家継、将軍宣下。
月光院も将軍生母として従三位に昇進を果たす。
時に将軍となった家継は僅か三歳であり、事実上、月光院の天下であった。

家宣の御側用人であった詮房の権勢は益々大きくなり、
江戸城に詰めたままで帰宅することもなかったと言われている。
この頃になると月光院と詮房の間がしきりと噂されるようになり、
ある時、家継は、月光院と詮房が一緒にコタツに入っているのを目撃し、
「詮房こそが上様のようである」と天英院に対して寂しげに漏らしたと伝えられる。
月光院と詮房は桜田御殿の頃から深い仲であったとも言われる。

こうして月光院の台頭と共に大奥の規律は緩み風紀は紊乱したという。

正徳4(1714)年、「絵島事件」が発生。
これは月光院の片腕とも言うべき存在であった大奥女房である絵島が、
役者生島新五郎と深い仲となり、さらに大奥女中衆を誘い込んだとして、
遠島を命じられたもので、月光院は懸命に減刑を願い出て、
絵島は信濃国高遠に流罪とされる。

この「絵島事件」の影には大奥の暗闘があったと思われ、
月光院が自らの権勢に油断したちょっとした隙間から生じた事件でもあった。

享保元(1716)年4月30日、家継が死去。
この家継の死因については、4月とは言えまだ寒い中を、
月光院が家継を伴って詮房と共に吹上御苑で花見の酒宴を開いた際に、
家継は風邪を引いてしまい、それをこじらせたものと言われている。

この家継の死は大奥を一気に不穏な情勢に陥れた。

天英院は巻き返しの好機到来と見て、
家宣の同母弟である館林藩主松平清武を擁立。
だが松平氏に降下しており将軍には適任でないと月光院から拒絶されると、
すぐさま御三家筆頭である尾張藩から徳川継友を擁立する。
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この天英院の動きに月光院は自らの保身のため詮房と共に、
紀伊藩主であった徳川吉宗を擁立する。

家宣の遺言という形により吉宗は八代将軍に迎えられる。
このために吉宗は将軍就任後に逼迫した幕府の財政を立て直すことを急務とし、
大奥にも例外なく質素倹約を命じるものの月光院だけは特別扱いであり、
月光院は従前通りの豪奢な日々を過ごしている。
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また詮房を失脚せしめた吉宗は、
月光院からの誘いを断りきれずに男女の仲になったとも言われ、
このことは、当時、かなり噂となっていたようである。

吉宗が延享2(1745)年に、
大御所として引退の動きを見せると、
すぐさま九代将軍に田安宗武を据えようとするなど、
晩年になっても月光院の野心は衰えを見せることはなかった。

宝暦元(1751)年の吉宗の死を見届け、
宝暦2(1752)年に吹上御所において波乱の生涯に幕を下ろす。

《関係略図》

  近衛尚嗣━━近衛基熙━━近衛煕子(天英院)
               │
               ┝━━━┳女子
               │   ┗男子
               │
               └─────────┐
                         │
  園池季豊━━━━━━━━お須免の方      │ 
               │         │
  桂昌院          │         │
    │          │         │
    ┝━━━徳川綱吉   │         │
    │          │         │
  徳川家光         │         │
    │          │         │
    ┝━━━徳川綱重   │         │
    │    │     │         │
    │    │     ┝━━━┳家千代  │
    │    │     │   ┗虎吉   │
    │    │     │         │
    │    │     │┌────────┘
    │    ┝━━━┳徳川家宣
    │    │   ┃ │└────────┐
    │    │   ┃ │         │
    │    │   ┃ ┝━━━━徳川家継 │
    │    │   ┃ │         │
    │    │   ┃ └────────┐│
    │    │   ┃          ││
    │    │   ┃          ││
    │    │   ┗松平清武      ││
    │    │              ││
    │   お保良の方           ││
    │                   ││
  お夏の方                  ││
                        ││
  勝田著邑━━━━━━━━お喜世の方(月光院)││
               │        ││
               └────────┘│
                         │
  小尾直易━━━━━━━━斎宮         │
               │         │
               └─────────┘

月光院はとても美しい女性であったと伝えられる。

そして格式の高い武家への出仕を早くから目指していたとも言われ、
月光院の経歴だけを見ると、生き方はかなり奔放であり、
しかも野心家でもあったような印象である。

しかし実際はそれだけではなく家継の教育に情熱を傾け、
徳川幕府将軍に相応しい人物となるように心を砕いている。
また自らも比類なき学問好きであり、とても多才であったと伝えられている。
中でも和歌の才能は素晴らしく歌集『車玉集』を遺しているほどである。


江戸時代は儒教の影響も大きく、
月光院のように「女性として」自らの人生を謳歌したような女性に対しては、
比較的厳しい評価が与えられているのは仕方がないのかも知れない。
ただ月光院は「母として」「妻として」そして何よりも「女性として」、
自分らしく江戸時代を生き抜いた才色兼備の女性であった。

     部はクリックすると説明ページが表示されます。

年表
父:勝田著邑、母:和田治左衛門の娘。

<貞享2(1685)年>
 誕生。

<宝永元(1704)年>
 甲府藩桜田御殿出仕。
 12月5日、家宣、綱吉の養嗣となり江戸城西ノ丸に入る。

<宝永6(1709)年>
 5月1日、家宣、将軍宣下。
 7月3日、鍋松(のちの家継)を出産。

<正徳2(1712)年>
 10月14日、家宣、死去。
 月光院と称する。

<正徳3(1713)年>
 3月26日、家継、元服。
 4月2日、家継、将軍宣下。
 従三位。

<正徳4(1714)年>
 3月5日、「絵島事件」発生。

<享保元(1716)年>
 4月30日、家継、死去。
 8月13日、吉宗、将軍宣下。

<宝暦2(1752)年>
 9月19日、死去(14日説あり)。法名・月光院理誉清玉智天大禅定尼。

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