【略伝】

安土桃山時代。

豊臣氏家臣。

従五位下。
摂津守。
宇土城城主。

弥九郎。
洗礼名は、アグスチノ(アゴスチイノ)。
父は、小西隆佐(立佐)。
母は、マダレイナ。


堺の薬種商であった小西隆佐(立佐)の次男として誕生したと言われるが、正確な誕生年等、行長が羽柴秀吉に出仕する前の半生の詳細は不明な点が多い。

永禄4(1561)年に、父母が洗礼を受けており、行長も幼い時に受洗し耶蘇教徒であった。しかしながら、若い頃には、それほど信仰心を持っていなかったらしい。

行長は、少年期に備前国の商家に養子に出される。

養子先は備前国と美作国の両国を治めていた宇喜多氏の御用商人であったとされ、行長も宇喜多氏のもとを出入りしており、その縁で、宇喜多氏当主の宇喜多直家に才能を買われて、宇喜多氏の家臣となった、と言われるが、はっきりしたことは不明である。

やがて運命の出会いが行長を待っていた。

織田家の重臣であった羽柴秀吉が中国方面攻略のために出陣してきたのである。当初は毛利氏と共に織田軍に対して徹底抗戦の構えを見せていた直家であったが、天正7(1579)年に毛利氏を離れ播磨国三木城を攻略中の秀吉に対して、織田家への服従を誓うことになる。

この時、直家の使者として秀吉の陣へ赴いたのが行長であった。

そして、行長は、直家から織田氏への従属の証しの人質として織田信長のもとへ送られた嫡子の宇喜多八郎(のちの秀家)に付けられる。その八郎が信長から秀吉に託されたことで、行長も、八郎の後見役として200石を与えられ、そのまま秀吉の配下となる。

天正9(1581)年には播磨国室津を与えられる。そして、行長は羽柴部隊の水上兵站部門担当として取り立てられたようである。それは、行長が、播磨国から備前国にかけての瀬戸内海について詳しく、それらの地での物資調達と輸送に役立つ人物と見られたからで、誰よりも兵站部門の重要性を認識している秀吉ならではの抜擢であった。

この年、宇喜多直家が死去するが、その家督と所領は、信長の許可を得て、八郎に無事譲られる。行長は、このことに安堵したものと思われる。

さらに、天正10(1582)年になると、秀吉から小豆島の管理も任されており、この頃には、大坂湾から瀬戸内東部の海上輸送を担当していたようである。それは、この先に予想された織田軍の西日本制圧戦での海上戦、及び、海上輸送路の確保を想定したものであった。

この年、『本能寺の変』が勃発。

信長が明智光秀に殺害される。秀吉は、『山崎合戦』で、いち早く光秀を討ち信長の後継者争いに名乗りを上げるもの、天下の形勢がどう転ぶか混沌としている同年12月に、行長は、秀吉から材木輸送が滞ったことを叱責される。

天正11(1583)年には、正式に舟奉行に任命され、秀吉の天下統一戦の影で兵站部門の一翼を担い活躍する。この時期、父の隆佐が秀吉の側近のひとりとなり、母のマダレイナが秀吉の正室であるおねの側近となっている。

隆佐が側近になった時期については、天正7年頃とする説もあるが、いずれにせよ、秀吉が、天下獲りの野心をあからさまにした時期に、耶蘇教徒の小西一家が秀吉と深い関わりを持つようになったのは興味深いところである。

そして、行長自身は、『山崎合戦』の直後から耶蘇教信者の高山重友と親しく交わるようになるにつれ、自分の中にあった信仰心が目覚め、それまでの賢しい功名心に逸る生き方から慎しみ深く温和で思慮深い人格へと変わって行く。一説には、重友と出会ってから受洗した、とも言われる。

重友の影響で耶蘇教に改宗した武将には、蒲生氏郷、黒田孝高、中川秀政等がおり、行長を含めて彼らは「信仰」と言う絶対的な結びつきを持つのである。中でも、孝高は、行長の影響を強く受けて改宗した人物である。

秀吉と徳川家康との間で『小牧長久手合戦』が行われた天正12(1584)年には、仙石秀久の下で行長は紀伊水道に展開しており、6月16日、十河城へ兵糧を輸送する準備に追われている。

これは、秀吉の主力部隊が濃尾方面に進出することで、畿内の兵力が手薄になる隙を狙った長宗我部元親が、紀伊国の雑賀衆と連携して軍事行動に出る危険があったためで、行長は、四国の親・秀吉勢力への支援、及び、四国と紀伊との連携を遮断する役割を担っていたのである。

もっとも、この時は、同月11日、長宗我部軍が十河城を攻め落としている。

そして、その流れの中で、天正13(1585)年3月に行われた『紀州雑賀征伐』に、水軍70隻余を指揮して参加している。

7月、従五位下に叙され、摂津守に任官される。一説には、この時に、先の室津や小豆島に加え、塩飽島等2万石を領したとも言われるが、この辺りのことは不明な点も多い。

この年の閏8月、高山重友が播磨国明石6万石(12万石とも)を与えられる。明石に隣接するのが、行長の室津であったことから、明石の仏教勢力が耶蘇勢力の侵食に危機感を抱き、秀吉の母なかに訴え出ようとしたが、かえって、秀吉の怒りを買い、仏像が焼き捨てられる事態となっている。

当時、秀吉は、『九州征伐』を計画しており、そのためにイエズス会が保有する大型船の建造技術を欲していたこともあって、耶蘇教が優遇される有利な状況にあった。そして、天正14(1586)年には、宣教師コエリョやフロイスから秀吉に対して、明国征伐の際には、ポルトガル船を提供するとの申し出が行われている。

この頃には、行長が、かつて後見役であった宇喜多八郎も元服し、秀吉から偏諱を受け「秀家」となり、前田利家の娘で秀吉の養女となっていた豪と婚姻している。それは、行長にとって喜びの出来事であったと思われる。

天正15(1587)年3月、『九州征伐』が開始される。この合戦において、行長は、豊臣水軍の総司令に任命され、行長の率いる船団の船には全てに十字架が掲げられていた、と伝えられる。かくて、豊臣軍は九州を席巻し平定する。

こうして、行長には、軍事作戦の「指揮官」としての役割が与えられて行くのである。このため、行長の父の隆佐は、耶蘇教徒で、鞆の浦に滞在している足利義昭に仕えていた内藤如安(内藤忠俊)を、武将としての経験も知識も不足している行長の軍事参謀、及び、教育役として、この年に招いている。この辺りは、島勝猛を家臣とした石田三成と好一対と言える。なお、行長が如安を家臣としたのは、天正13年とする説もある。

ところが、行長にとって重大な事件が博多で勃発した。

コエリョが秀吉に無断で小型軍艦を博多に乗り入れたのである。さらに、平戸に到着したポルトガル船についても、秀吉が、そのポルトガル船を博多に回航するように命令したにも関わらず拒否してしまったのである。秀吉の許可も得ずに武装する耶蘇教の指導者層と、大量の物資を海外から日本へ運び込むポルトガル船の存在は、秀吉を警戒させることになる。

コエリョは、先に、『九州征伐』を企図する秀吉に対して、「大友義鎮、有馬晴信、大村純忠等の諸大名を、自分の号令で秀吉の下に参加させる」と、キリシタン大名への影響力を誇示していたいきさつもあり、かねてから行長と重友は、その出過ぎた振る舞いを心配してところに、この事件が起こったのである。

このため、行長は、重友と共に、コエリョに対して、小型軍艦を秀吉に献上し誤解を解くように説得したが、コエリョは頑なに拒否した。

そして、6月19日、秀吉は、「伴天連追放令」を布告したのである。また、重友も秀吉から棄教を強く迫られた。しかし、重友は、この秀吉からの強制を拒み、遂に、豊臣家臣団から追放される。

行長は、棄教を迫られることは無かったが、絶望の内に、そのまま堺に戻る。この時の行長は、自身の信仰心を巡って、相当に葛藤したようで、宣教師たちとの絶縁を試みている。しかし、耶蘇の教えに立ち返り、自らの信仰心の正しいことを信じ、心のままに生きる決意を固める。

やがて、堺を出て室津に入ると、迫害を受ける恐れのある耶蘇教の宣教師たちを領内に匿い、重友とオルガンチノも、自領の小豆島に保護する。その上で、自らの命を賭して、秀吉に重友の赦免を求めようとしたが、行長の生命を危惧した重友から押し止められている。

しかし、宣教師を匿い保護していることが露呈し秀吉から詰問される。

これに対して、行長は、「信仰心を持つ者こそが真の武士である」と、全く怯むことなく秀吉に対して堂々と抗弁している。野心無き真っ直ぐな行長の言葉の前に、さしもの秀吉もどうしようも無く、結局、行長を罰することは出来なかった。この行長の無処罰の背景には、行長の母のマダレイナが側近を務めるおねの働き掛けもあったものと思われる。

『九州征伐』では、もうひとつ行長の人生を左右する事柄が起こっている。

それは、5月に、対馬国の宗氏が秀吉に服属を申し入れて来たことである。秀吉は、6月になって、宗義調、宗義智の父子に対して、朝鮮王のソン・ジョ(宣祖)を、翌年中に日本の朝廷に参内させるように命令する。

確かな時期は不明であるが、この頃、行長は自分の娘を、宗義調の子の宗義智と婚姻させている。この婚姻は、行長が朝鮮貿易の利権の独占を狙ったものとも、秀吉から宗氏の後ろ盾として朝鮮との外交を任されたものとも、様々に解釈されているが、確かなことは、以後、行長は秀吉政権の大陸政策の最前線に、その身を置いた、と言うことである。

加えて、さらには、この年、肥後国の領主となった佐々成政が領国経営に失敗し、肥後国内の各所に一揆が続発し混乱を招く。この事態に、小早川隆景、加藤清正等と一揆鎮圧に当たり、以後、武力鎮圧後の肥後国の政務を担当する。

天正16(1588)年閏5月には、佐々成政が自刃させられ無主となった肥後国の南半国(宇土郡、益城郡、八代郡)、及び、天草を併わせた14万6300石を与えられ一躍大名に取り立てられる(後に24万石に加増)。行長は、肥後国宇土を本拠とし、古麓城に小西行重、隈庄城に小西主殿助等を配して統治体制を整える。

その上で、行長は、高山重友を肥後国内に匿い、重友の旧家臣たちを抱える。

そして、宇土城下には、司祭館と修道院を建設し、5人の司祭と7人の修道士を住まわせて領内の布教を推進させ、イエズス会には、1000石以上の経済的基盤を与えることを約束している。また、宇土城普請への参加を拒んだ天草五人衆を処分し天草水軍を自らの水軍に吸収している。

行長の統治は、領民に対する年貢等の課役が極めて低く抑えられ、役人が領民を年貢の取り立てで苦しめることは無かった。その代わりに、役人たちは、執拗に領民のところを訪れては、耶蘇教への改宗を強く迫った。

こうして、領民への改宗を迫ると同時に、行長は、その領内において徹底した「悪魔祓い」を行った。ここで言う「悪魔」とは、即ち、仏教や神道(当時は神仏習合)のことである。神社仏閣は悉く破壊され尽くし、これに抵抗する僧は、斬首に処され、僧の惨殺体は仏教の経典を吊るされた上で無造作に打ち捨てられる、と言う有様であった。

これでも改宗しない仏教徒が多い村落に対しては、厳しく重い税を課したり、村人を殺戮したりした。

このために、多くの仏教徒は難民として、隣国に逃げ込んでいる。この逃げ込んだ先の隣国である肥後北半国の領主こそは、加藤清正であった。熱心な仏教徒(日蓮宗)である清正は、これがために、行長のことを強く憎み忌み嫌うようになった、とされる。

行長は領内に次々と耶蘇教会を建設し、領民たちを教化して行った。また、後の文禄元(1592)年には、天草に、宣教師の教育のための学問所である天草学林を置いている。この天草学林は、所謂、天草本『伊曾保物語』等が出版されたことで有名である。

また、学問だけでなく、貧者の救済や病院施設等の福祉制度も充実させていたものと容易に想像される。

こうして、僅かの内に、小西領である肥後国の南半国(宇土郡、益城郡、八代郡)、及び、天草地方は、最盛期には10万人を数えたとも言われる耶蘇教徒で溢れ、南蛮文化の香る華やかで、それでいて厳かな最先端の土地となった。まさに、行長は、自らの領地を「神に祝福されし国」と成したのである。

その後、結城弥平治、加藤吉成、森宗意軒等を家老とし、また、天草国人衆、肥後国人衆を支城の城主に据える等して、領国の支配体制を強固なものとしている。また、行長と将兵たちとの繋がりも、ただ単なる「恩賞」だけで無く「信仰」と言う絆で一層強く結ばれて行ったのである。

この年、秀吉は、朝鮮のソン・ジョに対して入貢を要求する国書を出し、行長の娘婿に当たる宗義智に取り次ぎを命じる。義智は、国書を書き換え、朝鮮に使者を派遣し、通信使の来日を要請するが、朝鮮側に拒否される。

窮地に陥った義智を救うために、行長は、博多の商人である島井宗室を、使者として朝鮮に派遣する。こうした行長の支援を受けて、今度は、義智自らが「日本国王副使」を称して渡鮮し交渉に当たり、遂に、通信使の来日を約束させることに成功する。

こうして、朝鮮との外交に関与しながらも一方で、行長は、天正18(1590)年、本来は追放の対象である宣教師ヴァリニャーニを外交使節(インド副王使節)として、秀吉と面会出来るように、黒田孝高と共に奔走している。

義智の外交努力の結果、朝鮮から送られたファン・ユンギルを正使とする通信使一行200人は、同年7月、京都に到着。しかし、秀吉は小田原へ出陣中であり、秀吉から帰洛するまで、通信使一行は待機させられる。

8月になると、行長は、奥州仕置より帰洛途中の秀吉から、駿府城に呼び出される。この時、呼び出されたのは、行長と毛利吉成であって、翌年の春に計画する大陸出兵の準備を求められる。

11月になって、ようやく聚楽第で、秀吉は朝鮮通信使と会見する。この会見に、秀吉は鶴松を抱いて会見に臨み、鶴松が通信使の前で小便を漏らした話は有名である。そして、通信使は、「一超直入大明国」の一文が書かれた秀吉からの国書を虚しく持ち帰ったのである。

大陸出兵が不可避となりつつある中、翌天正19(1591)年閏正月、行長は、聚楽第において、ヴァリニャーニと秀吉との面会を実現させる。ここに、伴天連追放令は実質的には緩和されることになり、従来からのイエズス会だけでなく、新たに、ドミノコ会、アウグスチノ会、フランシスコ会等も続々と日本への布教に乗り出して来ることとなる。

また、この年には、大陸出兵のために築城される名護屋城の作事奉行に任命される。加藤清正等の九州の諸大名が石垣を作り始め、行長は、12月頃から建設作業に入ったようである。

文禄元(1592)年正月5日、秀吉から良馬を下賜される。これは秀吉の大陸出兵計画に際して、その先鋒を志願したことを秀吉が殊勝として与えたものである。なお、行長と同じく先鋒を志願した加藤清正にも題目の軍旗が下賜されている。

3月1日、大坂城から名護屋城へ向けて出発する。4月3日に、行長は、小西部隊7000を含む、先鋒一番隊総兵力1万8700を率いて、宗義智等と共に名護屋港から出陣する。


《先鋒一番隊 内訳》

 小西行長部隊 7000
 宗 義智部隊 5000
 松浦鎮信部隊 3000
 有馬晴信部隊 2000
 大村喜前部隊 1000
 五島純玄部隊  700

 合計     18700

そして、対馬に駐屯し、ソン・ジョに対して使者を送り、改めて入貢するように求める最終交渉を行おうと試みるが拒絶されたことで、4月12日、700隻からなる船団で対馬大浦を出発し、午後5時頃に絶影島を経て、13日早朝、釜山に上陸を開始する。

『文禄の役』の開戦である。

この時、行長は、軍中にセスペデスを従軍司祭として同行したとされる(ただし、セスペデスの渡鮮時期は12月であり、その行動や詳細は不明な点が多い)。行長が戦場で布教を計画した理由に、秀吉は朝鮮をキリシタン大名に与える約束をしていたからとされる。実際、行長が指揮する先鋒一番隊には、行長始め、宗義智、有馬晴信等と言ったキリシタン大名が多くいた。

また、行長は、明や朝鮮との交渉に備え、所謂「外交僧」として、臨済宗妙心寺の僧天荊を同行した。この戦役で有名な僧玄蘇は、宗義智が同行している。

行長は、一番隊を三部隊に分け、先鋒の指揮官に、木戸作右衛門(小西作右衛門)を配している。

行長は、釜山城に攻め掛かり、猛烈な抵抗を受けながらも市街地を焼き払った。この緒戦において朝鮮人は勇敢に戦い釜山城に篭った戦闘員のほとんど(2万人とも)が戦死を遂げた。このため、行長は彼我の犠牲を減らすためにも慎重な行軍を行うことを決め、自部隊の負傷兵の手当てと補給のために、一日宿営している。

次いで、東莱城(莱は、草冠に「來」)を攻め、自部隊に500人の死傷者を出しながらも、これを落とす。

行長は、この時点で、朝鮮側の蔚山郡守イ・オンソンや通訳キョン・ウンスンを通して、朝鮮側に講和を申し入れ、宗義智と面識のあった工曹判書イ・ドクヒョンを交渉相手に指名して交渉に応じるように求めている。

当時の朝鮮は、高名な儒学者のカン・ハンでさえ、日本人のことを「倭奴」と呼び蔑み未開の土人として見下す状態であって、早期講和が困難であること等、行長も充分に理解していたはずである。

それでもなお、講和交渉を行おうとした行長は、耶蘇教徒として、「神の下の平等な人間同士」として誠実に向き合おうとしたのであろう。しかし、一方で、緒戦の釜山城攻略の際に、一番隊の指揮官として2万人を殺戮したように、行長は「早期講和」と「戦争推進」と言う矛盾を抱えていた。

この行長からの講和交渉申し入れについて、朝鮮では朝議が開かれる。朝議は紛糾したものの、交渉する道を選び、イ・ドクヒョンとキョン・ウンスンを行長のところへ交渉に向かわせた。

しかし、その道中、キョン・ウンスンが加藤清正の部隊に捕縛され殺害されてしまったのである。このため、イ・ドクヒョンは、何も出来ないまま引き揚げた。早期講和の可能性は、ここで消え去ったのである。

行長は、釜山攻略後は、忠清道を北上し、24日に尚州、次いで、27日には、シン・リプが率いる朝鮮軍8000を白兵戦に持ち込み撃破し忠州を陥とす。そして、28日、加藤清正の部隊と合流し軍議を開いた上で、29日には忠州を出発し、朝鮮の首府である漢城に迫った。まさに、電光石火の進撃である。

なお、清正と合流した際には、先鋒指揮官の木戸作右衛門が、小西部隊を追い抜こうとする清正に向かい、「小西部隊が苦労して多大な犠牲を払いながら敵地を制圧して切り開いた道を、加藤部隊はやすやすと通って来ただけで一番乗りする気か」と言ったことから、小西部隊と加藤部隊との間で一触即発の事態となっている。

朝鮮側では、日本軍の破竹の進軍の前に、ソン・ジョとその一族、貴族たちは漢城を捨て逃亡する。

日本軍の漢城への行軍は、大雨に見舞われたが、行長自らが軍勢の先頭に立ち、朝鮮軍を撃破しつつ北漢江を渡り漢城に接近した。

漢城攻防戦では、騎馬部隊を主力とする朝鮮軍8000を、巧みな戦術でおびき寄せ、鉄砲隊の一斉射撃で朝鮮軍の騎馬部隊を弾丸で釘付けにし、動きの止まったところを抜刀攻撃で壊滅させた。小西部隊の面目躍如であった。そして、5月2日には、漢城を完全制圧することに成功している。

この漢城占領の際、清正は行長を出し抜こうとして姑息な手を使ったものの、結局、行長に大きく遅れを取り、赤っ恥をかくはめになっている。

その加藤部隊がさらに先に兵を進めるべく漢城から出発し渡河しようとしたが、朝鮮軍が、これを阻止。加藤部隊は進むことが出来なかった。そこで、13日、行長は、柳川調信を使者として加藤部隊の前面に展開する朝鮮軍に送り、進路を開くように降伏勧告を行っている。

日本軍が漢城を占領した知らせは、5月16日には、秀吉のもとに届き、喜んだ秀吉は、行長、清正、宗義智等に感状を出した上で自ら渡鮮する準備をする。

こうして、日本軍の陸上部隊は快進撃を続けたが、一方で海上には暗雲が立ち込めていた。

5月4日、日本水軍の藤堂高虎部隊50隻は、全羅左水営のイ・スンシン(李瞬臣)率いる90隻の朝鮮水軍に依る攻撃の前に、船団の半数を失う大打撃を受ける。さらに、イ・スンシンは、29日には、新型軍船の亀甲船3隻を戦線に投入し、以後、日本水軍相手に連勝を続け、日本軍の拠点である釜山の沖合から西方水域の制海権を確保する。

つまり、日本軍は、対馬から釜山までの海上兵站線を開戦からの早い時期に分断封鎖されたのである。行長は、朝鮮半島北上に際して、西岸域から水上部隊を経由する補給を想定して作戦行動を取っていたようであるが、この行長の補給計画は初期に頓挫してしまったのである。そのような状況を知ってか知らずか行長は、逃亡したソン・ジョを追撃すべく、19日、漢城を出発し北上する。

6月3日、秀吉から朝鮮経営に関する命令書が届き、その中で、行長は平安道の統治を任される。

7日に中和、8日には大同江に布陣し、早くも平壌に肉薄する。行長の一番隊には、黒田長政の三番隊も合流し共同作戦を取っている。行長と長政の父の黒田孝高とは昵懇の間柄であることから、行長と長政の連携は極めて容易であったと推測される。

かくして、日本軍が接近したため、11日に、ソン・ジョは平壌を脱出し、さらに逃亡する。そして、ソン・ジョの逃亡時間を稼ぐ目的も含めて、朝鮮軍1万が平壌の防衛に残った。15日には、果敢にも朝鮮軍400が宗義智の陣に夜襲を仕掛けて来る等、抵抗を見せている。

小西部隊は、木戸作右衛門の活躍で大同江を防衛する朝鮮水軍を蹴散らして渡河し、16日には、平壌を遂に攻略する。

平壌に入った行長は、逃亡したソン・ジョに対して、降伏するように勧告を行う。こうして、平壌は、日本側にとって、明との外交、及び、戦争の最前線に位置する拠点となった。

行長は、平壌を占領後、要塞として日本式の城を築城した上で、戦闘で破損した平壌城の城壁等を修理する等、守りを固めて、積極的な軍事行動に出ることを避けた。その背景には、平壌が友軍の援軍を求めるには余りにも明方面に突出した遠い場所に位置し、加えて、弾薬等の補給もままならない事情もあった。

この時期、行長の国元で事件が起こる。

薩摩国の島津義弘の家臣である梅北国兼が、『文禄の役』に対し謀反を起こして、肥後国で騒ぎを起こしたのである。小西領では、この国兼に呼応した集団が麦島城を乗っ取ったものの、行長から留守を任されていた結城弥平次が、これを鎮圧した。

今次外征にかかる巨額の戦費負担は、主に西日本諸国に課せられていたため、不満が積もっていたのである。

平壌を占領した行長に対して、7月15日、祖承訓の率いる明軍が平壌奪還を目論み攻め寄せる。その夜、行長は敵情視察の兵を明軍中に潜入させるが、明軍が日本兵の潜入を発見し大騒ぎしているのを見て、16日、自ら部隊を率いて出陣し鉄砲を駆使して明軍を撃退する。

8月9日、漢城に出向いた行長は、宇喜多秀家、石田三成等の三奉行、小早川隆景、黒田長政等と軍議を開き、年内の軍事作戦域としての北限は平壌を限界として、これからは占領地域内に強固な兵站線を構築することを作戦目標に据えることで合意する。

一方、平壌近郊において、明軍が日本軍の前に、あっさりと撃退された事実は、日本人を非文明種の下等な生き物と見下していた明に大きな衝撃を与えた。そこで、明は本腰を入れ、宋応昌を総督として朝鮮に派遣する。

同時に、明は軍備が整うまでの間、日本軍を油断させるために沈惟敬を平壌に送り込み、講和をちらつかせて、日本軍の実情を探る策を採る。元々、早期講和を希望していた行長は、この明の策略に簡単に乗ってしまうのである。

そして、8月29日、平壌の北方で、宗義智、柳川調信、僧玄蘇等を従え、行長は沈惟敬と停戦交渉を行い、交渉期間として50日間の停戦を約束を交わす。この交渉中に、行長は、講和条件を提示し、9月2日、沈惟敬が明に持ち帰っている。この時、沈惟敬は、日本軍の強さの証拠品として、日本軍が装備している武器の提供を求める。さすがに、他の武将たちからは、日本軍の武器を調査する目的に違いないと危険視されるが、行長は、この求めに応じてしまう。

12月9日、行長は、宇喜多秀家、小早川隆景、黒田長政等の在鮮の武将たちと、石田三成等の三奉行を開城に集めて、自身が進めている講和について軍議を開く。

朝鮮人の内通者から明の停戦講和は偽りのもので日本を油断させるものであるとの情報を得て、宗義智、松浦鎮信等は、行長に対して意見具申を行うが、行長は、沈惟敬との信義を重んじて臨戦態勢に入ることを拒んだ。これは、耶蘇教徒として、まず「信義」を重要視する行長の甘さでもあった。

このように、行長は、戦局が講和に向けて動き出したと信じていた。

文禄2(1593)年正月3日、行長は、配下の武将に20人を付けて、順安に沈惟敬を迎えに行かせたものの明軍に襲撃され三人が捕虜とされる。これでもまだ、行長は何かの行き違いと思い講和を信じていたが、5日になると、明軍が平壌周辺に出没し日本軍と散発的に交戦するようになり、遂に7日になって、李如松率いる明・朝鮮連合軍10万が平壌に押し寄せ攻囲したことで、行長の講和への希望は粉砕される。

この事態は、明との講和を信じて奔走していた行長にとっては、全くの不意打ちであった。行長が講和交渉が進んでいると信じていた期間こそは、明が兵力を増強し巻き返しを行うための準備期間だったのである。

明軍は、天字砲、地字砲、玄字砲等の大砲群を主力として、小西部隊に猛烈な攻撃を仕掛けて来た。

行長は踏み止まり徹底的に戦い抜く覚悟でいたが、松浦鎮信の意見を採り平壌の確保をあきらめ、夜陰に紛れて、平壌から撤退する。これが地獄の撤退となった。平壌進駐以来まともな補給を受けていないことに加え、朝鮮北部が厳冬の時期であったために、飢えと寒さが情け容赦なく小西部隊の兵を襲ったのである。

この苦難の最中、有馬晴信が天然痘になっていたが、行長は、重態の晴信の身の安全を保ちながら退却している。

小西部隊は、8日には鳳山、9日に龍泉山城、10日に平山まで、飢えと寒さのために兵が次々と倒れ命を落として行く中、ひたすら撤退する。

ようやく白川にまで引き揚げた行長は、黒田長政と、11日に軍議を開き、13日に開城に入る。そこで、小早川隆景と軍議し、漢城まで戦線を下げることとする。さらに、16日に、漢城で、宇喜多秀家や三奉行と軍議し、兵糧や弾丸等が不足する中での戦力の分散を避け集中運用すべく、朝鮮の北西部方面で行動していた日本軍を漢城に入れることを決定。かくて、北西方面を攻略していた日本軍は、21日までに全軍が漢城に撤退し集結する。

漢城に集結した日本軍は、行長をはじめ、宇喜多秀家、小早川隆景、黒田長政、立花統虎(立花宗茂)、吉川広家、宗義智、石田三成大谷吉継等の諸部隊計5万余であった。

23日、日本軍が平壌で敗北したことを知った朝鮮人が漢城内でゲリラ活動を開始。日本軍は警戒を強める。同日、明の李如松は漢城攻略を決定。翌24日、日本軍は、漢城内の朝鮮人が明軍と連携することを恐れ、これを大量に殺害し建物にも放火する。

26日になって、立花統虎の出した斥候が、明・朝鮮連合軍が漢城に接近していることを確認する。この明・朝鮮連合軍を前にして、日本軍は得意とする白兵戦に持ち込むべく、打って出て漢城郊外で迎撃することを決定する。有名な『碧蹄館の戦い』である。

先鋒部隊2万は、小早川隆景が指揮を執った。本隊2万1000は、宇喜多秀家が指揮を執っており、行長は漢城の防衛に当たった。日本軍の勇戦と、明軍内部の主導権争いの結果、明・朝鮮連合軍は日本軍の前に大敗し、29日には開城に引き揚げる。

日本軍は、2月12日、朝鮮人ゲリラの拠点となっている幸州山城に対する攻撃を開始する。この時の日本軍の戦力は3万であったが、先鋒を小西部隊が担当している。因みに、第二部隊は、石田三成以下、三奉行の部隊であった。この戦いで、日本軍は、宇喜多秀家部隊や石田部隊等で多くの戦死者を出している。

このような激しい戦いの後であっても休む間もなく、翌13日、行長は、漢城に舟橋を架ける工事の監督をする。

2月16日、平壌喪失の一報が秀吉に届く。この時期から在鮮の武将たちは、軍議を頻繁に開くようになる。27日には、行長、秀家、隆景、長政等の在鮮武将、三奉行、さらに、秀吉からの上使である熊谷直盛が、私情を交えず、軍議は多数決で決定し従う旨を議決する。この内容に、加藤清正、鍋島直茂も同意する。

3月20日、三成は漢城の日本軍の現状について調査を行う。

結果、行長が率いる一番隊は、開戦当初1万8300人だったのが、この時点で、6629人にまで激減していた。最前線で戦い続けた結果、開戦から1年ほどの間に、実に3分の2が、主に凍傷と飢餓のために死亡している凄惨な状況であった。

一方、明側も、『碧蹄館の戦い』で、日本軍の攻撃の前に死の恐怖を味わった李如松が、被害を出すことを恐れ、力攻めを避ける方策を練り、軍人に過ぎない謝用梓と徐一貫(徐一実)を「明使」と偽って、日本に送り込み講和する道を選ぶ。この講和の地ならしのために、4月9日になって、沈惟敬が漢城の行長の陣を訪問する。そして、17日には、「明使」一行100人が行長の陣に、やって来る。

そこで、交渉が行われ、行長は次の四条件で明側と折り合う。

一、明が講和使を日本に送る
一、朝鮮から明軍が全軍撤退する
一、漢城から日本軍が撤退する
一、捕虜となっている朝鮮の二王子と廷臣を解放する

同日、行長は、秀家、隆景、三成等の三奉行と連名で、漢城の兵糧が払底しており、これ以上の漢城の維持、及び、作戦継続を不可能と判断した旨を内地に報告する。同時に、講和交渉のために明使を連れて行くことも報告する。

そして、翌18日には漢城からの撤退を開始する。先の四条件中の日本側の約束のひとつを履行したのである。

明軍は、早くも19日には漢城を占拠している。李如松に同行していた朝鮮政府高官たちは、日本軍を追撃し無慈悲に殺戮することを主張したが、李如松は、これらの主張を聞き入れることは無く、撤退する日本軍を見逃している。

こうして、南下した日本軍のもとに秀吉からの指示が届く。

秀吉からの指示は、漢城からの撤退を認める代わりに、その代償として、晋州城を攻略せよ、と言うものであった。このため行長は、宗義智、細川忠興、浅野長政、羽柴秀勝等と部隊を編成(2万6000)し、諸部隊と攻略に当たる。加えて、行長はじめ諸将は、秀吉から海岸沿いに城を築くことも命じられており、即ち、秀吉からの指示は、戦闘と築城を同時に行え、と言う過酷な命令であった。

行長は、5月8日、三成等の三奉行と共に明使を連れて、釜山を出発。同月15日、名護屋城に到着する。明使は、23日に、秀吉と会見する。

こうして、本交渉に向けた下交渉が進められる中、行長は、6月2日、釜山に向かい、宇喜多秀家と共に、沈惟敬を立会い人として、捕虜としていた朝鮮の二人の王子イム・ヘグンとスン・ハグン、及び、同じく捕虜となっていた朝鮮の廷臣たちを朝鮮側に引き渡す。

同月21日、日本軍は晋州城を攻囲する。行長は、講和交渉中であることを考慮し降伏勧告を採るように主張するが、清正は力攻めを訴え、清正の案が採られる。

小西部隊は、晋州城西面の攻撃を担当した。戦いは熾烈を極め、日本軍は、晋州城内の軍民合わせて6万余人を殺戮、さらに建物も破壊し尽くし、周辺の村々に放火した上で、沿岸に築いた城に撤収する。小西部隊も拠点として築いた熊川城に入った。

同月28日、秀吉は、京都の豊臣秀次を通して、後陽成天皇の勅許を得た上で、明使に対して、講和条件を出す。

秀吉が明に出した講和条件は全七ヶ条から成り、その内容は、

一、明の皇女を天皇の后として差し出すこと
二、日明勘合貿易を再開すること
三、日明修好のこと
四、朝鮮八道内四道を日本領とし残り四道をソン・ジョに返すこと
五、朝鮮の王子、大臣を日本に人質として差し出すこと
六、捕虜となっている朝鮮の二王子を返還すること
七、朝鮮の大臣が日本に忠誠を誓うこと

等で、講和成立は困難と予想された。

さらに、この講和交渉中に、日本軍が晋州城を攻略したことを沈惟敬がなじったため、遂には、行長も堪忍袋の緒が切れたのか、「日本側は既に漢城から撤退し、朝鮮の二人の王子も返還しているにも関わらず、明軍が慶尚、全羅方面に出兵しているのはどう言うことか」と、逆に詰め寄り激しく言い返している。

このように、講和交渉は、いつ決裂してもおかしくないものであったが、それでも行長は、粘り強く交渉を続けた。

沈惟敬は、秀吉の出した七ヶ条は、到底飲めないとして、「秀吉が明から日本国王に封じられることと入貢することの許可を求める」と言う全く真逆の上表をするように日本側に提案する。行長も早期講和を目指すために、この沈惟敬の提案を受諾する。ただし、さすがに行長も独断で決めることは出来なかったらしく、石田三成、増田長盛等の奉行の裁可を得た上で講和交渉を進めた。

そして、行長は、明政府と直接交渉を行うために、7月20日、家臣の内藤如安を全権として、沈惟敬と共に北京に向かわせる。

この時期の行長は、戦争推進のための最前線の指揮官であり、一方で、講和推進のための外交官でもあり、言わば、矛盾する二つの大役を担っていたのである。

如安は、朝鮮の漢城で李如松と会見し「今回の日本の行動は明に朝貢することが目的」と主張する。しかし、これは詭弁であり、如松に受け入れられることは無かった。

8月3日、秀吉に、お拾(豊臣秀頼)が誕生する。

秀吉は、8月6日に、伊達政宗、羽柴秀勝、浅野長吉等の部隊に対して本土への帰還命令を出し、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家等には、病気療養のための帰国を命じている。閏9月までに、石田三成等の三奉行等の武将も本土へ引き揚げている。

こうして、日本軍の中には、秀頼の誕生を契機にして一気に講和成立の機運が高まっていたが、講和交渉は難航していた。

如安は、遼東で明軍総督の宋応昌と会見する。しかし、応昌から「秀吉の降表(降伏文書)」が必要と迫られる。応昌は、「秀吉の降表」を求めて、熊川城にいた行長のもとへ直接、配下の者を派遣する。この事態に、沈惟敬も如安をひとり遼東に残して行長のところへ向かう。

このように、日本と明の間で何とか停戦講和の道筋を模索している最中、朝鮮側は、李如松に対して、停戦機運で油断している日本軍を掃討するように依頼する。しかし、明側は、これを拒絶している。

行長は、沈惟敬と策を練り、講和交渉を進めるために「秀吉の降表」を偽造することを決める。そして、明の皇帝に対して秀吉が「日本国王」の称号を求める内容としたのである。

10月3日、ソン・ジョは、荒れ果てた漢城に帰還する。

行長は、11月15日、沈惟敬に対し講和交渉の遅れを責める。このため、沈惟敬は、12月になって、行長の陣所を訪問し秘密交渉を行ったようであるが、その内容は詳らかで無い。

文禄3(1594)年正月20日、沈惟敬は「秀吉の降表」を持ち、熊川城から遼東へ出発する。

この年、戦線は、膠着状態となり、日本軍も朝鮮南部海域での水軍の行動が目立つ程度で、劇的な展開等が無いままに、一年が過ぎることとなる。それは戦闘の場面だけで無く、講和交渉に置いても、主に明側の事情で交渉は遅々として進まなかった。

12月6日、ようやくのことで、如安は北京に到着する。そして、11日、明皇帝に拝謁し、以後、ようやく和睦交渉を開始。とにかく「秀吉を日本国王に封じる」と言う点を落とし所として交渉を行ったようである。ここに、明側は、

一、朝鮮からの完全撤退
一、秀吉を日本国王とするが入貢は禁止
一、朝鮮半島への再侵略を禁止

との条件を出し、如安は受諾する。そこで、明も、正使李宗誠、副使楊方亭を外交使節として派遣することを決める。

一方、明の武将の劉テイ(糸偏に「廷」)挺は、行長が講和交渉を進めていることを利用して、加藤清正に、全く別内容の日本側が有利となるウソの講和交渉を持ちかけ、日本側の手の内を探り、さらに、行長と清正の間を完全に引き裂く工作を行う。

朝鮮僧松雲が、西生浦城の清正の下を訪れる。そこで、清正は、極秘情報であった行長と沈惟敬との交渉内容を漏らす等して明側の工作に乗ってしまうのである。

このような波乱を含みながら、行長が進めて来た講和は成立の運びとなり、文禄4(1595)年正月、如安は、明使を伴い北京を出発する。

秀吉は、明からの講和使節団の来日が近いと知り、6月28日、熊川、釜山、金海等の数城に日本軍を残留させた上で、残りの日本軍の本土帰還を命じる。

講和成立に向けて時が進む中、7月、秀吉の後継者とされていた豊臣秀次が「謀反」の容疑で官位官職を剥奪された上で高野山に追放され、自刃に追い込まれる。行長が、この事件をいつどこで知ったかは不明であるが、豊臣政権は、この後、粛清等があったために、講和交渉も遅延する。

11月になって釜山に到着した李宗誠(李宗城)は、なかなか日本に赴けない状況に恐れを抱き逃亡する。このため、副使の楊方亭を正使とし、副使には沈惟敬を置いた。行長は、なんとしても、この講和交渉を成立させようと必死であった。

慶長元(1596)年正月、行長は、沈惟敬と共に日本に戻る。

同月、行長と鋭く対立していた加藤清正が失脚し、本土へ召還される。これは、三成が清正に対する罪状三ヶ条を秀吉に報告した結果を受けて、秀吉が決断したものである。清正には、謹慎処分が下され、伏見の自邸に蟄居となる。

こうして、本交渉に向けて大きな障害を排した上で下交渉を重ね、4月には、沈惟敬と共に釜山に入る。そして、6月14日、明使節団400人を連れて、行長は本土に帰って来るのである。

秀吉と明使との会見は伏見城で行う予定であったが、閏7月13日、『慶長大地震』が発生し、伏見城が崩れ、会見の日時は延期され、場所も大坂城に変更された。この『慶長大地震』の際に、いち早く秀吉のもとに駆け付けたことで、清正は、秀吉から謹慎処分を解除されている。

なお、明使には朝鮮使が同行して来ていた。

ところが、その朝鮮使の態度があまりにも非礼であったために、秀吉は激しく責めた。このため朝鮮使は行長に泣きつき、行長も陳謝に務めたが、秀吉の怒りは解けず、朝鮮使は会見に同席することが許されなかった。明のみならず朝鮮との講和も考えていた行長にとっては誤算であった。

そして、9月1日、秀吉と明使の会見が大坂城で行われる。事態は、行長の期待通りに進んだ。しかし、翌2日の夜、明使を慰労する宴会の席で、秀吉の外交僧承兌が明からの国書を満座の席で読み上げた時に、行長の願いは打ち砕かれる。

承兌は高らかに「(秀吉を)日本国王となす」と読み上げたのである。行長は事前に承兌に対して「日本国王」の部分を「大明皇帝」と読み替えるように依頼していたにも関わらず、承兌は、行長の依頼を無視したのである。

結果、秀吉は激怒し講和交渉は土壇場で決裂したのである。

この講和を決裂させた承兌の行動の影には、加藤清正がいた。承兌は臨済宗相国寺の僧であるが、清正の政治顧問の棒安も元は相国寺派鹿苑寺の僧であった。つまり、承兌は清正派であり、清正と対立する行長を失脚させることが出来るのであれば、講和交渉等どうでも良かったのである。ましてや、行長は仏教勢力から見れば憎き耶蘇教徒である。

秀吉は講和交渉を担当していた行長が自分を欺いていたとして斬首に処そうとしたが、行長は、交渉の全ては、石田三成等の奉行等の了解済みのものであった、と証拠を示して、生命の危機を逃れている。また、秀吉も行長の一連の行動に私心無く、ただ大義があるのみであることを理解したのである。

秀吉は、大陸への再出兵を号令し、敵は軍民問わず皆殺しにして、その頚を日本に送るように命じる。

再出兵が決まるや、行長はいち早く肥後国に戻り、兵と兵糧を徴発する。そして、急ぎ渡鮮の準備を整える。これは、秀吉の勘気を解くためであった。この行長の動きを知った加藤清正も鍋島直茂と連絡を取り合い、行長に先駆けて渡鮮しようとしている。

そのような中、8月26日、イスパニア船が土佐国浦戸に漂着する。

イスパニアのフランシスコ会は、日本における耶蘇教の中では新興勢力であり、行長の属するイエズス会とは、日本での布教方法を巡り衝突することも多かった。

土佐国の領主である長宗我部元親は、破損したイスパニア船から漂流した積荷を回収した上で、このことを増田長盛に報告する。

イスパニア船の指揮官ランデチョーは、乗員の安全と修理の許可を求めるために、使者を秀吉のもとへ派遣する。これを受けて、秀吉は、長盛をイスパニア船の巡検に派遣する。長盛は船内から海図を発見し、この海図について乗組員に説明を求めたところ、航海士が「イスパニアは貿易を開始した後に、相手国にフランシスコ会の宣教師を送り込み、最後は軍隊を派遣して侵略する」と答えた。

このため、長盛は元親と相談し「国内の耶蘇教徒と結託して日本侵略を実行しようとしている」と秀吉に報告する。ここに事態は、一気に大事件となった。所謂『サン=フェリペ号事件』である。

秀吉は、サン=フェリペ号の積荷を没収した上で、耶蘇教徒たちの処刑を命じる。この時、反耶蘇勢力が暗躍し、フランシスコ会だけで無く、全ての耶蘇教徒の徹底的な弾圧を企てるが、石田三成が反耶蘇勢力を抑え込んで事件の拡大を防ぎ、前田利家も秀吉の勘気を解くことに尽力している。三成と利家の働きの結果、170名が処刑されるはずであったが、その数は大幅に減らされた。

しかしながら、12月19日、長崎において、無実の耶蘇教徒たち26名が処刑されたのである。

この事件のいきさつを、行長がどう知り、どのように感じたかについては不明である。ただ、小西領の目と鼻の先とも言える長崎で処刑された人たちの中には、フランシスコ会のみならずイエズス会の信者も含まれており、行長は深い悲しみと強い不安を覚えたはずである。

慶長2(1597)年正月13日、行長と清正は先を争い再び出陣して行く。

この出陣に先立ち、行長は、配下の者を朝鮮の武将であるキム・ウンソのところへ派遣する。その上で、清正の渡鮮ルートを朝鮮側に通告し、海上で奇襲攻撃を仕掛けて清正を殺害するように勧める。行長は、講和交渉決裂の背後に清正がいたことを看破していたのである。

行長からの通告を受けた朝鮮側では、イ・スンシン(李瞬臣)に清正の攻撃を命じたが、イ・スンシンは、これを日本軍の謀略と訝り攻撃することを見送り、みすみす清正討伐の機会を逸してしまう。こうして、清正は、悠々と西生浦に上陸する。

中央の命令を無視して清正の上陸を許したイ・スンシンの行動が、朝鮮政府内部で問題となり、命令に従わなかったイ・スンシンは逮捕され、水軍統制使(総司令官)を罷免される。イ・スンシンの後任には、ウォン・ギュンが配された。

2月に入ると、明軍が朝鮮を南下し南原城に駐屯する。

行長は、7月までに熊川城に入って拠点とする。熊川城には、行長の他に、宗義智、加藤嘉明、藤堂高虎、脇坂安治等が入っており、日本水軍の司令部でもあった。その司令部は、朝鮮水軍に対抗するために、熊川城で大艦の建造を急いでいた。

この頃、熊川城は修築され、本丸、二ノ丸、三ノ丸を備えたものであった、と言われる。

7月7日、ウォン・ギュン率いる朝鮮水軍は釜山の日本水軍の掃討を目論み出て来る。ところが、逆に藤堂高虎と脇坂安治等の日本水軍に翻弄され、漆川島に艦隊が停泊中の同月15日、日本水軍の夜襲を受け壊滅する。イ・スンシンが築いた制海権を、ウォン・ギュンが失ってしまったのである。さらに、そのウォン・ギュンは、島津義弘部隊の兵の手で殺害されている。

海上の兵站線を確保したことで、日本軍は攻勢に出る。右翼軍の司令に加藤清正、左翼軍の司令に宇喜多秀家を配して、7月下旬に進軍を開始する。行長は、7000の兵を指揮して左翼軍に属した。

こうして、日本軍は、8月12日、南原城に攻撃を開始。14日、行長は南原城に降伏勧告を行い、15日には、南原城を攻略する。この攻略戦では、行長の軍功が目立った、とされる。その行長は、9月になって、順天城に入る。

しかし、同月、明軍の解生が漢城から出陣し、黒田長政部隊と毛利秀元部隊と衝突し、そのまま日本軍の北上を押しとどめた。開戦から僅か10ヶ月もしないうちに、日本軍陸上部隊は展開を挫かれたのである。

さらに、朝鮮側も、イ・スンシンを水軍統制使に再任する。イ・スンシンは残存する僅か13隻の中にあった亀甲船を用いて、14日、日本水軍100隻に襲い掛かる。結果、藤堂高虎が負傷し、来島通総が戦死、日本艦隊も31隻が沈められる。この日、日本軍陸上部隊も圧倒的な明軍の前に北上を断念し退却を開始している。

ここに、日本軍は行き詰ってしまったのである。

12月、『蔚山城防衛戦』が行われる等、日本軍は不利な状況に追い込まれて行く。この一連の『蔚山城防衛戦』では、蜂須賀家政、鍋島直茂。黒田長政等の兵1万余が蔚山城の救援に赴いている。行長は、援軍に出ることなく順天城で明軍に備えた。一方、行長も援軍に参加した、とする説もあり、行長の動静ははっきりしない。

慶長3(1598)年正月、宇喜多秀家は、毛利秀元、藤堂高虎、脇坂安治、蜂須賀家政等と軍議を開き、蔚山城、梁山城、順天城を放棄する旨を決めようとするが、行長は、加藤嘉明、立花統虎等と共に反対する。

8月になると、明軍は兵力を増強し、10万の軍勢を以って、東路、中路、西路等の各軍で、蔚山城、泗川城、そして、行長が守る順天城(総兵力13700)を攻略する作戦を開始する。

朝鮮の日本軍が苦境に陥っている最中の8月18日、秀吉が死去する。

8月25日、釜山に集結するよう本土から命じられ、9月5日には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家の四大老は明と速やかに講和した上で日本軍を全軍撤退させることを布告する。

同月18日、明軍西路大将の劉テイは、順天城の行長を殺害すべく、行長に対して「講和について話し合いたい」との書状が届けられる。この講和に関する書状は、一度のみならず何度も届けられた。明側では、行長のことを「講和主義者」を見なしていたのである。

この誘いに、松浦鎮信等は「罠である」として注意したが、行長は、相手の誠意を信じて、を同月19日、劉テイと会見すべく出向くのである。この時、明は、別人に劉テイの格好をさせた上で、伏兵を配して行長を待ち構えていた。

そして、伏兵が襲撃して来たため行長は退却するが、松浦鎮信が盾となって明側の追撃を防いだ。この異変を察知した宇都宮国綱、大村喜前が駆け付け、行長は、順天城に戻る。劉テイは、陸と海から順天城を攻囲すると、その上で、自軍の兵に、日本兵の頚ひとつに銀60両を賞金として出すことを宣言する。

10月1日、島津部隊が明軍を泗川で撃破する。

順天城に対して明軍は、10月2日、陸上と海上から両面作戦で順天城に総攻撃を仕掛けて来る。この攻撃を、松浦鎮信、有馬晴信、そして、行長の家臣の小西主殿助等が応戦し撃退する。翌3日の夜、海上から攻撃して来る明の水軍を、小西部隊と宇都宮部隊が迎撃し実に43隻を焼き払う。

ここに劉テイは、先に島津部隊が明軍を圧倒したことを知り、力攻めをあきらめ、順天城の監視に1万の兵を残し引き揚げる。

この頃に、行長は、四大老からの9月5日付布告について、島津義弘と協議し、明との講和を図る。13日、行長は、明軍に対して講和交渉を申し入れる。明側も朝鮮のために明国人が命を落とすことに疑問と不満を覚えていたことから、交渉はスムースに進む。

10月15日、内地では、五大老(上杉景勝が加わる)により「撤兵命令」が出される。

17日、順天城に明側の使者が訪れ、20日には、講和停戦について大筋が決まる。その上で、25日には、明側から日本軍の安全な撤退を約束するために人質が提出されている。

30日、島津義弘、宗義智、立花統虎と撤退方法を協議し、11月8日、各部隊に対して「10日に海上から撤退を開始する」旨の撤退命令を下す。

しかし、11月9日になって、明の陳リンに「秀吉の死」が伝わり、明・朝鮮連合水軍500隻が海上封鎖を行い退路を封鎖する。このため、行長は、11日、明軍の陳リンに使者を出して抗議するが、陳リンは「劉テイの講和については一切知らない」と、突っぱね、順天城の小西部隊への攻撃をちらつかせる。

島津部隊、宗部隊、立花部隊は、それぞれの城を先に撤退し巨済島に到着。小西部隊との合流を待っていたところに、行長が危機に陥っている情報が飛び込む。

行長を救援するため島津義弘率いる日本水軍500隻が、明・朝鮮連合水軍に接近。これを迎え撃つために、明・朝鮮連合水軍500隻が動き、露梁で両水軍は激突する。11月17日夜に行われた『露梁津海戦』である。この海戦で島津部隊は奮戦し、日本軍の仇敵であったイ・スンシンを遂に戦死させる。

しかし、それは、もはや戦局を左右するようなものでは無かった。

19日、行長は、順天城から撤兵し、600隻の軍船、輸送船を率いて、海を大きく迂回して無事に巨済島に上陸する。20日には、孤立していた横山久高を救出し無事に合流させる。その上で、熊川を経由して本土への最終経由地である釜山に入る。

行長は、釜山において、朝鮮側と講和交渉を行うつもりであったが、釜山にあった日本の政庁は既に清正が焼き払っており、断念せざるを得ない状況であった。

26日になって、義弘等と共に釜山を出港。12月10日、博多に帰ったのである。長い長い戦いであったが、朝鮮との間に講和が行われていないことは行長にとって気懸かりであったに違いない。

なお、皮肉なことに、行長の必死の講和努力の甲斐も無く、朝鮮では、この戦役において、加藤清正と並んで、行長の頚に最高金額の懸賞金が懸けられていた。つまり、いくら行長が講和への努力を行おうとも、所詮は「侵略者」に過ぎなかったのである。

慶長4(1599)年正月10日、淀殿が秀頼と共に大坂城に入る。

同月21日、徳川家康が、六男の松平忠輝と伊達政宗の娘と、養女を蜂須賀家政の子の蜂須賀至鎮と、同じく養女を福島正則の子と福島正之と、それぞれ四大老や五奉行に無断で婚姻させようとしていたことが問題となる。

この時、諸大名は伏見の家康と大坂の前田利家の下にそれぞれ集まり一触即発の状況となる。

家康の下には福島正則、黒田孝高、黒田長政、池田輝政、藤堂高虎等が集まり、利家の下には毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、立花宗茂、そして、石田三成、小西行長等が集まった。

興味深いのは、武断派が二分していることである。これに危機感を持った清正、忠興、幸長が、家康と利家の間の調停に奔走し事態は収束した。

こうして、家康の野心が露呈する中で『文禄慶長の役』における褒賞が下されたが、抜群の軍功を挙げ、なおかつ講和の努力を行った行長には一切の加増が行われていない。

閏3月3日、前田利家が死去する。

これを契機に、加藤清正、福島正則、黒田長政等が、石田三成の殺害を図る。一介の武将に過ぎない連中が、秀吉が任命した豊臣政権の奉行を暗殺を計画すると言うのは「テロ」以外の何物でも無い。結果、三成は、家康のもとに逃げ込み、奉行職を解任され居城の近江佐和山城に蟄居処分となる。ここに、いよいよ家康の専横が開始される。

7月、家康が大坂城で政務を執り、諸大名は、8月までの間、領国への帰還が許される。行長も、この時に、肥後に帰ったものと思われる。

行長は、豊臣秀頼に忠誠を誓い、10月には、家康が秀頼をないがしろにして政治を掌握しようとするのなら、家康と徹底的に戦う覚悟があることを、ヴァリニャーニに告げる。そして、年内中に上坂する。

慶長5(1600)年6月2日、家康は、上杉景勝の征伐を布告し、18日には、家康自らも伏見城から出陣する。

ここに、三成が家康を討つために動き出す。この三成と、行長が事前に連絡を取り合っていたのかどうかは全く不明である。三成は、盟友の大谷吉継にも事を始めてから打ち明けているので、行長も、この時、初めて知らされた可能性が高いように思われる。

この時、行長は、肥後を留守にするに当たり、本拠の宇土城の留守居に弟の小西行景(隼人)を置いている。

7月19日、徳川軍が篭る伏見城への攻撃が開始され、行長も、宇喜多秀家、小早川秀秋等と共に、伏見城攻撃に参加する。ただし、行長が19日の攻撃当初最初から参加していたのか、それとも、宇喜多部隊、小早川部隊等と同じく、途中から加勢したのかは、はっきりしない。

8月1日、伏見城は落ちる。

同月11日、三成に共に、大垣城に入る。22日になると、東軍(徳川勢)が竹ヶ鼻城方面へ展開中との知らせを受けてた三成の指示で、三成と共に兵2000(小西部隊、及び、石田部隊から割いた兵)を率いて大垣城を出て沢渡村に偵察に出る。そこで、東軍に備えるために、合渡川に兵1000を派遣する。

23日、三成、島津義弘、そして、行長の三人で軍議を開く。その最中に、合渡川において、東軍と武力衝突し敗北したとの急報が届く。このため、三成は、敵中に突出した形で留まった状態の島津部隊を残したまま退却してしまう。この時の行長の言動は残されていないが、恐らく、島津部隊に何かあれば救援出来る距離を保ちつつ退却したものと思われる。

23日、秀家が大垣城に到着。

9月14日、東軍が意図的に流布した「大垣城を攻撃せず大坂方面へ進軍する」との情報に踊らされ、東軍の西上を封じるために、西軍は関ヶ原へ向かうことを決める。その夜、雨の降りしきる中、大垣城を出発する。小西部隊6000は、三番目に出発した。

真夜中、関ヶ原に到着し、小西部隊は、島津部隊の右隣に天満山を背後にして、前衛部隊と本隊の二段で布陣する。小西部隊の右隣には、宇喜多部隊1万7220が布陣している。

なお、この日、関ヶ原に布陣した西軍諸部隊の中で小西部隊は5番目の兵力であった。

戦いが開始されると、織田長益(有楽斎)部隊450、古田重勝部隊1020、金森長近部隊1140、佐久間安政部隊等が小西部隊を襲った。さらに、寺沢広高部隊2400と戸川達安部隊等が小西部隊に殺到して来る。ここに、小西部隊の前衛が300メートルばかり押し込まれ本隊も混乱する。

しかし、寺沢広高は、かつて耶蘇教徒であったが、耶蘇教への風当たりが強くなり出すと、あっさりと信仰を棄てた武将であり、行長は許すことが出来なかった。小西部隊は、一気に前進し、寺沢部隊を逆に蹴散らし押し返している。

小西部隊の右隣では、宇喜多部隊が福島部隊と入り乱れ激戦を繰り広げている状況であった。ここで、三成が、南宮山の小早川秀秋部隊1万5675に、参戦を促す狼煙を上げる。この狼煙を確認した行長も、秀秋に対して、同じく狼煙を上げている。ところが、全く動かない秀秋に対し、三成が使者を走らせると、行長もまた秀秋に使者を送っている。

それから間もなく、小早川部隊は動き出す。

小早川部隊は、眼前に位置する友軍の大谷吉継部隊1500に目掛けて襲い掛かったのである。大谷部隊は、この裏切り者集団の小早川部隊を相手に善戦していたが、脇坂安治部隊990、朽木元綱部隊600、小川祐忠部隊2100、赤座直保部隊600が、突如として一斉に東軍に寝返ったことで、遂に大谷部隊は壊滅する。

小早川部隊は、大谷部隊を葬った勢いのまま、まっすぐに直進。本来であれば、宇喜多部隊と衝突するはずであるが、宇喜多部隊は、福島部隊を追い込み、初期の布陣位置から相当前に進んでいたために、宇喜多部隊の背後を通り抜ける形で、小西部隊の右腹に突っ込んで来たのである。

つまり、小西部隊は、横っ腹に食いつかれ、もんどり打って崩れ落ちる龍の如き状態に陥ったのである。もはや行長も指揮が執れず、あっけなく小西部隊は瓦解する。

それこそは、大和朝廷成立から明治維新に至るまでの日本史上において、「国軍」としての外征で最もユーラシア大陸の中央部に近付いた日本軍小西部隊の最期であった。

目の前で信じられない光景が展開する中、行長は再起を期して逃亡する。

行長は伊吹山に潜んでいたが覚悟を決め、19日になって、東糟賀村の村長(むらおさ)を見つけると、行長の方から声を掛け「自分を家康のところへ連れて行き褒美を貰え」と勧める。そして、「自害するのは簡単だが、自分は切支丹だから自害は出来ない」とも告げている。

このため、村長は、竹中重門の家臣と共に行長を草津の村越直吉のところまで連れて行った。その道中、行長は縄で縛られることは無かったが、決して逃げようともしていない。にも関わらず、村越直吉は、行長をグルグル巻きにして犯罪人として扱っている。

こうして、26日に、大坂に送られ、29日には、「戦争犯罪人」として大坂と堺の市中を引き回された。大坂と堺は、どちらも行長と深い関わりを持つ土地であり、行長の多くの友人知人が、その姿に涙したものと思われる。また、行長も、二つの町の姿を目に焼き付けたことであろう。

こうして、引き回された上で、宇土城を守る小西行景に対して、開城するように命じる旨の書状を書かされている。

10月1日、京の市中を引き回された後、六条河原で斬首される。

行長の頚は、三成等の頚を共に三条大橋に晒された。なお、行長と信仰心で深く結ばれていた高山重友は、前田利長の軍勢に加わり、東軍(徳川方)として参加している。

行長が留守にした肥後では、9月21日(20日とも)、西軍(石田方)の大友義統の領地に向かっていた加藤清正部隊8500が転進し全力で小西領への侵略を開始する。しかし、支城の岩尾城等を落としただけで、小西側の堅い守りの前に全く歯が立たなかった。とりわけ、宇土城は本丸に小西行景、二ノ丸に内藤如安が、それぞれ入り、加藤部隊を相手に熾烈な抵抗を続けた。

かつて、朝鮮で先鋒を競った加藤部隊と小西部隊(一部であるが)の衝突である。僅かな数の城兵とは言え、歴戦の小西部隊は強く、これには、戦上手の清正ですら三ノ丸を落とすのが精一杯で手を焼く。

築城の名手と言えば清正の名が挙げられるが、『文禄慶長の役』において、朝鮮に日本式の城を築き、明軍と朝鮮軍を驚愕させ寄せ付けなかった行長もまた築城の名手であった。その行長の本拠たる宇土城を相手に清正も苦戦したのである。

しかし、10月7日になって、行長からの書状が宇土城に届く。

ここに奮戦していた小西行景は開城を決意。行景は自らの命と引き換えに城兵、及び、領民の命を助けてくれるように清正と交渉し、23日に開城する。行景は、隈本城下に出向き、従容として死を受け入れる。

また、別説には、宇土城から八代城への援軍要請の使者を加藤部隊が捕縛し、八代城からの援軍を妨害し、孤立させ、10月20日に、上方からの使者が宇土城に到着するに至り、行景が観念し宇土城を開城した、とする。いずれにしても、清正をしても、行長が築城した宇土城は落とせなかったのである。

戦後、清正は、行長の遺臣たちの多くを自らの家臣団に加えた、と美談のように伝えられる。しかし、行長の遺臣たちは、清正から耶蘇教を棄てるように脅迫され拒めば俸禄を没収された。清正は領民に対しても手加減はしていない。八代の領民には法華経を持たせ日蓮宗への改宗を迫り拒絶する者は情け容赦無く殺戮した。

また、行長の遺領の多くも清正のものとなったが、天草だけは固辞している。この天草に入ったのが、『関ヶ原合戦』で小西部隊に突撃した寺沢広高であった。

こうして、小西行長の人生は幕を下ろし、築き上げたものも潰え去ったかに見えた。

しかし、行長が伝えた「信仰」は、人々の中に生き続けた。行長が心血を注いだ領国の経営の中でも、とりわけ元々耶蘇教の下地のあった天草では、行長が耶蘇教を保護し広めたことで、より一層、人々の間に信仰が深く根付いた。

江戸時代になると、朝鮮の政治理念である朱子学を導入し統治の礎に据えた徳川幕府が耶蘇教の大弾圧を行う。それに毅然と反旗を翻した『島原の乱』の首謀者が、天草の住民の天草四郎時貞であることは周知の事実である。そして、その『島原の乱』が鎮圧されても、なお、人々の中には「信仰」は明治維新まで脈々と生き続けたのである。

小西行長が日本史に与えた影響は決して小さくは無い。

《関係略図》

        有馬晴純━━直純
               │
               └─────┐
                     │
 日比屋了慶━┳男子━━━━弥左衛門   │
       ┃       │     │
       ┃       └─────┼┐
       ┃             ││
       ┃       ┌─────┘│
       ┗アガタ    │      │
         │     │      │
         ┝━━━━マルタ     │
         │            │
 小西隆佐    │            │
  │      │            │
  ┝━━━━┳如清            │
  │    ┣行長            │
  │    ┃ │            │
  │    ┃ ┝━━━┳兵庫頭     │
  │    ┃ │   ┣女子      │
  │    ┃ │   ┃ │      │
  │    ┃ │   ┃ └──────┘
  │    ┃ │   ┃
  │    ┃ │   ┗マリア
  │    ┃ │     │
  │    ┃ └────┐│
  │    ┃      ││
  │    ┣行景(隼人)││
  │    ┣与七郎   ││
  │    ┣主殿助   ││
  │    ┗ルシア   ││
  │           ││
  マダレイナ(マグダレーナ)││
              ││
         ┌────┘│
         │     │
        ジュスタ   │
               │
        宗将盛━━━義智

 ※ 系図については諸説あり

小西行長は、様々な顔を持つ人物である。

「豊臣軍団の有力な武将」であり、「豊臣政権の有能な奉行」であり、「東アジアにおける外交官」であり、「海外との貿易を自在にこなす商人」であり、そして、何よりも「熱心なキリシタン(耶蘇教徒)」であった。

小西行長についての評価としては、『関ヶ原合戦』で敗北したことや、江戸時代に幕府が禁止したキリシタン(耶蘇教徒)であったこともあり、小心者で計算高い軟弱な悪党のように言われることが多い。

しかし、『文禄の役』で、行長が電光石火の快進撃で平壌を陥落させた際、秀吉は、行長について、「自分の家臣の中で最も忠誠心に溢れ最も武勇に優れた武士であり、まるで先に亡くなった我が子(鶴松)が姿を変え蘇って来たようである」と評している。

行長は、豊臣家臣団の中でも、加藤清正や福島正則等に一歩も劣ることの無い傑出した武将だったのである。

また、『文禄慶長の役』で勇猛果敢に戦い朝鮮はおろか明へも迫る強さを発揮した小西部隊が、『関ヶ原合戦』では、あっさりと敗北したことに「弱兵」を指摘する声もある。

しかし、行長は、小西部隊の中枢とも言える内藤如安等の精鋭を関ヶ原には帯同していないことが留意されるべきである。即ち、領民を守るために、あえて精鋭を国元に残したのである。

そして、もう一点重要なことは、『文禄の役』の際、行長が指揮する一番隊は、兵の死亡率が6割あったと言う事実である。一番隊の主力であった小西部隊は、恐らく、その数字以上の死傷率であったに違いない。それから、これまた激戦であった『慶長の役』で多くの兵を喪失し、兵員の大幅な補充、及び、補充に伴う部隊の再編成の途上にあったのが、『関ヶ原合戦』時の小西部隊の実情である。

それでも、バラバラに攻撃を加えて来る東軍(徳川方)の複数の部隊を相手にして戦った小西部隊の実力と行長の指揮力、及び、統率力は、もっと正しく評価されるべきであろう。小西部隊が敗北したのは、小早川秀秋の大軍から不意打ちを食らったためである。

そう考えれば、決して、小西部隊が「弱兵」等では無かったことが判る。

そして、言えることは、小西行長の実像は、当時の同時代を生きた日本人の中でも、最もスケールの大きな視野で物事を捉えて考えることの出来る人物であった、と言うことである。


その小西行長の最期は、京の六条河原で斬首された。

六条河原
(小西行長 最期の地「六条河原」)

最期の刹那、行長はイエスとマリアの像を推し載いていた、と伝えられる。その姿は、武将でも無く、商人でも無く、ただただ、純粋なまでに信仰に生き、信仰に死ぬ殉教者そのものであった。

行長は、「神の子」として神の下へ召されたのである。

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【年表】

父:小西隆佐、母:マダレイナ。

<天正6(1578)年>
 3月、羽柴秀吉、三木城攻略戦開始。

<天正7(1579)年>
 10月、宇喜多直家、織田氏に服従。

<天正9(1581)年>
 播磨国室津を与えられる。

<天正10(1582)年>
 小豆島の管理を一任される。
 12月、秀吉より叱責を受ける。

<天正12(1584)年>
 6月、『四国平定戦』。

<天正13(1585)年>
 3月、紀伊国雑賀衆殲滅戦。
 3月、『小牧長久手合戦』。
 7月、従五位下摂津守。20000石。

<天正15(1587)年>
 2月、『九州征伐』。
 5月、宗氏、秀吉に服属。
 6月7日、秀吉、宗義調に朝鮮のソン・ジョを参内させるように命じる。

<天正16(1588)年>
 閏5月16日、肥後国南半分14万6300石。

<天正18(1590)年>
 8月、秀吉から大陸出兵の準備を命じられる。

<天正19(1591)年>
 名護屋城作事奉行に任じられる。

<文禄元(1592)年>
 正月5日、秀吉から良馬を下賜される。
 正月19日、義智と共に朝鮮の情勢を分析。
 3月1日、大坂から出発。
 3月12日、対馬に到着。
 3月26日、秀吉、京都から出発。
 4月3日、名護屋港から出陣。
 4月12日、『文禄の役』。対馬を出陣。
 4月13日、釜山攻略。
 4月14日、東莱城攻略。
 4月16日、梁山城攻略。
 4月17日、鵲院関にて朝鮮軍を撃破。加藤清正、釜山に上陸。
 4月23日、長川に布陣。
 4月24日、尚州攻略。
 4月27日、忠州攻略。
 4月28日、清正、忠州で合流。
 4月29日、清正と両道から進軍を開始。
 5月2日、漢城攻略。
 5月27日、臨津江を渡河し開城に入る。
 5月19日、明、漢城落城を知る。
 6月3日、平安道の統治を任される。
 6月9日、平壌対岸に布陣。
 6月15日、大同江を渡河。
 6月16日、平壌攻略。
 7月13日、中和にて朝鮮軍を撃破。
 7月16日、祖承訓率いる明軍が平壌奪回を挑むが、これを撃退。
 7月29日、平壌で朝鮮軍を撃退。
 8月29日、平壌において沈惟敬と停戦交渉を開始。50日の休戦となる。
 9月3日、停戦条件を提示し沈惟敬が明に持ち帰る。
 12月9日、開城にて在鮮の武将が会議。
 12月15日、李如松率いる明軍、遼東を出陣。

<文禄2(1593)年>
 正月5日、明・朝鮮連合軍、平壌を包囲。
 正月7日、明・朝鮮連合軍、平壌外郭を占領。夜中に平壌から撤退。
 正月8日、鳳山に退却。
 正月9日、龍泉山に退却。
 正月10日、平山に退却。
 正月11日、白川に退却。黒田長政と軍議。
 正月13日、開城に退却。小早川隆景と軍議。
 正月16日、漢城に到着。
 正月18日、明軍、開城占領。
 正月26日、「碧蹄館合戦」。日本軍、明軍を撃破。
 2月16日、「平壌での敗北」の報告が秀吉のもとに届く。
 2月27日、宇喜多秀家、隆景、大友吉統、長政、三奉行と軍議。
 3月3日、十六将と共に戦地の実情を上申する報告書に連署する。
 3月10日、秀吉、釜山まで撤退し沿岸に築城するように命令する。
 3月22日、清正と共に開城方面を偵察。
 4月17日、秀家、隆景、三奉行と連名で退却を報告する。
 4月18日、漢城から撤退。
 5月8日、明使と共に釜山に到着。
 5月15日、明使と共に名護屋城へ帰還。
 5月20日、小西部隊、晋州城攻略戦に参加。
 6月2日、釜山において朝鮮の二王子を返還する。
 6月21日、日本軍、晋州城を攻囲。
 6月28日、内藤如安、北京へ向け出発。
 6月29日、晋州城陥落。
 7月、熊川城の築城開始。
 11月15日、沈惟敬に書状を送り講和交渉の遅れを責める。
 12月、熊川において沈惟敬と交渉。

<文禄3(1594)年>
 12月6日、内藤如安、北京到着。
 12月13日、如安、和睦交渉を開始。

<文禄4(1595)年>
 正月、如安、北京を出発。

<慶長元(1596)年>
 正月15日、沈惟敬を伴い帰国。
 4月、沈惟敬を伴い釜山に到着。
 6月14日、帰国。
 閏7月13日、『慶長大地震』。
 9月1日、秀吉、明使と大坂城で会見。
 9月2日、明との和平交渉決裂、『慶長の役』。

<慶長2(1597)年>
 正月13日、出陣。清正、西生浦に上陸。
 正月、朝鮮軍、イ・スンシンを罷免する。
 8月12日、南原城に攻撃開始。
 8月14日、南原城に降伏勧告する。
 8月15日、南原城攻略。
 9月、順天城に入る。

<慶長3(1598)年>
 正月、軍議で撤退が決まるが、反対する。
 3月13日、秀吉が裁定し梁山城のみ撤退とする。
 8月18日、豊臣秀吉、死去。
 8月25日、本土から釜山に集結するように命じられる。
 9月19日、明軍の劉挺と会見しようとしたが引き返す。
 10月2日、順天城に迫る明軍を撃退。
 10月3日、明の水軍43隻を撃破。
 10月15日、五大老により「撤兵命令」が出される。
 10月30日、島津義弘等と撤退方法を協議。
 11月8日、撤退命令を下す。
 11月10日、朝鮮水軍が海上封鎖する。
 11月11日、明軍の陳リンに使者を出し抗議する。
 11月18日、『露梁津海戦』。島津義弘、イ・スンシンを戦死させる。
 11月19日、順天城から撤兵。
 11月20日、島津部隊を救出。
 11月25日、義弘等と共に釜山を出港。

<慶長4(1599)年>
 正月10日、豊臣秀頼、大坂城に入る。
 2月29日、前田利家、伏見城に徳川家康を訪問。
 3月11日、徳川家康、大坂城に前田利家を訪問。
 3月下旬、加藤清正等、行長の報告について反発。
 閏3月3日、利家、死去。
 閏3月10日、石田三成、失脚。
 10月10日、徳川家康と戦う覚悟を明らかにする。

<慶長5(1600)年>
 7月7日、家康、『会津征伐』を7月21日に決める。
 7月19日、「伏見城攻略戦」。
 8月1日、伏見城落城。
 8月11日、大垣城周辺に布陣する。
 8月22日、石田部隊と共に沢渡村に布陣。
 8月23日、三成、島津義弘と軍議。
 9月14日、小早川秀秋へ連名で誓書を送る。偵察を出し、家康の到着を確認する。
 9月15日、『関ヶ原合戦』。
 9月19日、東軍に捕縛される。
 9月26日、大坂に送られる。
 9月29日、大坂・堺を引き回される。
 10月1日、京内を引き回された後、六条河原で斬首。

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