不破光治

ふわみつはる (?〜1583)

略伝

戦国〜安土桃山時代。

斎藤氏家臣。
織田氏家臣。

河内守。

太郎左衛門尉。
嫡子は勝光(直光とも)。

もとは美濃国斎藤氏の家臣であり、
美濃国安八郡西保城城主であったと伝えられる。
永禄10(1567)年に氏家ト全らいわゆる「美濃三人衆」が、
織田信長に内応した際に光治も織田氏に服属したと見られている。

織田氏の家臣となった直後は、
当時、越前国に亡命中であった足利義昭を美濃国へ出迎えるという
重要な仕事を与えられており光治が武将として教養もあったことが伺える。
さらに信長の上洛に際しては義昭を立政寺まで出迎えに行く。

以後、信長の「天下布武」の戦略下、
ひたすら合戦に明け暮れる日々を過ごすことになる。
しかし扱いは信長の馬廻というものであった。

光治に転機が訪れたのは、
天正2(1574)年、前年に越前朝倉氏を滅ぼした信長であったが、
この地に大きな勢力を持つ一向宗徒たちが一斉に蜂起した。
これを鎮圧するために光治も羽柴秀吉らとともに出陣し、
近江・若狭両国へ越前国からの一揆の伝播を防ぐ。
この時、部隊指揮官として抜擢を受けたのである。
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天正3(1575)年、『越前一向一揆殲滅戦』後、
越前国八郡の支配を任された柴田勝家の下に置かれ、
今立・南条二郡を前田利家・佐々成政とともに任されることになる。
こうして光治は「府中三人衆」と呼ばれるまでになる。

しかしこの後、目立った活躍はなく、
光治は越前を子・勝光に任せ自分は信長の傍にいたようである。

天正10(1582)年、『本能寺の変』が勃発し、
信長後を巡り秀吉と勝家の対立が顕著になると、
それまでのいきさつから勝家に組することを決める。
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天正11(1583)年の『賤ヶ岳合戦』では、
子・勝光が奮戦し中川清秀を討ち取る活躍を見せるが、
柴田軍は羽柴軍の前に敗北し北陸を制圧した秀吉に臣従する。

これ以降の光治の足跡は正史上に見えない。

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年表
<永禄11(1568)年>
 7月13日、足利義昭の出迎えを務める。
 7月25日、義昭を無事に岐阜まで連れて来る。
 9月14日、立政寺の義昭を迎える。

<永禄12(1569)年>
 8月20日、伊勢国攻略戦。
 10月3日、大河内城攻略。

<元亀元(1570)年>
 4月、越前朝倉氏征伐戦。

<元亀2(1571)年>
 5月12日、伊勢長島一向一揆平定戦。
 9月12日、比叡山焼き討ち。

<天正元(1573)年>
 7月16日、山城填島攻略戦。
 7月18日、足利義昭を追放。
 8月10日、織田軍、朝倉軍と対峙。
 8月17日、織田軍、越前侵攻。
 8月20日、朝倉義景、自害。
 8月28日、織田軍、浅井氏本拠・小谷城を陥落させる。
 9月1日、浅井長政、自害。

<天正2(1574)年>
 正月19日、越前で反・信長の一向一揆が蜂起。
 2月、越前一向一揆の鎮圧に向かう。

<天正3(1575)年>
 8月14日、『越前一向一揆殲滅戦』、敦賀布陣。
 8月15日、府中占領。
 8月16日、織田軍による一揆衆殺戮。

<天正10(1582)年>
 6月2日、『本能寺の変』。

<天正11(1583)年>
 4月、『賤ヶ岳合戦』。

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