氏家ト全

うじいえぼくぜん (?〜1571)

略伝

戦国〜安土桃山時代。

土岐氏家臣。
斎藤氏家臣。
織田氏家臣。

常陸介。

名は「直元」「友国」とも伝わるが
出家し「貫心斎ト全」と号したことから「ト全」と呼ばれる。

当初は美濃国土岐頼芸に仕えていたが、
斎藤利政(のちの斎藤道三)のクーデター劇により土岐氏は追放され、
以後、ト全は斎藤氏に仕えることになる。

この頃、美濃国ではト全と、
安藤守就・稲葉良道(一鉄)らを称して、
「美濃三人衆」と呼ばれるほどの重要な存在であり、
三人の中でもト全が最も有力であった。

やがて道三は弘治2(1556)年4月20日に嫡子・義龍に討たれる。
その義龍のト全に対する信任も厚かったようで、
織田信長が尾張国統一を果たした永禄2(1559)年には、
それまでの楽田城から大垣牛屋城へ移り重要拠点を任されている。

永禄4(1561)年5月11日、義龍が35歳で亡くなり、
弱冠14歳の龍興が斎藤氏の家督を相続するに及んで、
これを好機と捉えた織田軍が美濃国に襲い掛かって来るようになる。
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この時、織田軍は美濃国西部方面より攻撃を仕掛けており、
恐らくは大垣にいたト全も織田軍の迎撃に出陣していたものと思われる。
この時の斎藤軍の反撃は信長の予想以上のもので、
結局、信長は美濃国の攻略を東部方面からに切り替えざるを得なかった。
また信長は斎藤氏の主力家臣である「美濃三人衆」に調略の手を伸ばす。

かくして永禄10(1567)年8月、
ト全は安藤守就・稲葉良道らとともに信長の軍門に降った。
これをきっかけに信長は稲葉山城を手に入れ美濃国を制覇することになる。

これ以降は、信長の上洛途上の六角氏征伐戦や、
伊勢国大河内城の攻略戦、『姉川合戦』などに重要な戦力として参戦している。

元亀2(1571)年5月12日、
信長は伊勢国一向一揆を殲滅すべく出陣。
これは前年に信長の弟・信興らを殺害されたことへの報復の意味合いもあった。
織田軍総勢50000。信長が20000、柴田勝家20000、佐久間信盛10000であった。
この合戦でト全は柴田勝家部隊に属していた。

合戦は一揆軍が地形を利用し応戦。
織田軍は長期戦を強いられかねない状況となってしまい、
5月16日になって、信長は長期戦を避けるために撤退を決める。
この退却戦の殿軍は柴田勝家部隊が務めたが一揆軍の追撃は凄まじく、
柴田部隊は壊滅、勝家自身も負傷してしまう凄惨さであった。
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勝家の危機を見て取ったト全は、自らの家臣を率いて勝家と交代。
怒涛の如く押し寄せる一揆軍をよく防いでいたが、落馬し、
遂には一揆軍により討ち取られてしまうことになる。

自分を必要としてくれる者のためなら、
命さえも惜しむことはしない「剛直の士」と言えようか。

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年表
父:氏家行隆、母:長井利隆の娘。

<天文15(1546)年>
 嫡子・行広(直通)、誕生。

<永禄2(1559)年>
 大垣牛屋城移封。

<永禄10(1567)年>
 8月、織田信長に内通し臣従。

<永禄11(1568)年>
 9月、六角氏攻略戦。
 9月26日、上洛。

<永禄12(1569)年>
 8月、伊勢国大河内城攻略戦。

<元亀元(1570)年>
 6月28日、『姉川合戦』。

<元亀2(1571)年>
 5月12日、『伊勢長島一向一揆征伐戦』。
 5月16日、戦死。

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