斎藤利三

さいとうとしみつ (?〜1582)

略伝

戦国〜安土桃山時代。

明智光秀家臣。

誕生は天文3(1534)年とも天文7(1538)年とも伝えられる。
出自は美濃斎藤氏と言われる。
美濃斎藤氏は斎藤道三に乗っ取られる。

利三は道三の子・義龍に仕えていたが、
のち美濃三人衆の一人である稲葉良通(一鉄)に仕える。
この良道が織田信長に寝返ったことで、利三も織田家臣となる。

妻は良通の娘とも、良通の兄・通勝の娘とも言われるが、
この稲葉家では、かなり冷遇され不当な扱いを受けたようで、
利三は良通のもとを三度離れ三度呼び戻されたと伝えられる。

やがて利三は明智光秀に仕えることとなる。
禄高は1万石で明智家の家老格として迎えられた、という。

この光秀への仕官については以下のエピソードが伝えられる。

この利三の行動に良通は猛烈に怒り信長に訴え出て、
信長も光秀に利三を良通に返すよう命じるが光秀はこれに応じなかった。
遂には信長は家臣が居並ぶ満座の席で光秀の髻を掴み突き飛ばし、
さらに光秀の額を敷居にこすりつけ挙句には手討ちにしようとさえしたが、
それでも光秀は決して利三を手放そうとはしなかった、という。
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これは利三が優秀な武将であったことを示すとともに、
光秀がそこまでしてくれたことに利三も、また光秀のために、
身命を賭して忠誠を尽くすことを誓ったのではないだろうか。

天正10(1582)年6月2日。
光秀による信長への叛乱『本能寺の変』にも付き従った。

この時、光秀から利三には、5月晦日から6月1日の間に、
「謀反」の本心を明かされていたとされるが利三には迷いはなかったであろう。
ただ主君・光秀とともに進むのみであった。

6月13日奇跡の「中国大返し」を果たした羽柴秀吉との『山崎合戦』では、
明智軍先鋒として円明寺川東岸に布陣し池田恒興・高山重友らと激戦するも、
奮戦空しく敗れてしまい近江国堅田へ再起を期して逃亡するが捕縛される。
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6月17日六条河原で処刑され、
その首は本能寺の焼け跡に主君光秀の首とともに並んで晒され、
その屍体は粟田口で磔に処された。

利三の娘・お福は、その後、徳川幕府三代将軍家光の乳母となる。

有名な人物でありながら驚くほど経歴が不詳である、
けれど斎藤利三が日本史の中に遺す輝きは決して小さくない。

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年表
父:斎藤伊豆守(利賢とも)。

<天文23(1554)年>
 斎藤義龍、斎藤氏家督相続。

<弘治2(1556)年>
 4月20日、斎藤義龍、斎藤道三を討伐。

<永禄4(1561)年>
 5月11日、斎藤義龍、死去。

<永禄10(1567)年>
 8月1日、稲葉良通、織田信長に臣従する。

<天正8(1580)年>
 明智光秀の家臣となる。

<天正10(1582)年>
 6月2日、『本能寺の変』。
 6月13日、『山崎合戦』。
 6月17日、処刑。

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