豊臣秀次

とよとみひでつぐ (1568〜1595)

略伝

安土桃山時代。

正二位。
関白。

三好康長の養子時代は「三好信吉」。

羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の天下取りとともに秀次の略歴も動き出す。

天正11(1583)年には、当時、秀吉と敵対していた滝川一益を、
討伐するために北伊勢に侵略し峰城を攻略している。
さらに『賤ヶ岳合戦』にも参加している。

天正12(1584)年の『小牧・長久手合戦』では、
秀吉軍と徳川家康軍が対峙し戦線が膠着状態になったのを見て、
別働部隊の総大将として三河へ侵攻するも徳川軍の前に大敗。
秀吉から譴責を受けることとなる。

この頃に「羽柴秀次」と名乗り出す。

天正13(1585)年の『四国征伐』では兵30000を率いて出陣。
途中、羽柴秀長(総大将)軍や宇喜多秀家軍と連合し四国を平定の貢献。
その功績により近江国43万石を与えられ八幡山城を築城。
さらに城下町を建設し楽市を施政し、その繁栄を図る。

この時、秀次に付けられたのは田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊らであった。

秀吉の『九州征伐』では大坂城で留守を守った。
天正18(1590)年の『小田原征伐』では、
兵30000(15000とも)を率いて強固な要塞・山中城を陥落させた。
この活躍により尾張・北伊勢五郡等合わせて100万石を得て、清洲城を居城とする。

翌、天正19(1591)年には秀吉の子・鶴松が夭逝したことにより、
秀吉の養子となり同年12月には「関白」職に就き「豊臣」姓を名乗る。
住まいも聚楽第に移ることになる。
名実ともに秀吉の後継者となったのである。

『文禄の役』では京都に在り留守を預かる。
この時には次飛脚制度等の通信網や前線への兵糧米の充足に苦心している。

だが運命は皮肉なことに文禄2(1593)年8月、秀吉に実子・豊臣秀頼が誕生する。

時を同じくして秀次は鉄砲等で何の罪もない庶民を殺害したり、
正親町天皇の諒闇中に殺生したり、
比叡山で狩猟に興じる等問題行動が目立つようになる。

文禄4(1593)年2月蒲生氏郷がこの世を去ると、
氏郷の遺領を遺児・鶴千代が相続することを秀吉が妨害するが、
この時、秀次は「関白」としてこの相続を許可。

さらには秀次が各大名に対して、
自分に忠誠を尽くすように命じた「連判状」の存在が露見。
ここに、秀次と秀吉、両者の対立は決定的となる。
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7月3日、「連判状」を謀反の証拠として、
秀吉の命を受けた石田三成を始めとする奉行衆に詰問され、
7月8日、遂には「関白」「左大臣」職を解任され高野山へ流される。
そして7月15日、福島正則等により「切腹」の沙汰が伝えられ、自刃。
聚楽第は取り壊され、秀次の痕跡は徹底的に消されたのである。
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8月2日、京の三条河原で、正室、側室、子ら30人以上が処刑される。
この刑場には先に自刃した秀次の首が晒されていたという。

また秀次に近かった諸大名たち
(伊達政宗、細川忠興、最上義光、浅野幸長ら)も厳しい詮議を受けた。
最上義光は娘を秀次の側室に入れていたがために伏見に幽閉処分とされた。

この事件は、この後の豊臣政権に大きな影を落とす結果となった。

秀吉の後継者として「関白」に就任してしまったがために、
天下人である秀吉との間で、権力の構図が二重構造となってしまった。
そして秀吉に秀頼が生まれたことで、
「関白」豊臣秀次には悲劇的な末路があるのみであった。

秀次は芸能を好む風流人であったらしい。

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年表
父:三好吉房、母:日秀(とも)。

<永禄11(1568)年>
 誕生。

<天正10(1582)年>
 10月、『根来征伐』。

<天正11(1583)年>
 2月、滝川一益『北伊勢攻略戦』。
 4月21日、『賤ヶ岳合戦』。
       河内北山2万石。

<天正12(1584)年>
 3月、『小牧・長久手合戦』。
 4月6日、約28000の羽柴軍別働部隊を指揮し三河侵攻。
 4月9日、徳川軍に大敗。

<天正13(1585)年>
 『雑賀征伐』。
 6月、『四国征伐』。
 閏8月、近江国43万石。

<天正14(1586)年>
 従四位下参議。

<天正15(1587)年>
 11月、従三位権中納言。

<天正17(1589)年>
 従二位大納言。
 5月、鶴松、誕生。

<天正18(1590)年>
 尾張・北伊勢五郡100万石。
 3月、『小田原征伐』。
 3月29日、山中城攻略。

<天正19(1591)年>
 6月、『奥州一揆平定戦』。
 8月、鶴松、死去。
 11月、秀吉の養子となる。
 12月4日、正二位。内大臣、就任。
 12月28日、関白職、就任。

<文禄元(1592)年>
 正月26日、後陽成天皇、聚楽第行幸。
 正月29日、左大臣を兼任。
 4月、『文禄の役』。

<文禄2(1593)年>
 8月3日、秀頼、誕生。

<文禄4(1595)年>
 7月3日、謀反の嫌疑がかかる。
 7月8日、官位官職、解任。高野山へ追放。
 7月15日、切腹。
 8月2日、妻妾子ら処刑。

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