陶晴賢

すえはるかた (1521〜1555)

略伝

戦国時代。

大内義隆家臣。

幼名「五郎」。
最初は「隆房」を名乗る。恐らく義隆から偏諱を受けたものであろう。

中国地方の名門大内氏の家臣の中でも「武断派」と言われた。
天文9(1540)年、尼子晴久が安芸国を侵略した際にも、
同盟関係にある毛利元就を救援するため兵10000を率い布陣。
元就と連携し、尼子軍を撃退してしている。

だが天文11(1542)年、隆房(晴賢)の立案で、
尼子氏討伐に大内軍総数50000を動員し出陣するものの、
長期戦となり、あげく内部分裂などを起こし尼子軍の前に惨敗。

この敗戦を義隆は、隆房(晴賢)の無謀な作戦が原因とし、
隆房(晴賢)は義隆の文弱が原因として、両者の間にすれ違いが起こり始める。

以後、義隆は文治派の相良武任を重用し、
武断派の、隆房(晴賢)を遠ざけてしまう。

ついに天文19(1550)年には隆房(晴賢)が、
「謀反を企図している」という噂が城下で満たされることとなる。
隆房(晴賢)は必死の弁解により許される。
この年の11月以降、隆房(晴賢)は山口を離れ、
周防都濃郡富田へ帰り政治に参加することを止める。
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天文20(1551)年、この年の前後から、
豊後国の大友氏と密かに謀議を重ねていたようである。
毛利氏を始め諸氏にも充分に根回しをした上で、8月、ついに決起する。

ここに名門・大内氏は滅び去り、
大友氏より晴英を後継当主に迎え、自身も偏諱を受け「晴賢」と改名。
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しかし機が熟すのを待っていた元就の策略にはまり、
『厳島合戦』で敗北、自刃して果てる。

かつて「美少年」として義隆の寵愛を一身に受けた晴賢も、
戦乱の渦の中で短い生涯を終えることになった。

年表
父:陶興房、母:陶弘詮の娘。

<大永元(1521)年>
 誕生。

<天文6(1537)年>
 従五位下、中務権大輔。

<天文8(1539)年>
 4月18日、家督相続。

<天文9(1540)年>
 9月、尼子軍、安芸国侵略、毛利元就の居城・安芸国吉田郡山城を包囲。
 12月3日、吉田郡山城救援に布陣。 『吉田郡山合戦』。

<天文10(1541)年>
 1月、尼子軍、撃退。

<天文11(1542)年>
 1月、出雲国尼子氏征伐出陣。

<天文12(1543)年>
 5月7日、出雲国遠征大敗。
 5月25日、山口、帰還。

<天文14(1545)年>
 尾張守。

<天文17(1548)年>
 従五位上。

<天文19(1550)年>
 9月15日、「隆房(晴賢)が大内義隆を襲撃する」との噂が広がる。
 11月、義隆への出仕を停止。

<天文20(1551)年>
 8月27日、義隆に対し謀反(29日説あり)。
 9月1日、義隆、自刃。

<天文21(1552)年>
 大友晴英を大内氏当主に迎える(義長と改名)。
 名前を「隆房」から「晴賢」と改名。

 出家。

<天文22(1553)年>
 吉見正頼、義長・晴賢に対し謀反。

<天文23(1554)年>
 3月、吉見正頼を津和野城に包囲。
     毛利元就、義長・晴賢に対し謀反。
 5月11日、元就軍、晴賢軍拠点を攻撃。
 8月、吉見正頼と和睦し先鋒部隊を元就討伐へ。
 9月、『折敷畑合戦』敗北撤退。

<天文24(1555)年>
 9月21日、安芸国厳島へ兵20000を率いて渡る。
 9月30日、毛利軍3000、厳島へ上陸。
 10月1日、毛利軍の奇襲を受け自刃。法名・呂翁全薑大居士。

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