松平広忠

まつだいらひろただ (1526〜1549)

略伝

戦国時代。

松平氏当主。

松平清康の子。
母は青木貞景の娘。

父・清康を、天文4(1535)年の『守山崩れ』で失い、
同じ松平一族の松平信定(桜井松平氏)により追放され、
以後、伊勢国や遠江国を転々とすることとなる。

この時、幼い広忠を守ったのは、阿部忠吉である。

やがて尾張国の織田信秀と敵対する今川義元の支援を受け、
再び三河国岡崎に復帰を果たす。
だがこれは今川氏に服従する松平氏を意味していた。

この選択は当時の松平氏の置かれた状況下では、
やむを得ないものであった。
こののち今川軍の先鋒として松平氏は織田軍と対峙した。

この当時の松平氏は広忠に代表される「今川派」と、
三木松平氏の信孝らの「織田派」に分かれて内紛状態に近いものであった。
今川氏・織田氏、両強国に挟まれた松平氏の苦しみがそこにある。

天文10(1541)年には、水野忠政の娘・於大と婚姻し
翌年には竹千代(のちの徳川家康)が誕生。
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だが、『小豆坂合戦』で今川軍は織田軍に大敗。
さらに水野氏の家督を相続した信元が織田氏に服属したため於大を離縁。
新たに戸田康光の娘を妻に迎えるが、
天文16(1547)年には竹千代を戸田康光に奪われる。

広忠には、あまりに厳しい戦国の世であった。
それでも広忠には、今川軍先鋒として織田軍と戦う以外に道は残されていなかった。

天文17(1548)年の『第二次小豆坂合戦』では、
そんな広忠の思いが天に通じたか、織田軍に勝利を収めた。

松平氏の家運の上昇も、これからという矢先、
織田氏家臣・佐久間全孝が放った刺客・岩松八弥に暗殺される。
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ここに松平氏の三河国は今川氏に併呑される。

そして、広忠の暗殺された年に、
三河武士の織田軍への寝返りを恐れた今川氏は、
兵7000を動員し、織田信広を捕虜とし、竹千代との交換を果たした。
以後、三河武士団は幼主・竹千代とともに苦難の道を歩むこととなる。

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年表
父:松平清康、母:青木貞景の娘。

<大永6(1526)年>
 誕生。

<天文4(1535)年>
 12月、『守山崩れ』。

<天文5(1536)年>
 茂呂城、入城。

<天文6(1537)年>
 6月、岡崎復帰。
 12月、元服。

<天文7(1538)年>
 11月、『守山崩れ』以後の松平氏の騒動は平定される。

<天文9(1540)年>
 6月、織田軍、安祥城占領。

<天文10(1541)年>
 於大(水野忠政の娘)と婚姻。

<天文11(1542)年>
 8月、『小豆坂合戦』。
 12月26日、嫡子・竹千代(のちの徳川家康)誕生。

<天文12(1543)年>
 7月12日、水野忠政死去。信元(於大の兄)が水野氏家督相続。

<天文13(1544)年>
 9月、水野信元が織田氏に服属。
     於大を離縁する。

<天文14(1545)年>
 9月20日、『清田畷合戦』。

 戸田康光の娘・真喜と婚姻。

<天文16(1547)年>
 8月、今川氏へ人質として送った嫡子・竹千代を戸田康光に強奪される。

<天文17(1548)年>
 3月19日、『第二次小豆坂合戦』。
 4月19日、『明大寺合戦』。

<天文18(1549)年>
 3月6日、暗殺される(3月10日説あり)。法名・応政道幹。

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