和田義盛

わだよしもり (1147〜1213)

略伝

鎌倉時代。

鎌倉幕府侍所別当。

左衛門尉。

もともと三浦氏であるが、
相模国三浦郡和田に住んだことから「和田」姓を名乗る。

源頼朝が平家討伐の兵を挙げて以来、
常に側近として活躍し、鎌倉幕府成立当初の重臣として活躍。

関東武士を統率する侍所別当に就任する。

だが頼朝の死後、幕府最大の実力者北条氏との接近を図る。
北条氏とともに、二代将軍・頼家の持つ力を削ぐことに尽力し、
御家人による幕府の集団統治体制を作る。

また自身の権力基盤強化のため、
正治元(1199)年には、梶原景時を葬り去り、
北条氏の強大化を畏れ助けを求めてきた頼家を裏切り、
北条氏と結ぶなど生き残りと家勢を広めるために行動している。
 (注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたします
元久2(1205)年に勃発した『平賀朝雅の乱』は、
義盛にとって千載一遇の機会であり、
長年の宿敵・北条時政を幕府の表舞台から追いやることに成功する。
 (C)よろパラ 〜文学歴史の10〜
しかし、建保元(1213)年2月、『泉親衡の乱』が勃発。
義盛の子供たちをはじめ一族が事件に関与したとされ、胤長が流罪に処される。
同年5月、義盛は北条氏に対し決起するが(『和田氏の乱』)、
同族である三浦氏の裏切りにより敗北。

ここに和田氏はほぼ壊滅する。

     部はクリックすると説明ページが表示されます。


年表
父:三浦義宗。

<久安3(1147)年>
 誕生。

<治承4(1180)年>
 8月、源頼朝挙兵に従軍。
 11月、侍所別当。

<正治元(1199)年>
 12月、『梶原景時の乱』勃発。

<建仁3(1203)年>
 3月、二代将軍・頼家を裏切り、北条氏と結託。

<元久2(1205)年>
 閏5月、『平賀朝雅の乱』勃発。

<承元3(1209)年>
 5月12日、上総国の国司就任を願い出るが却下される。

<建保元(1213)年>
 2月、『泉親衡の乱』勃発。
 5月2日、『和田氏の乱』勃発。
 5月3日、戦死。

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜