北条時頼

ほうじょうときより (1227〜1263)

略伝

鎌倉時代。

鎌倉幕府第五代執権。

北条時氏の子。
母は松下禅尼安達氏)。
兄は北条経時
桓武平氏
北条氏得宗)。

北条時氏が六波羅探題北方に在任中、京で誕生する。

『宝治合戦』で有力御家人である三浦氏を滅ぼし、
北条氏による専制政治の下準備を整えた。
この『宝治合戦』では、三浦泰村は忠誠を誓い講和を望んでいたにも
かかわらず一気に奇襲をもってして滅ぼしている。

また得宗への反対勢力、もしくは敵対し得る勢力を、
悉く排除しているのが、時頼の時代の特徴とも言える。

前将軍・頼経と北条光時の謀反計画発覚に際しては、
これを機に評定衆内の反対勢力を一掃し、
特筆すべきは、「関東申次」を九条家から西園寺氏へと交代させたことで、
京への政治的意向を強く反映させることが可能となった。

また摂家将軍から宮家将軍へと切替えたり、
評定衆の下に引付衆を設置して幕府機構の強化も図った。
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時頼は治政において、
常に弱者を救済する政治を行い人気があった、と伝えられる。
ここから、廻国伝説が生まれ、
謡曲「鉢の木」「藤栄」「浦上」などが創作された。

疫病にかかった時頼は、
まだ幼少の時宗までの「つなぎ」として長時に執権職を譲る。
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しかし、病気が治癒してからは、
実権を時頼が持ち、長時の執権職は意味のないものとなる。
ここに「得宗」専制政治の萌芽が見受けられる。

「得宗」の基礎を固めた生涯であった。

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年表
父:北条時氏、母:安達景盛の娘(松下禅尼)。

<安貞元(1227)年>
 5月14日、誕生。幼名・戒寿丸。

<嘉禎3(1237)年>
 4月、元服。将軍藤原頼経よりから偏諱を受け「五郎時頼」と名乗る。

<暦仁元(1238)年>
 9月、左兵衛少尉。

<延応元(1239)年>
 11月、毛利季光の娘と結婚。

<寛元元(1243)年>
 閏7月、左近将監。

<寛元2(1244)年>
 3月、従五位上。

<寛元4(1246)年>
 3月、北条家家督相続、執権就任。
 5月、前将軍頼経、北条光時らの反・時頼の謀議発覚。
     先手を打ち、兵を動員し反・時頼勢力の動きを封じ込める。
     評定衆、関東申次などを粛清。
     これらの一連の騒動は「宮騒動」とも呼ばれる。

<宝治元(1247)年>
 4月、有力御家人・三浦氏を牽制。
 6月5日、三浦泰村を討伐。
 6月7日、千葉秀胤を討伐。

<宝治2(1248)年>
 5月28日、時輔、誕生。

<建長元(1249)年>
 6月、相模守。
 12月、引付衆設置。

<建長3(1251)年>
 5月15日、時宗、誕生。
 12月、足利泰氏の領地の一部を没収。

<建長4(1252)年>
 将軍藤原頼嗣を廃止。
 後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を将軍に迎える。

<康元元(1256)年>
 11月22日、執権職を北条(赤橋)長時に譲る。
 11月23日、出家。法名・最明寺入道覚了房道崇。

<弘長3(1263)年>
 11月22日、死去。

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