福島正則

ふくしままさのり (1561〜1624)

略伝

安土桃山〜江戸時代。

豊臣氏家臣。

三国志で言えば「張飛」であろうか。
経歴から見ても、その前半生は秀吉の為に尽くし戦い抜いたものであった。

豊臣政権が形成されていく中で
根っからの武将である正則と官吏派との対立は不可避であった。
そこに徳川家康は目をつけ豊臣政権を葬り去り
徳川幕府の武将派から官吏派への移行の際に他山の石とした。

福島正則は剛直の士ゆえ事件を起こすことがしばしばであった。
それらのいくつかは致命的な事件となった。

『関ヶ原合戦』直後、家康から京都の警護を任された際に事件は起きた。

正則は子・正之に300の兵をつけ先発させた。
その後、正則が正之に書面を送ることとなり家臣・佐久間加右衛門に行かせた。

だが京に通じる道は井伊直政の家臣・伊奈図書に封鎖されており
どうしても正之に正則の書面を届けることができなかった。

佐久間加右衛門は事の次第を正則に伝えると
主命を果たせず面目が立たずと切腹して果てた。
正則は佐久間加右衛門の切腹を許し仇を討つと約束する。

烈火の如く怒った正則は家康に伊奈図書の首を要求。
徳川方も困り果てたが今、福島正則の機嫌を損なうは不利益として
嫌がる伊奈図書の首を無理矢理討ち落とし正則に提出した、という。

また『大坂冬の陣』の講和の後、
自分の大坂屋敷に3万石の兵糧米を運び込み
有事の際には大坂方で自由に使えるようにしておいた。
 (注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたします
関ヶ原以後、加藤清正が徳川家康に臣従の姿勢を見せたのとは
明かに違う態度をとったあたりも福島正則らしいところである。

だがこれは来るべき時を確実に呼び込んだ出来事であった。
 (C)よろパラ 〜文学歴史の10〜
やがて広島城の幕府への無届修復がきっかけとなり領地は改易。
川中島に事実上配流となる。

年表
父:福島市兵衛正信、母:木下氏(秀吉の実父の姉)。

<永禄4(1561)年>
 尾張国海東郡にて誕生。
 幼名・市松。

<天正6(1578)年>
 播磨国三木城攻略戦。

<天正9(1581)年>
 因幡国鳥取城攻略戦。

<天正10(1582)年>
 山崎(天王山)合戦。

 9月25日、300石加増。

<天正11(1583)年>
 4月21日、『賤ヶ岳合戦』。
        「一番槍」「一番首」の手柄をあげる。

 6月5日、感状を受ける。

 8月1日、5000石加増。
       正則以外のいわゆる「七本槍」は、3000石の加増であった。

<天正12(1584)年>
 『小牧・長久手合戦』。

<天正13(1585)年>
 紀州攻略戦。

 伊予国今治城城主に就任。

 7月、従五位下左衛門尉に叙任。

<天正15(1587)年>
 2月5日、島津征伐戦。兵1200の部隊の指揮官。

 9月5日、伊予国湯月城城主(11万石)。

<天正18(1590)年>
 北条征伐戦。

<文禄元(1592)年>
 『文禄の役』。
 渡海し前線で兵5000の部隊の指揮を執る。

<文禄4(1595)年>
 尾張国清洲城城主に就任(24万石)。
 領地は、24万石となる。

<慶長2(1597)年>
 7月26日、侍従昇任。「羽柴清洲侍従」と称される。

 なおこの年の『慶長の役』では渡海しなかった。

<慶長5(1600)年>
 閏3月4日、石田三成を武将派と呼ばれる六人とともに襲撃。
         長年のライバル・石田三成を失脚させる。

 上杉征伐に出陣中、石田三成挙兵の報が入る。
 小山会議にて家康に忠誠を誓う。

 8月19日、徳川方の東軍先鋒として清洲城入城。
 8月22日、家康の命令により美濃国竹ヶ鼻城攻略。
 9月15日、『関ヶ原合戦』。

 11月、功績により安芸・備後、49万8000石。
     広島城城主となる。

<慶長7(1602)年>
 3月7日、右近衛中将。

<慶長12(1607)年>
 養子・正之を殺害。

<慶長15(1610)年>
 尾張国名古屋城普請に動員される。

<慶長19(1614)年>
 『大坂冬の陣』。
 正則は江戸に軟禁される。

<元和元(1615)年>
 『大坂夏の陣』。
 三男・忠勝を参戦させる(実戦には間に合わず)。

<元和3(1618)年>
 6月21日、従四位下参議。

<元和5(1620)年>
 6月9日、幕府から広島城の無届けによる修復を咎められ改易処分。
       接収に際し、徳川方では万が一を考え
       使者・永井直勝、安藤重信に
       毛利秀元、加藤嘉明、森美作、蜂須賀阿波らの兵をつけた。

       正則の家臣・福島丹波ら一同が一時篭城したが無事開城した。

 7月、越後国魚沼と信濃国川中島に
     4万5000石を与えられ信濃国高井郡に蟄居。

<元和6(1621)年>
 忠勝が死去。これに伴い越後国魚沼の2万5000石を返上。

<寛永元(1624)年>
 7月13日、蟄居先で死去。
        法名・海福寺殿前三品相公月翁正印大居士。


 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜